第5話 中島さんを誘う

 考えてみれば中島さんは僕に対してだけではなく、誰に対しても感じが良いだ。

 他のバイト仲間に対しても、お客様に対しても、いつでも笑顔を絶やさない。

 職場の花って云うのは彼女みたいな人を指す言葉だろう。

 そう思うと、僕に対する特別な笑顔の「特別な」という形容詞自体が妄想のような気がしてくる。

 それでも同僚の松尾君に対しての笑顔と、僕に対するものには明らかな違いがある。それだけは自信を持って言い切ることができるさ。


 第一、仕事のことで分らないことがあると、中島さんは決まって僕にく。

 松尾君や杉村さんに小難しいことを訊いている所は見たことがない。

 しかしそれさえもよく考えてみれば、僕が店で一番の古株で、歳も松尾君より一つ上だからかも知れない。

 杉村さんの場合、お母さんみたいで頼もしくは見えるけれど、コンビニの商品管理システムのことを十分に理解しているとは言えまい。


 それにしても僕が仕事を覚えるのに要した時間からすれば、まだ二十歳にしかならない中島さんはかなり物覚えが良かった。

 店に来てはや三ヶ月になった今では、システムも含めて全てのコンビニ運営業務を要領よくこなし、動きに無駄がなく何年もこの仕事を続けてきたベテランのようだ。

 身長について言えば一七二の僕と釣り合いの取れる推定一六二、三。細過ぎず太過ぎず、出るべき所は出て締まるべき所は締まっていてバランスが良い。

 顔はやや細面ほそおもてで切れ長の目がセクシー。


 何事にもてきぱきと動く中島さんは、午後六時の帰り支度も見事なまでに素早くて、時々は彼女がやるべき仕事が僕に残されることがあるけれど、それ位はどうってことない。

 そんな時、やや甘え声で彼女は言う。


「ごめんね、今日は前のシフトの人から引継ぎが多くて、この仕事だけ残っちゃったんだ。西田さんにお願いしても良いですか」


 僕は喜んでその仕事を引き受ける。

 少しずつでも、そうやって二人の仲が深まっていけば良いなとも思う。

 そう言えば、彼女はその手のことは僕にしか頼まない。信頼されていると思うととても嬉しかった。


 中期的なチャート変化で見て、二人の距離が縮小傾向にあることは確実だが、携帯番号すらまだ知らなかった。

 この日が平和について考えるべき一日であることを、すっかり忘れていた僕は、灯火とうかのライヴコンサートの件を切り出してみて、彼女も灯火ファンだったことが初めて分った。

 結局彼女は十八日の金曜日なら都合が良いと言ってくれたのだが、その笑顔には微妙な迷いが含まれていた。


 確保できてないとは言え保険を掛けていて正解だった。

 例の出品に対し、もし競争入札者が現れたら、経済制裁については当然見直すべきだろう。

 世界の政治情勢は刻一刻と変化するのだから、現実的に対処しなければならない。

 これは風見鶏や日和見ひよりみではなく現実主義だ。

 彼女の承諾に例え迷いが含まれていたとしても、現実主義では可とすべきだろう。


 それにしても株式投資において、買ってみなければ株価の微妙な動きを感じ取れないように、女性もアプローチしてみて初めて感じ取れるニュアンスがあると気が付いた。

 現実主義に徹することは難しい。


 気弱な僕は既にこの時点で、中島さんとの仲がそれほど進展しないだろうと予測し、少なくとも灯火のコンサートだけは、友達として一緒に楽しもうと考えていた。

 寂しかったが、知りたいと願っていた彼女の携帯番号は、この日ようやく手に入った。

 関係は無いと思いたいが、彼女を誘った日が「終戦記念日」だったのは、結果的に見てあまり良くなかったかも知れない。

 僕の中で始まったばかりの小さな恋のファイトは、早くも平穏に終息しようとしていたのだから。

 現実的悲観論者!



 十七日木曜日は、ペアチケットを持って一人で出掛けることにした。

 土日の担当者は木金とのシフト交換を喜んで引き受けてくれた。たまには週末を満喫したいと思うのは誰しも同じか。


 天候ははっきりしないが新日鉄は大きく上昇。

 後場に入ってから、持ち株の内、八月十四日に買建かいたてたばかりの七千株を信用返済売りして、税金、金利、その他諸経費を除き、正味六万五千円の利益確定。

 午後三時の時点ではかなり気分が良かった。


 「株式投資日記」のブログに、本日の大引おおびけの様子や投資成績などの新記事を投稿し終え、午後四時過ぎの稲毛発快速電車に乗るつもりで、ゆっくりと出掛ける準備に入った。


 三時四五分頃イエデン(註:家にある固定電話)が鳴った。

 西田司法書士事務所所長、すなわち父からの電話だった。

 家に忘れてきた大事な書類を今から持って来てくれないかと言う。

 バイトを口実に断ろうとしたが、父は僕のシフトをよく知っていたばかりでなく、あらかじめバイト先へ電話してこの日のシフトチェンジを確認済みだったのだ。


 乱雑な父のデスクの上を探し回り、目当てのものを見つけ出した僕は直ぐ家を出た。

 二年前まで世話になっていた父の事務所で大至急必要だと言われ、立ち寄ったとしてもコンサートに間に合うのであれば引き受けるしかない。


 事務所は津田沼駅から徒歩五分圏内で、線路沿いの雑居ビルの中にある。

 場所柄、騒音はかなりのものだが、二年間ほど勤めた懐かしい場所でもある。

 父は既に外出しており、頼まれた書類は事務所の人に手渡した。

 用件は果したがそれだけで済む訳もなく、最近どうしていると問われれば、したくない近況報告を含め、それなりの挨拶を交わさなければならなかった。

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