第19話 下の名前で

 もう少しだ。

 僕はもう一度、ポリ袋の中を覗きこんだ。


「三色味おにぎりじゃん。

 これ好きなんだ。

 ウチでは、廃棄処分になったおにぎりしか食べないけど、これだけはローサンでお金出して買うよ」


「ウチのは買わないの」


「夕飯代は節約することにしてるんだよ。

 でもローサンでバイトしていたら、これだけはきっと買うかも」


「どうして」


「廃棄処分を待っている内に、全部売れちゃうっしょ」


「売れないように、カウンターに隠しておけば」


 そうツッコミを入れた、明菜ちゃんには自然な笑みが浮かんでる。

 やったぜ!


「ワルだなぁ。そこまでは頭が回らなかった」


 僕も笑ったが、ぎこちなかったのは寧ろ自分の方だった。


「ウチのカレー弁当も、入ったら直ぐ売れちゃうよね」


 明菜ちゃんから先に話が出始めた。

 もう大丈夫かな。


「カレー弁当の売れ行きは知ってるけど、あれ食べたことない」


「今度、買って食べてみたら」


「それは僕の主義に反するからダメ」


「どんな主義なのよ、智也ともやさん」


 明菜ちゃんは、この日初めて、

と言うより、これまでで初めて、

僕のことを下の名前で呼んでくれた。


 嬉しくて、それを指摘してみたかったが、止めておいた。


 他人行儀な「西田さん」という呼称。

 そんなものに、逆戻りさせる危険を、あえて冒す必要はない。


 明菜ちゃん自身は、それに気付いているのだろうか。


 それは分からなかったが、その後も度々、「智也さん」と僕を呼んだ。


 沈黙以前と較べれば、まだ固さが残ったが、その後も少しずつ二人の会話は進んだ。


 それでも僕には、女の子の気象変動は早すぎて、5分先の予報すらできないという思いが残った。



 横須賀線の人身事故のせいで、会場入りは開演五分前になった。


 それでもその時刻に入れたのは、この日のチケットが、外周スロープを使う必要がない、スペシャルな三〇〇レベルだったから。


 そう言いたい所だが、

実は開演間際では、整理の都合上、全ての客を正面のAゲートから入れるらしい。


 その、唯一の入口はかなりの混雑を見せていた。


 僕たちは、正面Aゲートへ、右寄りのルートを取った。


 ゲートが近付くにつれ、右手にたくさんの花が飾られているのが見えてくる。


 芸能関係者からの贈り物だろうが、残念ながら、悠長ゆうちょうに花を眺めて、灯火の交友関係を論評している時間は無い。


 それでも華やいだムードだけは味わえる。

 左の方へ並んだ人たちと較べて、少し得をしたような気分だ。


 昨日厳しかった手荷物検査は、

切羽詰せっぱつまった時間帯では、かなりのおざなりだ。


 個々の係員によって違うのかも知れないが、僕らの列の周辺では、ぱっぱぱっぱと、雑な検査が行われていた。


 チェックよりも、早く会場内へと誘導したいらしい。


 カメラとか録音機を持ち込もうと企む人達は、経験的に状況を察知していて、この時間帯を狙って会場入りするに違いない。


 いっその事、手荷物検査など止めてしまえば良い。

 そう思った。


 ゲートを通ると、左手の先の方にグッズショップがオープンしている。


 買い物をしている人は見当たらないが、明菜ちゃんは、そこで立ち止まった。


「灯火ちゃんグッズを観て行きたかったなぁ」


 明菜ちゃんはショップと僕の目を交互に見た。


「ツアーのWebオンラインショップで、ここにあるものはどれでも買えると思うよ」


 口惜しそうな、それでもキュートなその顔は、この日初めて会った時と同じ位、明るい笑顔になった。


 女の子は複雑そうに見えるけど、なんて単純なんだと、この瞬間だけは感じた。


 依然として今の僕にとっては、女心は雲を掴むようなものでしかない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る