第28話 フィナーレと右隣の女

「♪

 七回コールで繋がった

 声を出さずとも、君は知る

 気持ちを伝える息遣い

 君の気持ちも伝わってくるんだ  ♪」



 当時、僕は近所の書店で立ち読みしていた。

 流れてきたメロディと、その歌声に、思わず耳を傾けた。


 斬新なメロディ、親近感のあるフレーズ。

 僕は聞き入った。

 初めて聴いた時から、強く惹きつけられる歌だった。


 それが、八年近く経った今でも、変わらずに最高だ。


 懐かしいメロディを、

聖水の様に注がれ、不純物を流されて、次第に無垢むくになっていく。


 今でも特別な、オートマモードを歌い終え、

大声援を贈られた灯火は、

明る過ぎるほどのステージで、

短いMCを挟んでから、バンドメンバーの紹介を始めた。


 最後にギターのこんさんを紹介した時。

 既にお馴染みの仕草なのか、

キツネの影絵を、二人して指先ポーズで作り、

「コン、コン」

と言いながら、

指先チュッチュで会場をいやしてくれた。


 歌っている時は肉眼で見ていたが、

リラックスした灯火の表情は、双眼鏡でしっかりと捉えた。


「素晴らしいお客様が、

ここ埼玉に集まって一つになって、

とても素敵なコンサートになったこと。


 考えてみれば、奇跡的なことだと思うけれど……


 奇跡は永遠には続きません!


 次が正真正銘のラストナンバー

『ライトニング』です 」


 会場全体からお約束通りの、

「え~!」

というブーイング。


 みんながみんな、心地よく満足感に浸っている。


 確認するように、全体を見渡した灯火は言葉を継いだ。


「『ライトニング』は、今、最も好きな歌です」


 ステージは歌のタイトルとは違って、

安定感のある光に満ち溢れ、

ボーカルと演奏が同時に始まった。


 僕は双眼鏡を膝の上にそっと置いた。


「♪

こんな時が来るなんて

昨日までの私は知らなかったよ

運命の迷路に、

閉じ込められてた私

光の柱がまばゆいた、すぐ後で

その先をほのかな灯火ともしび

どこまでも

照らしてた♪」


 ラストフレーズの

「照らしてた」で、

切ない声の響きを、すぱっと断ち切って、

全ての音が止まる。


 短い『間』によって、

行き先を知らぬ奔流ほんりゅうが、

一旦 き止められて、

次のフレーズと共に、

川幅を拡げ、方向を定めてゆったりと流れ出して行く。


 なんて良く出来た旋律せんりつ構成なんだろう。


 音と言葉の流れに乗っかって、僕の感情も次第に高まっていく。


「♪きっとうまくいくよ♪」


 このフレーズでまたじんと来る。


 体内にも体外にも、温かいものを感じていた。

 正体は分らないが、何か伝わって来るのが分る。

 不思議な気分だ。



「♪君の放つ淡い灯火ともしびに導かれ、

私はようやく出口を見つけられた♪」


 灯火とうかの歌声が、

そのフレーズに差し掛かった時、

ふと気がついた。


 自分の右手に少し暖かい重みを。

 そこにはハンカチと、その上に添えられたほっそりとした手があった。

 右下を見た僕の視線は、疑問を含みながら上を向く。


 その人は暗がりの中で僕の目に焦点を合わせると、瞬きを数回繰り返してから立ち上がった。

 小さな重みが消えた僕の右手には女性が使うハンカチが残された。

 その時涙がこぼれ落ち、ハンカチの意味を知った。

 ハンカチで涙を拭いた僕は、そのまま無意識にそれを自分のポケットに入れた。


 これまでの二時間近く、右側のカップル席を振り返ることはなかった。

 聞こえてくるのは二座席右にいる耳障みみざわりな男の声だけだったから、その人を意識したのはこれが初めてだった。

 ほっそりとした体形、カラフルで個性的な衣服、大きな目。

声はどんなだろう。


 ごく短い時間静寂せいじゃくが支配した僕の耳に、灯火の熱唱と強烈な演奏が、そして万雷ばんらいの手拍子の響きが戻って来た。

 灯火は今、アンコールのラスト曲を歌っている。

 会場全体が一つになるべき時間帯であることを思い出した僕は、ぎくしゃくと立ち上がった。


 その人とは反対側の左側には、僕の大切なれがいた。

 ステージの灯火に熱中するあまり、僕のそんな様子には気づかなかったのか、連れはうにスタンディング体勢に入って、首を揺らしながら、会場全体と一つになって大きな手拍子を打っていた。


 その人はステージの灯火を真っ直ぐ見詰めたまま僕の右手に再び触れた。

 反射的に引っ込め掛けた手を意識して止めた。

 冷たいが柔らかな感触。

 その人に取られた僕の右手は引上げられ、その位置でそっと離された。


 立ち上がっただけで、僕はしばらくぼおっとしていたらしい。

みんなと一体になって手拍子を打てという意味に受け取れた。


 引き上げられた右手の高さまで左手を引上げ、素早くリズムを計り、僕も手拍子を打ち始める。

 ステージの灯火を見詰めながら、灯火の熱唱を聴きながら、灯火と一緒に口ずさみながら……それでも時折ときおり、僕は右を気にしていた。


 その人は二度とこちらを振り返らなかったし、連れの男が奇妙な表情で見ているのが分った。

 もう右を見ることはできなかった。

 違う視線を感じて左を見ると、手拍子を打つ連れの顔の中にも似たようなものがあった。


 一体僕は何をしているんだ。さっきまであんなにも灯火にひたりきっていたと云うのに……


 手拍子を打ち続け、灯火と共に口ずさみ、アリーナに満ちた熱気に浴され身を任せると、次第に灯火と一体となり自分が消えて行くようだ。

 僕の中のノイズはようやく霧散むさんした。

 既に「ライトニング」の終わり近くになっていた。


 アンコールのラストナンバーが終わるやいなや、一万八千人の大喝采だいかっさいが、うなりの大津波となってステージへ向かって押し寄せる。

 灯火とバンドメンバーが、歓声かんせいと拍手に応えて気持ちよさそうに手を大きく振っている。


「「「とーかー」」」

「「「トモー」」」


 やや悲痛味ひつうみを帯びた嬌声きょうせい野太のぶとい叫び声が、仄暗ほのぐらい大空間のあちらこちらから飛び交った。

 純白の光に満ちた大ステージには、おびただしい量の紙吹雪が水色と黄色に輝きながら舞い散っている。


 精一杯の拍手を贈りながら、遠く小さな灯火の中に、双眼鏡無しでは見える筈の無い満面の笑みを見出した。

 始まる前までは、があるから、今日の灯火がどうなるのか不安で一杯だった。

 昨日のフィナーレと少しだけ違う、

その満面の笑みは、

灯火自身が不安を乗り切った喜びだ。


 最後まで灯火は僕達と自分自身の為に歌い切ったのだ。

 僕はまた涙をためていた。

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