第7話 父に異変?

 二年振りに訪れた父の事務所で、かなり複雑な僕の気持ちなどお構い無しに、かの善良なる人々は、代わる代わる懐かしげに温情溢おんじょうあふれる質問を繰り出してくれたから、気が付けば三十分間程の、彼らにとっては無価値でも、現時点で争うべき僕の貴重な一刻一刻が過ぎていた。


 業務時間中、貴重な時間を割いてくれた善良市民らに対し、お礼と別れの言葉を慇懃いんぎんに告げて漸くのこと事務所を出た。

 予定より一時間ほど遅くなり、僕が乗った電車は、津田沼十七時十一分発東京行きの総武快速で、目的地到着予定は午後六時三十二分と云う厳しいタイムスケジュールになった。


 稀に乗る快速東京行きでは、倹約生活の反動もあって、貧民には似合わないグリーン車を利用する。

 束の間の贅沢ぜいたく

 頼まれた父の急用も済ませ、ゆったりしたシートに腰掛け、東京湾方向を左手に眺めながら、灯火のコンサートと中島さんのことだけを考えていたい気分だった筈だが、事務所を離れる時わざわざ見送りに出て来た、高橋さんの口にした言葉が気になっていた。


「智也君、変なことくけど、おうちでのお父さんの様子、普段と何か変わったりしてない」


「どういうことですか」


 僕の表情には当然ながら不審の影が差したことだろう。

 高橋さんは曖昧あいまいに微笑んで続けた。


「お父さんには、私から聞いたなんて言わないでね」


 同意を無理強むりじいされて頷いた。


「智也君も知ってるでしょうけど、事務所の夏のボーナスは毎年決まって七月末に出ていたの」


 もう一度僕は頷いた。


「お盆も過ぎたと言うのに、今年は一向にボーナスが出る気配が無いわ。所長さん一体どうしてしまったのかしら」


 在職中には、所長のことをざっくばらんに話してくれる人など誰一人居なかった筈だ。

 事務所とすっかり縁が切れた部外者に対して、経済的内情まで打ち明けて仲間扱いしてくれたことを、喜ぶべきなのか呆れるべきなのか戸惑っていた。


 ことお金の問題になると、人はこうして変わるのだと悲しい気分になる。

 いや、これこそがひがみ根性か。高橋さんは僕が所長の息子だからこそ、心配してそんなことまで話してくれたのかも知れない。それでも黒っぽい感情を僕は抑えられずにいた。


 高橋さんは心痛な表情を作って見せた。


「私は良いのよ、ボーナスなんてもらえなくても。でも他の人たちにも生活があるし。みんな事務所の経営がうまく行ってないのかなって、所長さんのことを心配しているのよ。だからね、智也君のお父さん、おうちではどうなのかなって」


「僕が見る限りでは、いつもと変わらないようですが。もう少し注意して観ておきましょうか」


 そう提案すると、高橋さんはいつも通り愛想の良い笑みを浮かべた。

 表情コントロールの自在性は相変わらずだ。僕には高橋さんの本当の感情が殆ど読めない。


「いいのよ、忘れて。気の回し過ぎだと思うから」


 両手をワイパーの様に振りながら高橋さんは、

「ああそうそう」と付け足した。


「灯火ちゃんのコンサート楽しんで来てね。うちの子も大ファンだからきっとうらやましがるよ」


 返答も待たずに、高橋さんは手を大きく振って足早に事務所へ戻って行く。

 暫くの間、丸みを帯びた背中が小さくなるのを見送っていた。


 最近の父は仕事のことを口にしなくなったが、僕に対する態度に気になる変化は見られなかった。


 たまに出勤が遅い日の父は、

「やってるな」

と言いつつ部屋に入って来て、パソコンディスプレー上の株価ボードを横から覗き込み、

「最近はどんな具合だ」と声を掛けてくる。


 始めた頃と比べて投資成績が安定して来たせいか、この二月ふたつき三月みつきの間、株式投資業に関する父のコメントには、肯定の響きすら感じ取れる。


 部屋を出て行く時には

「まあ頑張ってくれや。何事においても勉強とねばりが一番大事だからね」と、エールとも受け取れる挨拶をしてくれる。

 株式投資において、特定の銘柄にこだわってねばることはげんいましめるべきことで「見切り千両」と云う言葉もある位だが、そんなことは口にしなかった。


 裏付けなどこれっぽっちも無いのに、あらゆることに自信家だった父の、このような変化が自信喪失の現われだとすれば、喜ぶよりも嘆くべきことなのかも知れない。

 自分のことだけでなく、父のことや家のことを注意深く観察して行こうと僕は考えた。

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