第7話 終活アプリ 後編

 『春子さん、ご都合がよろしければ今からまたお会いしませんか。先ほどの喫茶店でお待ちしております』


竹田から5分経たないうちに返信がきた。


春子はもう夕飯の支度なんてどうでも良い

くらい、竹田のことしか考えられなかった。


たった一度喫茶店でお話しただけなのに、

離婚届を夫から出されたせいだろうか、

環境の変化を恐れてはいなかった。


もちろん、竹田がいつでもウェルカムな

姿勢を見せてくれているからこその

安心感は、否定できない。


「少し出かけてきます。お夕飯はご自由にどうぞ」


結婚生活数十年、一度も言ったことのない台詞、一度は言ってみたかった台詞。


やっと言うことができた。やっと自由になれた。


もう夫のご機嫌をとらなくて良い、褒めて

もらえないのに我慢して身の回りのお世話を

しなくて良い。


春子はさっき帰宅した時に玄関に置いた

ハンドバッグをまた持つと、さっき脱いだ靴を

サッと履き、玄関を飛び出した。


 

 プルルルルっと春子の夫の携帯が鳴った。


「もしもし、美咲さんかい?」


夫はナイスタイミングだとばかりに

すぐに電話にでた。


『竹田 美咲』


携帯の画面には、そう表示された。


春子のいない時で助かったと思いながら、

彼は優しい声で喋り始めた。


「この間はありがとうございました。美咲さん、やっぱりあなたは素敵な方です。うちの女房とはもう離婚しますから、あなたがおっしゃっていたように、うちで一緒に暮らしませんか」


夫は心の底から良い出会いをしたと思っている。


何十年とこちらが頼んでもいないのに、

勝手に身の回りの世話をしては疲れたような

顔をする春子に、うんざりしていた。


人生の終わりくらい、自分のことを恋人のように慕ってくれる女性と添い遂げたいという

願いがふつふつと湧いてきた時に、「終活アプリ」の話を聞いた。


何人かの女性と実際に会ってみて、一番

ピンときたのが彼女だった。


どうやら、旦那さんが今風に言うと

モラハラ傾向にあるらしい。


外面はとても良く、家に帰れば完璧主義の

亭主関白。


最初こそ自分にも思い当たる節はあったが、

話を聞く限り彼ほどではないと認識している。


誰もいない薄暗いキッチンを横目に、

夫は電話を切った。

 

この歳で、新しい生活が始まるとは

思ってもみなかった。


彼女にとったらこの家は中古物件と

なってしまうが、その分彼女がしてきた

精神的な苦労を労って、毎日を大切に過ごそうと思った。


夫は複雑だった。


何十年と一緒に過ごしてきた妻には

こんな感情は芽生えなかったのに、

会ったばかりの女性には心が燃える。


どこでどう間違えてしまったのだろうか。


けれど、これも自分の人生。


冷め切った環境で最後を迎えたくはない。


今が、少し先の未来が、明るい未来に

なれたならきっと悔いは残らない。



 春子が用意した湯呑みの底には、ぎっしり茶葉が積もっている。


最近はカフェインを摂り過ぎると

脈が早くなるような気がしていた。


春子は気づいていただろうか。

ここ数ヶ月、自分がお茶に口をつけていないことを。


キッチンへ向かうと、お茶を静かに

排水口へ流した。


茶葉がぷつぷつと磨かれたシンクに残った。


夫は、新たな女性が掃除する場面を

想像しながら、リビングへ戻っていった。






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