第5話 終活アプリ 前編
「登録完了っと。これで本当にお相手が見つかるのかしら?」
70歳になった私は、夫と2人暮らしをしている。子供が巣立ってからずっと2人きりで生活してきたが、もうすでに夫への愛情は残されていない。
「おーい。おーい。春子いるんだろ?」
リビングから腹立たしい声が飛んできた。夫のあの感じだと、私がキッチンの椅子で一休みしていることが分かったうえでの呼び方だ。
人がくつろいでいると嫌味のように動かそうとする、嫌な性格だった。毎度のことながら、こんな人と結婚しなければよかったと、何十年も後悔してきた。
しぶしぶリビングへ顔を出すと、白髪の憎い顔が喋った。
「回覧板回ってきたか?」
心底どうでも良い内容に怒りが込み上げる。
昨日回ってきたばかりだし、回覧板の内容を閲覧するのはいつも私だけだ。もちろん、お隣さんに渡すのも私の仕事。夫は過去に回覧板を触ったこともないのではと思うくらい、私任せだ。
全ての期待はスマホの中の小さな四角、
「終活アプリ」だけだった。
遡ること1週間前。
「えぇ!そのお相手の方と一緒に住むの?」
春子の声は喫茶店に響き渡った。
「そうなの。明後日に今のアパートを引き払って、和彦さんのお家へ行くの」
近所に住む、春子の息子の同級生の母親、兼友人の恵美子は、驚く春子を落ち着かせようと静かに話した。
恵美子は独り身だった。彼女の息子が巣立ち、夫婦2人これからという時に夫を病で失った。それからは、一軒家は大きすぎるという理由でアパート暮らしをしていた。
「このまま死ぬまで独りが嫌だったの。もちろん、亡くなる時なんていつになるか分からないし、結局は別々のタイミングだと思うけど、誰かいたらいいなって」
春子はポカンとしてしまった。まさかあの大人しい恵美子が。アプリでパートナーを探すとは。もうすでに引越し予定だなんて信じられなかった。
「終活アプリ」
高齢の方を中心に、それは流行していた。
みんな孤独死をしたくない一心でアプリに登録するのだった。
恵美子のようにパートナーを亡くしてから活動する人がメインらしい。
思い描く“最期”は人それぞれなので、プロフィールをよく見ながら自分の価値観と近い人を探して出会う。若者が使うマッチングアプリと表面上は何ら変わりがない。
春子は、ありったけの思いを込めてスマホの画面に指を這わせた。
「夫と暮らしています。ですが、夫とはもう長年の不仲です。本来なら夫と真摯に向き合わなければいけないのですが、このままだと私の心が壊れてしまいそうなのです。こんな私でも許してくれる方がいらっしゃるのなら、メッセージやお友達からでも良いので、どうかよろしくお願いいたします」
アイコンは、庭で育てている朝顔と自分の横顔を不慣れながらに自分で撮影した、渾身の一枚に決めた。
夫と同じ墓に入りたくない、この願いを叶えてくれるかもしれない「終活アプリ」にすがるような気持ちでいっぱいだった。
登録をしたその日の夕方に一件のメールが届いた。
「プロフィール拝見いたしました。綺麗に咲いた朝顔と優しそうな横顔がとても素敵ですね。ご主人がいらっしゃるとのことで考えましたが、ぜひお友達として今度お茶しませんか」
春子の心臓は跳ね上がった。
夫の存在を確認すると、どうやらリビングでうたた寝をしているようだ。
あの様子だと「ご飯になりますよ」の声かけまで起きないパターン。
お味噌汁が吹きこぼれないか目視しつつ
春子は速やかに返事を入力した。
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