第43話 言霊

 どうしたら良い。

 僕は一体どうしたら良いんだ。

 結論の出ないまま、明菜ちゃんとあの人の顔が、浮かんでは消え、消えては浮かんで来る。


 普通に考えれば簡単なことなのだ。

 明菜ちゃんはこの三ヶ月間、ずっと僕が付き合いたかった人で、それが今実現しようとしている。

 悩む必要なんか全く無い筈。

 それがどうだ。あの人の名前が渡瀬奈緒美わたせなおみと知って、その友だちの円城寺いずみが二人の仲を取り持とうとしている。

 渡瀬さんは美大の二年生で、市川の真間に住んでいる。

 あの二人の間には何か秘密めいた香りが漂っている。

 うかつにも個人情報や謎めいたものに接したばかりに、僕は葛藤かっとうでがんじがらめになってしまった。


 いつの間にか僕は、始まったばかりの交際を、明菜ちゃんを傷付けずに終わらせるには、どうしたら良いかと考え始めていた。

 何故こんなことになってしまったんだ。


 魅力を感じなくなった訳ではない。

 寧ろ僕は明菜ちゃんを益々好きになっている。

 明菜ちゃんも、僕に好意以上のものを持ち始めているに違いないのだ。

 もてない男の代表だった筈なのに、どうして女の子を選ぶ立場になってしまったんだ。

 考えは堂々巡りを繰り返し、迷路の出口は全く見えなかった。


 店に居る時、思い出そうとして、どうしても思い出せなかったあの言葉を、僕は不意に思い出した。


『ことだま』

 確か言葉の「言」に、幽霊の「霊」を組み合わせて、言霊ことだまと書いたっけ。

 僕はいずみさんに言霊を仕掛けられたのだ……


 パソコン用の広辞苑によると、

『言霊とは、

言葉に宿っている不思議な霊威。

 古代、その力が働いて言葉通り、事象がもたらされると信じられた』とある。


 さらに世界大百科事典を引いてみると、項目の前半の記述部分には、

『言霊……ことばに宿る霊の意。

 古代の日本人は、ことばに霊が宿っており、その霊のもつ力がはたらいて、ことばにあらわすことを現実に実現する、と考えていた。


 言霊という語は、《万葉集》の歌に、三例だけある。

 山上憶良やまのうえのおくらの長歌に、〈そらみつ やまとの国は 皇神すめがみの いつくしき国 言霊の さきはふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり〉(巻五)とうたわれ、

《柿本人麻呂歌集》にも収める歌には、〈言霊の八十やそちまた夕占ゆうけ問ふうらまさいもはあひ寄らむ〉〈磯城島しきしま日本やまとの国は言霊のさきはふ国ぞまさきくありこそ〉とうたわれている。

 それらの歌によって、日本の国は言霊がはたらいて幸いをもたらす国である、といい伝えられ、そのような言霊のはたらきが信じられていたことがうかがわれる』

とあった。


 こうして調べてみると、言霊は僕が抱いていた怖いイメージとは違って、好い意味でも使われているようだ。

 しかも元々日本は言霊が働いて、幸いをもたらす国であると伝承されていた訳だ。


 僕は言霊を描いた、朱川湊人の短編小説が気になって探してみた。

 それは『花まんま』と云う、短編小説集の中に収録された『送りん婆』の中にあった。

『いくまつの、ちとせももとせ、へにけむと』で始まる長い呪文じゅもんを全文唱えると、聞かされた人は苦しむ事も無くあの世へ行くという、

怖くて、限りなく心優しい物語。


 何も起こらないと信じてはいるが、怖くて怖くて呪文の全文を読むことなどできない。

 非合理なものを否定したい癖に、怖くて避けたい気持ちが僕の中にあるようだ。

 馬鹿馬鹿しい。

 言葉自体にそのような力がありえようか。

 ましてや、円城寺いずみが言霊使いである訳などないのに、自ら言霊と云う見えない力に僕は縛られている。


 無性に腹が立った。そして唐突に結論が出た。

 明菜ちゃんを諦めなければならないと言うなら、渡瀬奈緒美に会う必要など無い。

 そばに居る明菜ちゃんをこそ大事にすべきだし、そうしたい。

 この至極しごく合理的な結論に疑問の余地は無い。

 僕は円城寺いずみに、次のようなメールを返信した。


『 円城寺いずみ様

          西田智也より


 いずみさんのお気持ちはありがたいのですが、僕には荷が重過ぎるようです。

 僕は今付き合おうとしている、君に名前を言う必要も無いのですが、中島明菜さんを大事にしたいと思います。


 考えに考えた末、会いたいと云う気持ちと、現実に会う事は別のことだと思いました。

 渡瀬奈緒美さんのことは、僕の夢の中にそっとしまっておこうと思います。  』


 あれだけ悩んだことなのに、送信したらすっきりした。

 夏の一夜の夢の如く、邂逅は記憶の彼方へと消え行くことだろう。

 三時過ぎにとこに着いた僕は、朝遅くまでぐっすりと眠った。

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