第8話 落雷事故と宇都宮線

 東京駅奥底の地下ホームから延々と這い上がって、薄暗い自然光が照らす京浜東北線ホームに辿り着いた。


 大宮行きはかなり混んでいた。

 予定の電車に乗り換えてほっとしたせいか、夕食をどうするかと云う点にまで考えがめぐるようになった。


 このまま行けば午後六時三二分に「さいたま新都心駅」に着くのだが、コンサートが終了してから夕食となると、九時を遥かに回ってしまうだろう。

 灯火を応援するエネルギーも空腹では途中で枯れてしまいそうだ。


 事務所の倉田さんがくれた「乗り換え案内」のプリントを検討した結果、上野で高崎線に乗り換えることにした。

 上野の駅ナカには店が幾つもありそうだし、乗り換え時間も十四分と余裕がある。

 しかも目的駅へ二分も早く着くと云うプランを見つけた時は、これがベストだと思っていた。

 この時の僕は、甘い早耳情報やうわさ話に飛びついて、確信もないまま株を買った馬鹿な投資家だった。株価乱高下かぶからんこうげの波に僕は飲みこまれ始めた…


 京浜東北線を上野で途中下車した僕は、構内のコンビニでおにぎりとサンドイッチを買う。

 缶ものは持ち込み禁止だろうし、ペットボトルでもうるさいことを言う公演もあるようだ。

 飲み物は紙パックジュースを選んだ。


 会場入りしたら開演前に食べておこうと考えながら、食料調達任務を無事完了した兵士は、次の任務を遂行すべく高崎線六番ホームへと降りて行く。


 階段周辺は人が多く、すいている方へと移動する。

 ホームから見える、中途半端に切り取られた空は薄黒く曇っている。

 雨に対する備えはおこたりなかったが、現実は往々にして人の予測範囲を超えていくものだ。

 この時もそうだった……


 荷物になるからと迷った末持参した、風呂敷包み中の折り畳み傘に出番がありそうだと考えていると、突然構内アナウンスが流れて来た。


「お急ぎの所大変ご迷惑をお掛けしております」

 何だろうと、聞き耳を立てる。


「折り返し当駅十八時七分発、高崎行き高崎線は、落雷事故の為到着が遅れております」


 何だって!


「大宮方面お急ぎの方は、十八時十二分発の、十三番線ホーム宇都宮線、小金井行きをご利用下さい。繰り返し申し上げます、繰り返し申し上げます…」


 頭の中で大鐘おおがねが不協和音の様に鳴り響いた。


 アナウンスに反応して即座に行動し始めた周辺の数人と共に、きびすを返し今降りて来たばかりの階段を、前の人の背中を突かんばかりにして、僕は精一杯のろのろと駆け上がった。


 二階連絡通路に達すると、前を行く人達の殆どが右に進んで行く。

 思った通り番号が増えて行く方向だ。

 所がだ!

 通常のホームは十二番線までしかなかったのだ。

その先はなだらかに下っており、突き当たり付近でスロープは左に折れ曲がり先へと続いていた。


 正面に見える電車かもと小走りに近付く。

 そこはなんと十五番と十六番のホームだった。

 僕は十三、十四番ホームのあるべき左を見た。

 目の前にはレールが敷かれていて、ガードフェンスが行く手をはばんでいる。

 あまりにも田舎臭い、言い換えればクラシックな駅の作りに唖然とした。


(註: 2006年時点における上野駅の構造であり、今の上野駅は改修されている可能性があります)


 十五番から幾つまであるか知らないが、大きい番号が付くホームへは右手にそのまま移動できる。

 しかしながら、十三、十四番線ホームだけは十五番線以降よりも長い列車が停まる為か、レールが手前まで長く敷かれており、さらに何十メートルかの距離をフェンスに沿って戻らなければならないのだ。


 上野駅の十三番線以降は、レール始点側だけにホームと同じ高さの連絡通路があって、その片側にレールとホームだけが伸びた、原始的櫛形くしがた構造になっていた。


 その上一つしかない連絡通路が、ホームの長さが違うために、二箇所で鉤の手かぎのて(クランク)に曲っていて、ここだけ後になってから延長補修しましたと言わんばかりだ。


 心に余裕のある時なら、レトロな香のする発見を楽しむ事もできただろう。

 しかし、そのような余裕をどこかへ置き忘れて来てしまった僕は、小さな驚きと小さくはない怒りを抱えながら、十三番ホームへと回り込み、停車している電車の最後尾車両で行き先表示を確かめた。


『小金井行き』


 この時点で、僕は高崎線ホームで聞いたアナウンスの一部をぽっかりと聞き落としていたか、忘れていたことになる。


(中央線にある小金井なのか。埼玉に向うのにどうして)


 発車時刻も迫る中、疑問でてんぱっていた。

ここまで来て、乗り間違えをする訳にはいかない。


 後部車両はみ出さんばかりの超満員鮨詰め状態。

 ここへやってくる人たちは全て先を急いでいる。

 僕はドアから食み出し掛けている乗客の向こう側で、こちら側を向いている一人の女性と無理やりに目を合わせた。


「この電車は大宮方面に行きますか」


「分りません」


 女に軽く会釈しながらも胸の内では、

(なんでお前はこの電車に乗っているんだよ)

と毒づいていた。


 女からすれば、津波の様に次々と押し寄せる乗客に圧迫され続け、身動き一つ取れない過酷な状況の中、よりによって自分一人が通りすがりの見知らぬ男から、場違いにも悠長極ゆうちょうきわまりない質問を浴びせられて、一言怒鳴りつけてやりたい衝動を押さえつけながら、精一杯大人しく応対していたのかも知れないのだ。


 自分の気持ちだけで一杯一杯だった僕は前へ前へと移動する。

 次の車両も全てのドアで満杯だったが、自分が向う先を正確に認識しうる高度知的生命体を、砂浜から一粒のダイヤを発見するが如き奇跡的幸運で見つけ出した。


 間違い無く大宮方面の電車だ!


 出発のベルが鳴り始めた。


 奇跡的にいていた次の車両はグリーン車。

 高崎線の落雷を怨みながら、倹約とは縁遠い、千円と云う大金の追加出費を覚悟して、車両奥深くへと乗り込んだ。

 中央付近のシートが一つ空いている。

 古漬けの様に疲れた腰を沈めると、電車は間も無く出発した。

 定刻通り発車して、漸く僕は落ち着きを取り戻した。


 今日の運勢変化は目まぐるしい。

 この先どうなることやらと不安が頭をもたげて来る。

 午前はかなり順調だった筈なのに……


 前日の夜、あの制裁的入札によって、僕はさいたま二日目の、『三〇〇レベルスィートシートペアチケット』を、スタート価格で無事落札していた。

 進展の可能性が低くなったとは云え、中島さんと約束したプラチナチケットだ。

 落札額はたったの九千円。

 初日二日目と合せて、諸経費別で僅か一万八千五百円也。

 これだけで二日分のペアチケットを入手できた。

 今日の初日分は一人分無駄にしているから、喜んでばかりもいられないが、株式でもチケットでも安く買えるのは嬉しい。

 午前十一過ぎに届いた出品者からのメールは、着金を確認したので速達でチケットを送付したという通知だった。


 午後も悪くなかった。

 新日鉄はこの日急上昇していたので後場に入ってから、三日前に四六九円で買ったばかりの七千株を、十一円の利ざやを取って四八〇円で信用返済売しんようへんさいうりした。

 もろもろ差し引いた後の正味で六万五千円の受け取りだ。

 結局新日鉄はその後もさらに四円上げて、十五円高の四八四円で引けた。


 ひょっとしてその値段で売ってしまったから、上昇トレンドにあった運気が転げ落ち始めたのか。

 確かに僕の売値より四円も高く引けたのだから……


 株式市場が引けて、コンサートへの準備を整えていた時、事務所の急用を押し付けて来た父の電話。


 事務所からの帰り際高橋さんが気になる言葉を投げかけた。


 本当なら乗り換える必然性などさらさら無かった筈の高崎線での落雷事故。


 かつて利用したことも無く、将来の利用もおよそ思い付かない宇都宮線に追いやられて、二回目のグリーン券を買う羽目になるだの、積み重なったいくつもの偶然に運命的なものを感じざるを得ない。


 もしも運命を司る神が実在するならば、この一連のできごとも彼または彼女のちょっとしたいたずらに過ぎないのかも知れない。

 ともあれ、かなり平凡に進んで来た(そうでもないかな)僕の人生が、気まぐれな一陣の風に吹かれた木の葉の様に、くるくると翻弄ほんろうされ始めたような気がした。

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