第9話 430扉の先は断崖

 電車は午後六時三五分頃『さいたま新都心駅』に到着した。


 改札口を出て人波どおり左方向へ流されてみると、右手にさいたまスーパーアリーナとおぼしき巨大建築物が見えた。


 時間的に観てコンサート会場への人の流れはピークに近いらしく、ゲート正面までは、せいぜい早歩き程度までしか加速できない。

 どうにか会場正面に近づくと、四〇〇レベルの客には正面ゲートからの入場が許されないことが分った。


 スタジアム外周部を取り囲むスロープの左側を、正面ゲートを六時の位置と見立てて、七時の位置から時計回りで十二時付近まで、回り込むように人波の中で前進し、上り切った所が北口ゲートだった。


 時間の掛かる手荷物検査を無事くぐり抜けてやっとの入場。

 チケット記載の四三〇扉へは、右に一八〇度近く折り返し、たった今登って来たばかりのスロープを右手に見ながら、再びのろのろと戻るばかりだ。


 その前までと多少の違いがあるとすれば、ここが既に場内で通路に傾斜が無いこと位だった。

 壁とガラスの向こうの人達は、内と外じゃ天国と地獄位違うと言うかも知れないが、彼らも間もなく知るだろう、この内側の大渋滞を。


 トイレ周辺では女性達が長蛇ちょうだの列をなしていた。

 男の方は体の仕組も服装も都合良く出来ていて回転が速い。

 優越する数少なき事例w。


 スロープを登る時にも見えた特設喫煙所では、ビニール張りの狭いスペースの中で、若い男女十数人がもくもくと紫煙しえんを吐き続けている。

 その他目に映るものと言えば、前の人の背中と自分の足元だけ。

 爪先からかかとまでの歩幅で、辛抱強く歩み続けると、漸く僕の四三〇扉が現れた。

 運命の戸を叩け、さらば道は開かれんとばかりに。


 ドアの向こう側には僅かな照明に照らされて、一種独特の緊張感を詰め込んだ仄暗ほのぐらい大空間が広がっていた。

 断崖の突端から深い谷に飛び込んだような浮遊感に目眩めまいがした。


 地に足の着かないまま指定席を探し出し、着席しても尚落ち着かず、前後両側と四面を見渡すに飽き足らず、高い天井を眺めたり遠くのステージに目を落したりと、唐突の宇宙遊泳さながらにとりとめなく視線を彷徨さまよわせてから、僕はコンビニのポリ袋に右手を突っ込んで今夜の夕食を取り出した。


 他人の視線を気にしないように、自ら作り出した孤独感を噛み締めながら、あたかも最前線の兵士が戦闘と次の戦闘の狭間はざま腹拵はらごしらえをするように、飲料の助けを借りて固形物を胃の腑いのふの奥へと流し込んだ。


 インスタントにエネルギー充填じゅうてんした僕は、ゲートでもらったパンフレットやチラシの数々にざっと目を通し、そこに灯火とうか情報の欠片かけらも無いことが分ると、乱雑に重ねて左隣の空席に片付けた。


 その次にしたことと言えば、双眼鏡を取り出して様々な所へ照準を合せてみたこと。

 グランド部分に設置されたアリーナ席にも、はるか向こう正面の二階、三階スタンド席にも人々があふれ返っている。


 扉を入った時に僕が感じたあの緊張感の正体は、この一万八千の人々が個々に作り出した『気』の集合体だったようだ。

 東京ドームの五万人と比べれば遥かに人数が少ない筈なのに、高くおおった天井が黒っぽいせいか、あるいは光量がうんと絞られているせいなのか、空間自体大きく感じるし詰め込まれた人の数にも圧倒された。


 質的に分析すれば、シーズン半ばのプロ野球球場、とりわけ僕が何度か観戦したことのある五月始めの巨人戦と比べて、一人当たりの持つ期待感が遥かに濃厚かつ大きいせいかも知れなかった。

 無論ナゴヤ球場における伝説の『10.8決戦(じゅってんはちけっせん)』などの特異現象と較べるつもりは毛頭無いが、ここに集まる人のエネルギーとか気の総量は、僕の知る限り東京ドームを間違い無く超えていた。


 ここに来る途中のあり得ない展開や、正体の見えない不安感は、満ち満ちた巨大なエーテルによって一掃されてしまった。

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