第35話 携帯メールとPCのEmail

 そこまで考えて、あの人のことを思い出した。


 あの人は何故そのまま行ってしまったのか。

 まあ、あの場に残る方が不自然かw


 僕の手に二度も触れたことに、何か特別な意味があるのか、無いのか。


 明菜ちゃんが言う、自分を捨てた状況だとしたら、あの人の過去現在未来とは、一体どんなものなのだろうか。


 明菜ちゃんよりも、僕は、あの人のことがずっと気になっているようだ。

 どうしてなのだろう。

 あの人のどこにかれたんだ!


 パソコンを閉じて、ベッドに入った後も、あの人の白い横顔と、大きな目と、手が触れ合った刹那の記憶が、いつまでも、いつまでも睡眠を妨げていた……



 翌日の火曜日は、

明菜ちゃんがよそよそしくて、

かつてとても短かった筈の二時間は、気詰まりで異常に長くなった。


 目を合わせようとすると、

途端に明菜ちゃんの視線は逸れて、別の作業を始める。

 タイミングの問題では無さそうだ。

 それ位は鈍感な僕にも分る。


 その日の東京株式市場オープン中は、株に集中しようと思っていたのに、散漫な気分が続き売買の見切りができなかった。

 後は漫然まんぜんと、書き掛け小説を見直してみたりしただけで、何かをしたと云う実感がまるでなかった。

 だから、

『今日こそは明菜ちゃんと話す』と云うテーマを持ってのぞんだのにまるでダメだった。


 レジを締めた後の現金計算は中々合わず、家に戻れたのは日が変わる寸前だった。


 風呂でも入るか、と思った矢先の午前零時に、携帯メールの受信音が鳴った。


 この数ヶ月間、オンライン証券会社以外から、僕に携帯メールが来た記憶はない。


 恐る恐る携帯を開いた。

 表示名は『中島明菜』

 僕は瞬時に思い出した。

 この手があったかと、バカな自分がくやしかった。


 お酒を飲んだ夜、お互いの携帯メールアドレスを交換したんだ。

 パソコンのEメール交換なら、以前かなりやったことがある。

 タイピングはできるが、親指が巧く動かない僕は、数少ない友人とも携帯メールのやり取りはしなかった。


 そんな訳で、明菜ちゃんにメールすると云う、なんでもないことを思いつかなかった。

 それどころか、酒酔いのせいで携帯アドレス交換のことも忘れていた。


「メールは迷惑なんでしょうか?」


 携帯メールをしなかったこと自体がまずかったのか!

 メール文を見た瞬間に大いに焦った。


「全然迷惑どころか! とても嬉しいっす!!」

 明菜ちゃんのメールに絵文字が無いのは、多分怒っているからで、

僕のものにそれが無くて、ビックリマークが多いのは、勿論慣れてないせいだ。


「ふうん…」

 明菜ちゃんの返事は早いが短い。


「怒ってますか?」

「別に…」

「怒ってるじゃん」

「別に…」

「明菜ちゃんは今何してるの?」

「メールしてる」

「あの時酔ってたから、メルアド交換したこと忘れてた」

「だから?」

「俺、普段は携帯メールしないから、メール連絡できることを全然思いつかなかった。

 四つ年上のおっさんなんだから勘弁して…」


 「だから?」に対する返事、たったの3行か4行を打つのに、三分位掛かったような気がする。


 その返事はこうだった。

「じゃあ今電話して」


 勿論僕は明菜ちゃんに電話した。


 電話の向こう側で、明菜ちゃんは笑いを噛み殺しているようだった。

 大した話をした訳じゃないけど、明菜ちゃんは最後にこんなことを言った。


「何日もメールも電話も来ないからどうしたんだろうと思ってた。

 でもね、智也さん多分携帯メールに慣れてないんだろうなって気付いたの。

 だからさっきのメールは練習。

 もうメールできるよね」


 僕はできると答えた。

 長いメール文を送る時は、パソコンのキーボードで入力するとも答えた。

 しかし即座に、いつも持ち歩く携帯のメールに慣れるのが大事だよとダメ出しされた。


 たった十分間の違いで、僕の気分は暗がりから、眩しいほど明るい世界へ押し出された。

 劇的な材料の飛び出した注目銘柄みたいに、明菜株のチャートは、急降下から見事な反転を見せ急騰きゅうとうする。


 女の子と云うものは、なんて分り難くて面倒で恐ろしい生き物なんだ。

 その癖、なんて興味深くておもしろい存在だろうか。

 そして漸く気が付いた。

 激しいチャート変化は、

二人の仲の進行度合いを示すと言うより、

明菜ちゃんの心が読めなくて、翻弄ほんろうされる、僕自身の感情変化そのものであることに。


 帰った時には、風呂に入ってそのまま寝るつもりだったのに、深夜の携帯メール交換と電話までして、さらにパソコンを立ち上げていた。

 ブロンドヘアのグラビアの壁紙が、ディスプレイ一杯に映し出された。


 コンサートレポート記事に対して、新しいコメントはなかった。


 それならEメールチェックでも済ませておこうか。

 僕に届くものと言えば、せいぜい「出会い系」の迷惑メールが殆どだが、それらを削除して整理整頓することも必要だ。


 どうして、数十通もの迷惑メールが、毎日配信されてくるのだろう。

 いつか覗き見た、怪しいサイトのせいか、以前利用したDVDの、通販サイトからアドレスが流出したのか。


 フリーのフィルタリングソフトで、迷惑メールの大半は専用トレイに整理されるから、これをばっさりと削除すれば良いだけだが、

慎重派の僕には、適当にばっさりなど到底できる訳がない。

 大胆になれたら良いのにとは思うが、根っこの性格は中々変わらない。


 ごく稀に、アマゾンやヤフーから送られて来る、僕の読みたいものが迷惑メールに判定される。

 必要な個人的メールが、そう判定されないとも限らない。

 だから僕は一、二分掛けても、送信者名と件名だけには、ざっと目を通すことにしている。


 今日の迷惑メールトレイの中身に、判定ミスは見当たらなかった。

 しかしながら、いつも通り、普通受信トレイの中には、迷惑メールが幾つか混じっている。


 チェックして行くと、気になるものが一通見つかった。

 個人を装う迷惑メールは急増中だが、これは件名からみて違うようだ。


 名前は円城寺いずみ、件名には『埼玉のコンサートのことですが』とある。


 誰だか分らない人から来たメールに、僅かな不安を感じながら、僕は思い切ってそれを開いてみた。




第2章 「邂逅と再会」前編 完了



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