第22話 耳障りな男、静かな女

 特定の、少数だけがいだく不安を他所よそに、前日と同じく、三方さんぽうのスタンド席から、間髪入れぬ大喝采が沸き起こった。


 一呼吸置いて、グランド100レベルの、熱烈ファンの集うアリーナ席から、半歩の出遅れを取り戻そうと、よりエネルギッシュな大拍手と歓声が爆発した。


 上がり切るまで、静止した灯火は、白く輝く等身大のフィギュアだ。

 突然フィギュアに、命が吹き込まれた。

 灯火は一歩二歩と前へ出て、大きく息を吸って顔を起こす。


「♪思い出せば右に左に~ あの地は どこまでも広がっていた~♪」


 いきなり、ピーク音から入った、ワンフレーズが不安を吹き飛ばした。


 素晴らしく伸びやかな発声。

 喉や声帯の状態異常など、微塵みじんも感じさせない。

 歌が進むにつれ、杞憂きゆうだったことが嬉しくなった。


 会場は、灯火のバラードを、じっと聴き入り静まった。

 僕の気分は、会場と同期し始めていたのだが……


 スタート直後の、集中すべき時間帯なのに、遅れてやって来たカップルの、男の声は、相変わらず僕の耳に響いていた。


 彼なりに幾らかトーンを落としたようだが、穏やかな気分が再びざわめき始める。


 よくしゃべるヤツだ。

 会話音量に、他人への配慮が感じられない。

 注意していた訳じゃないが、やって来た時から休まずに喋りぱなしだろう。


 比べて、僕の直ぐ右隣の、女の声が全く聞こえてこないのが不思議だ。

 女が男と同じ様に、声高こわだかに喋っていたら、きっと僕は癇癪かんしゃくを抑え切れず、強く注意したことだろう。


 男が隣合わせにならなかったのは、多分幸福な偶然だった筈だ。


 頭の中の僕は、右で喋り続ける男をぐっとにらみつけた。


 ひるんだ奴の口を両手でふさぎながら、耳元で

「二度と口を利けないようにしてやろう」と囁き、細く強い針の息を、耳の中へ吹きつけた。

 影みたいにぼんやりとした男は、それきりぐったりとして静かになった。


 現実に返ると、男と僕の席の間には、石のように静かな女がいた。


 仮に男が隣席だったとしても、この場で乱暴なことができる訳が無い。

 それ以前に、そんな力も、勇気も、僕は一切持ち合わせていない。

 笑えるぜ、全く。


 実は、男も連れの女も、暗がりの中で彼らが遅れてやって来た時以来、僕は一度たりとも見ていない。

 この先も、彼等を見ることはない。


 さえずり男と一旦目が合えば、大切な明菜ちゃんの目の前で、にらみ合いや、口論になるかも知れない。


 そこまで行かなくても、重苦しい気配が支配すれば、二人のデートはこれ切りで終わるだろう。

 僕はそれを強く恐れていた。


 灯火に集中し直してみても、胸のざわめきは飛び火した。


 早くも二曲目で、低いパートの「♪this is dream, but it comes true♪」で、声が前に出て来ないと感じたからだ。


 三曲目の「3 days trip」は良くなった。

 リズム、メロディなど歌の持つ楽しさと、灯火自身のノリノリのステージメイクがベストマッチだ。


 昨日に負けない盛り上がり。

 灯火は、好不調の振幅を繰り返している。


「すごぉーい。灯火ちゃん、超可愛い~」


 抑制の効いた小さな声で、明菜ちゃんは喜びを表現した。

「3 days trip」は最高だ。


 間奏でステップしながら、手拍子する灯火に、すっかり魅了されたらしい。

 明菜ちゃんは双眼鏡を下ろし、さっきと似たフレーズを口にして、同意を求めるように、僕を振り返った。


「せやろ」

 思わず関西弁が飛び出した。


 明菜ちゃんは「え」と云う顔をした。


 意外な一面を見つけて、余程よほど嬉しかったのか、僕の左肩に触れそうな程、顔を寄せて、小さく、くすくすと笑った。

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