第25話 ステージ中断
間も無く、次の曲のチェロ演奏が始まり、場内はひっそりと静まった。
『叶わぬ願い』
僕は遠くのチェリストに対し、できるだけ控え目に演奏するよう願ってみた。
灯火が熱唱し過ぎなくても良いように。
そんな僕の願いは叶う筈もなく、、、
「…………
♪願わなければ、そう、
何も願わなければ
失うものなど無かった、
そう、無かった筈だよ♪」
ダメだ……何て高い音階を使うんだ!
この歌が終わった時もまた、
哀愁を帯びた叫び声が、
会場のあちらこちらから、
憎いほどに絶妙な間を置いて、
投げ掛けられた。
灯火の喉が、今にも
叫びたくもなるし、叫ばなくてはいられないさ。
声にこそ出さなかったが、僕も心の内で叫んでいた。
右の方から、またしても、
灯火をバカにする、あの男の声が聞こえて来る。
いいかげんにしてくれ!
チェロパートのラストは、
「色彩」だ。
「…………
♪黒い空に白い星、
青い空に白い雲、
夕日が染める赤い雲、
教えて今の君は、
何色をしてるの♪」
キーが高過ぎる!
天にまします神様は、
ここのみんなの祈りなど、
ただの一つも叶えはしない。
なんとチェロパート三曲全滅!
高過ぎたパートは、殆ど下げちまった。
これが仮に、新しいアレンジだと云うなら、
メロディ的には今一としても、
それを受け入れるしかないが、
これはアレンジなんかじゃなかった……
十三曲目の「色彩」が終わると、
灯火が、チェロ奏者の名前を、客席に紹介する。
名演奏を終えたチェリストは、惜しみない大拍手を贈られる。
心地好い、疲労感と充足感の中で、ステージを静かに退場する。
そのように運ぶ筈だった……
ところが!
「時間を二分だけ私に下さい!」
「色彩」を歌い終えた灯火は、
昨日は言わなかったことを、
ここで宣言した!
灯火は、そのまま、ステージ奥へと小走りに消えて行く。
バンドマンとチェリストは、灯火の背を見送った後も、
その場に立ち尽くしていた。
会場は一時ざわめいたが、一人一人が自制した結果なのか、
それ以上ざわめきは広がらなかった。
誰もが
事態を見極めようとしている。
えも言われぬ緊張感が漂っている。
「灯火ちゃん、どうしちゃったのかな」
明菜ちゃんは、ステージを見詰めながらそう呟いた。
「 分からない。 どうしたんだろう 」
僕は、その横顔を見やってから、
ぼんやりした感じで答え、次の様に付け加えた。
「たぶん、喉の調整とか、しているんじゃないかと思うけど」
「きっとそうだよね」
明菜ちゃんは、不安混じりで、曖昧な微笑を見せた。
長く感じる。
時間が止まっている。
せいぜい二分か、三分位なんだろうが。
騒がしくなる。
そう予想した客席は、まだ落ち着いている。
不安を押し殺しながら、
元気な灯火が、ステージに戻って来ますように。
じっと胸で願う気持ちは、ここに居る誰もが同じだろう。
同期する心情が、仲間意識を
ここに一緒に居ること。
それが何となしに嬉しかった。
「トイレじゃねえの。
きっとうんこだ。
間違いないぜ」
とんでもない大馬鹿が、
たった一人だけ、ここに紛れ込んでいた。
赦せない言動に、爆発しそうだ。
震える右の握りこぶしに、左手を被せて、大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。
首を下げて、もう一つ深呼吸。
どうにか、
明菜ちゃんが小声で叫んだ。
「あ、出て来た!」
顔を起すと同時に、会場から大拍手。
「とうかぁ!」
同じ呼び声が一斉に湧いた。
オープニングの時に、負けない位それは大きくて、目頭が熱くなった。
マイクの前に立った、灯火の顔は予想外に明るい。
深刻な事態ではなかったのか。
灯火は、会場のあちらこちらに視線を送って、歓声が静まるのを待った。
客席は、次第に、話を聞こうと云う感じで落ち着いて来る。
灯火は深呼吸した。
「みんな~ 心配掛けちゃってごめんね!」
灯火はそこで一旦切って、周囲をぐるりと見渡して行く。
「すっげぇ心配しちゃったよ~!」
野太い声が一つ。
会場がどっと沸く。
僕の緊張も幾らか解けた。
灯火は、声の方向を見て、ふっと笑った。
「今日は、声がよく出なくて、ホントにごめん!」
灯火はここで目を伏せる。
灯火にとって、口にするのがとても口惜しい言葉。
知ってか知らずか、会場がしんとなる。
灯火は顔を上げて、満面の笑顔を見せた。
「でも、もう大丈夫だよ!
ここから最後まで、
うんと飛ばして行くから、
よろしく!」
割れんばかりの拍手喝采。
痛くなる位、僕も手を叩いた。
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