第37話 父の事務所のボーナス遅延の理由
もう一度、メールの文面を読み返してみると、僕の考え過ぎであることが直ぐ分った。
じゃあどうしようか。
文章の最後は単に、
「もしかして、あの子に興味ありますか?」
それだけだ。
返信をくれとは書かれてない。
ましてや、紹介するなどとは、一言も触れられてないが……
もう一度あの人に会ってみたい。
僕はメールに返信してみることにした。
『コンサートレポートの感想、ありがとうございます。
ところで、いずみさんのハンドルネームは何と言うのですか?
『灯火の間』でコメントしたことはありますか?
あの人も、灯火の大ファンなのでしょうか?
灯火のことで、ファン同士でお話が出来たら楽しいでしょうね 』
女の子との会話では、失点だらけで情け無い僕だが、メールなら少しは余裕がある。
いささか質問が多過ぎる嫌いはあるが、あの人に興味津々と観られる事だけは避けたかった。
手紙とかメールは、気を付けて読まないと本当の目的が分らない。
自分のメールを読み返して、そう考えた僕は、
相手もこちらの素性が分らない為、用心しているらしい。
相手のメールアドレスの@マーク以下を見れば、ヤフーのフリーメールであることは一目瞭然だ。
都合が悪くなれば、気軽に捨ててしまえば良い。
その夜の眠りも浅く、翌日はだるくて株価の動きに関心が持てなかった。
普段殆ど寄り付くことのないリビングで、テレビを観ていると、母がお菓子とコーヒーを運んで来た。
全体にふっくらした感はあるが、自慢の脚だけは相変わらず細い。
硬派で通している僕は、母の喜びそうなことを口にしたことは無い。
今日も黙っていた。
「智也、珍しいのね。
今日は株式、お休みなの」
「あまり値動きが無いみたいなんでね」
ウソだったが、株式のことなど母に分る筈も無い。
「今買ってる株って新日鉄でしょ。
ミタルと言う、世界一の鉄鋼の会社に狙われてるらしいじゃないの。
それって大丈夫なの」
(ポイントを突かれた。これは
「新日鉄は買収されないと思う。
もし狙われたとしても、市場は好材料と捉え、株価は上がるだろうしね」
「そうなの。
智也の買っている株が、下がるんじゃないかと思って心配してたのに」
「株式市場は、色々な思惑で動いているから単純じゃないんだよ」
「そんな訳の分らない世界で、本当にうまくやって行けるの」
「日経新聞も読んでるし、チャート分析もやってるからね」
「じゃあ、智也のことだけは心配しなくて良いのね。
良かった」
「何か外に心配事でもあるの」
母は目を逸らして「別に」と答えた。
父の事務所は、うまく行ってないのだろうか。
僕は母の横顔を追った。
「今年のお盆は、どうして里帰りしなかったの」
「去年帰ったからね、今年はやめておいたわ」
「毎年帰ってなかったっけ」
「そんなことないわよ」
僕の記憶では、母がお盆に岡山へ帰らなかったことは、この十年では一度も無かった筈だ。
僕自身は高校卒業後、親との同行を遠慮させてもらっていたから、母はそれで通ると思ったのだろう。
「この前事務所へ行ってみたよ」
「どうして。辞めてからも行くことあるの」
事務所と云う言葉に対し、母は即座に反応した。
「夏のボーナスが遅配しているって聴いたけど」
目が泳ぎ出し、母は横を向いた。
「今日は二三日だから、後一週間で九月になっちゃうよ」
振り返った、母の目が釣り上っている。
「智也が心配することないのよ。
A銀行が去年借りてくれって頼むから、仕方無くパパが融資を受けてあげたのに、満期日の七月末までに一旦全額返済してくれなんて、ホントバカにしてるわ。
当初の話では、一年毎の自動更新で、返済は気が向いた時にどうぞということだったのよ。
全然必要無かったお金だけど、パパはそれでベンツ買っちゃったのよ」
「あのベンツは融資で買ったんだ。
キャッシュかと思ってた」
「八百万もしたのよ。
その内の三百万が融資分で、先月返済したわ」
「国産で良かったのに」
「パパは見栄っ張りだから。智也は似なくて良かった」
母はそこで笑った。
三百万もの大金を、一括返済したのが本当なら、経営難ではなさそうだ。
僕はほっとした。
「従業員のボーナスはいつ出すの」
「いつになるんだろ」
母は
僕の観ている世界では、給与、賞与など人件費遅配などの、大きな悪材料が出たら株価即急落、株主に責任を追求された経営者は辞任必至だ。
その厳しい世界に比して、個人経営のぬるま湯に僕は呆れていた。
「お金、別の銀行から借りたら」
「金利の高いお金はパパは嫌いよ。
あの融資だって超低利だったから借りて上げたのよ」
「超低利だったら、誰でも借りてくれるだろうに」
「バカね。
超低利だからこそ、リスクのある所には貸せないのよ」
「という事は、父さんの事務所は信用度が高いってことだね」
「もちろんよ。
借り換え融資も紹介されたけど、前の融資の倍近いレートだったから、パパはぷりぷりのぷりんよ」
「そういうことか。でも人件費の遅延はまずいよ」
「そうなの?」
「事務所の人達も経営状態心配してるしね」
「馬鹿なこと!
ウチは十分儲かってるわよ」
「だったらボーナスの遅延理由と支給時期を、従業員に説明しておいた方が良いと思うけど」
「パパはそういうの苦手だから」
「だろうね……
ボーナス支給分として、今幾ら位足りないの」
「百万とちょっとかな。
智也が無利子で貸してくれる」
母は、そう軽口を叩いた。
「期間はどの位」
「冗談よ。智也がパパに百万円も貸せる訳無いでしょ」
ツボに嵌ったらしく、母は暫く笑っていた。
真面目な顔で、もう一度同じことを言ってみると、母は半年で返せるわと請け負った。
その顔からは笑みも消えていた。
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