第29話 明菜ちゃんの恐怖

 バンドのメンバーが、全てステージを去った後、

一人残った灯火は、最後に深々と客席に一礼する。

 そして、顔を上げて、手を振りながら、颯爽さっそうとして奥へ消えた。


 灯火が去った後も、

落涙を抑えてうつむいていた僕は、

明菜ちゃんに促されて、気がついたように帰り支度を始めた。


 右隣のカップルはうに帰ったようだ。


 左側のカップル達も、帰り支度を終えていて、僕達が席を立つのを待っている。


 気まずい雰囲気の中で、

僕はふらふらと席を立ち、

明菜ちゃんと肩を並べて、

とぼとぼと通路を歩いて行く。


 雨の降らない、300レベルからの帰り道は、

昨日と較べてかなり楽だった。

 灯火の心配をする必要が無い分、気も楽な筈だったのに、

僕達は僅かな会話さえままならず、

ただ歩いていた。


 それもその筈だ。

 明菜ちゃんをラスト三十分もの間、ずっとほっておいたのだから。


 僕から謝罪しなければ、

二人の会話など始まる訳が無かった。


 明菜ちゃんは、それを待っているのかも知れない。


 そんなことすら思いつかなかった僕は、どうしようもなく未熟な男だ。


 その上、この状況に至っても尚、僕はあの人のことを考えている。

 ずっと交際したかった相手は、直ぐ隣に居る明菜ちゃんではなかったのか!


 自分自身にむしょうに腹が立った。


 デートに誘った明菜ちゃんが隣に居るのに、

灯火に没頭ぼっとうして、

一人ぼっちにしておいたばかりか、

最後には、見知らぬ女に心を奪われている。

 全く救いようが無い。


 こんな奴に、彼女居ない歴を断ち切る資格なんてある筈が無い。


 奇跡的な灯火の大逆襲。

 それを目にできたというのに、

その喜びどころか、

今や迷える子羊、

路頭に迷うホームレス、

行き先も帰る家も見失った伝書鳩、

の如きで、自分自身が情けなくて、

明菜ちゃんに掛けるべき、

言葉の一つさえも全く思い付かなかった。


 何のプランも無く、駅のホームに辿り着いた僕たちは、

間も無くやって来た、東京方面行きの電車に乗り込んだ。


 コンサート終了後、直行して来た割には、さほど混雑してない車内で、

出入り口とは反対側のドアへもたれ掛かると、

明菜ちゃんと目を合わす形になった。


何か言わなければならない……


「明菜ちゃん、ごめん」


 明菜ちゃんは僕の目を見たが、何も言わなかった。


 僕は別の言葉を思い付かず、もう一度同じセリフを繰り返した。

 長い間があいたが、今度は彼女も口を開いた。


「灯火ちゃん達が、

ステージ奥へ消えた後も、

智也さん 暫く顔を上げなかったね」


 僕はただ頷いた。


「泣いてたの」


 再び小さく頷いた。


「あの人の連れの男、

ずっと智也さんをにらみつけてたんだよ。

私 怖かった」


 コンサートの終盤、

ずっとほおっておいたことで、怒っているものとばかり思っていた僕は、

明菜ちゃんが何を言ってるのか、暫く意味が分らなかった。


 漸く「あの人」の意味する所を知り、

その連れの男が、とった態度に思い当たった。


 ぼんやりと見ていると、

明菜ちゃんは、

僕が男の様子を訊きたいと思ったようだ。


 一方で僕は、顔を赤らめてないかと心配だった。


「あの女の人は先に行っちゃったから、

男はあの人の行方を気にしながら、

バカヤローとか言って、

すぐ追い掛けて行った。

 私ほっとしたんだよ。

 でも凄い顔付きだった」


 明菜ちゃんは白っぽい顔をしている。


 思い出してまた怖くなったみたいだ。

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