第6話 終活アプリ 中編
「春子さん、僕と死ぬまで一緒にいてくれませんか」
春子は望んでいたことなのに戸惑ってしまった。
登録したその日に連絡があった竹田紀夫と名乗る男性と、1回目のお茶でまさかそう言われるとは思ってもみなかった。
「ダメ…でしょうか」
竹田は目を細め、照れながらも春子をしっかり見ていた。
彼の優しい口調や顔つき、備え付けの椅子ではなく、今座っているソファ側を譲ってくれる所にときめきを感じていた春子は、夫と離婚することをそっと頭でシュミレーションした。
「竹田さんのお気持ちはとても嬉しいです。けれど、今後死ぬまで一緒にいるならば、主人とは離婚しなければならないと思います。しばらくは、お友達としてお会いしていただけませんでしょうか」
竹田は少しホッとした顔になった。
「良かった。また会ってくれるのですね。春子さんのタイミングもあるでしょうし、僕は待ちますよ。できれば今すぐにでもお付き合いしたいのですが、それは贅沢すぎますね」
嬉しさ反面、春子は少し疑った。
そんなに私のことを気に入ってくれたのだろうか。今は不仲とはいえども人妻なのに。
自宅は帰ると、リビングから渋い声が飛んできた。
「随分長かったなぁー」
夫には、事前に友人とお茶をすると言ってある。息抜きができて潤った心は、いつもこうして帰宅時に即干からびる。
春子の外出後のお約束、夫にお茶を出して機嫌良くおしゃべりをしなくてはならない。
ため息混じりに濃いめの玄米茶をいれる。
喫茶店でコーヒーを飲んだばかりだというのに。
「お待たせしました」
春子はわざとらしく穏やかに話しかけた。
夫と対面に座りお茶を出して、
呼吸を静かに整えた。
さっきまで見つめていたあの優しい笑顔を
思い浮かべながら、春子は口火を切った。
「離婚してほしいです」
春子の心臓は、音が夫にも聴こえているのではないかと思うくらいバクバクと動いていた。
「そうか」
夫の反応は予想外だった。
結婚してから今日まで家事を一切手伝おうと
しない男が、これから1人でどう暮らす
というのだろうか。
そもそもそこまで想像できないほど私任せなのだろうかと、春子は呆れてしまった。
春子がお茶を一口飲んだ隙に、夫が何やら
棚から出してきた。
「じゃあ、ここにお前の書いてくれ」
春子の前に置かれたものは、離婚届だった。
「…っ」
今まで散々家政婦扱いしていたうえに、
こんなものを用意していたとは。
願い下げたいのはこっちなのに。
春子は怒りが込み上げてきた。
離婚宣言で動揺する夫を見たかった
訳ではないが、とてつもなく悔しかった。
勢いよく立ち上がってボールペンを取ると、
春子はサラサラと離婚届に記入を始めた。
「行くあてはあるのか?」
春子が出ていくことが当然のように
夫は質問した。
「少し時間をください。住む場所を見つけます」
春子は竹田さんがいるので安心しきっていたが、夫にそのことがバレないように話した。
「ま、いいだろう」
春子はキッチンへと逃げた。
自分でも動揺しているのが分かる。勢い任せとはいえども、やりすぎてしまった。
まだ竹田さんとは1回しか会っていないし、
たった数分で今の婚姻関係は終わってしまう
ようだし、もう頭がついていけなかった。
春子は早速竹田に連絡をした。
『今日はありがとうございました。
竹田さんがお優しい方で安心しました。
夫に離婚のお話をして承諾を得たので、明日にでもお会いしていただけませんでしょうか』
ど直球に伝えすぎただろうか。今の春子には
もう何がなんだか分からなくなっていた。
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