第2話 秘密のマチコさん

 私達夫婦は新卒時代から同棲していたアパートを出て、少し田舎の一軒家に引っ越した。そこそこ資金も貯まり、未来を考えて新築の建売を購入したのだ。あまり土地にこだわりは無かった為、通勤が可能で土地が比較的安い田舎を選んだ。


家を購入する前に組合やご近所関係の質問はしていたのであまり身構えてはいないが、引越しの挨拶となると何だか緊張する。引越し業者から荷物を受け取ると、すぐに挨拶しようということになった。挨拶すべきは同じ組合の6件で、予め購入しておいたタオルギフトが入った紙袋を持っていざ出発。


1件目はお隣のお宅。このお宅は物件内覧時から話しかけてくれて、組合のことなど色々と教えてくれた。もちろん、挨拶をするべきお宅を教えてくれたのもお隣さんで、これからもお世話になりそうな予感がする。すこし緊張しながらインターホンを鳴らすとすぐに出てきてくれた。


「あら〜。今日だったわね。お待ちしていました。若い方が来てくれて嬉しいわ。これからよろしくお願いします」


まだ声も見た目も若そうだが、60代といったところだろうか。その女性はふくよかで笑顔が優しい人だ。ではこれでと次へ向かおうとしたら、そうそうと女性は話を始めた。


「あとね、まだ言ってなかったわよね。この地域での困り事があったらマチコさんに聞くと良いわよ。同じ組合という訳じゃないから、ご挨拶はうちを含んだ6件で良いのだけど。間違ったり困ったりするとマチコさんが教えてくれるはずだから。ま、もちろん私でも大丈夫よ〜。いつでも頼ってちょうだいね。あら、引き留めすぎちゃったわね、ごめんなさいね。これからみなさんのところ行くのよね」


終盤はマシンガントークになりつつある彼女は気が済んだのか、気を遣ってくれているのか話を終わらせてくれた。他のお宅にも伺わなければならないが、「マチコさん」が気になる。事前にそんな話は聞かなかった。夫も初めて聞いたらしく誰だか気になっていた。


「同じ組合でなくても、何か教えてくれる時があるんだったら挨拶くらいしておいたほうがいいんじゃないのか?でもお隣さんのあの様子だと挨拶要らないみたいだし…」


夫も「マチコさん」が気がかりらしい。考えているうちにまた別のお宅に到着した。インターホンを鳴らすと中年の女性が出てきた。


「こんにちは。はじめましてよね。引越しの中、来てくれてありがとうございます。色々と大変よね。私もそうだったわ。お隣の山田さん、もう挨拶いかれたかしら?」


「はい、先ほど伺いました」


「山田さん、とても優しいから安心してね。あのお家は夫婦共に仲が良くて、遠くに住んでいる息子さんも学生の時から優等生でかっこいいのよ。今はお正月に帰ってくるぐらいみたいだけど。あっそれとね、マチコさんのこと。山田さんから聞いたかしら?困ったらマチコさんに頼ると良いわよ。この組合じゃないから挨拶は要らないけど」


私は夫を見た。夫も今がチャンスとばかりにすかさず質問した。


「山田さんからも教えてもらったのですが、『マチコさん』てどのような方なんでしょうか?」


女性は相変わらずにっこりしたまま答える。


「マチコさんはマチコさんよ。そんなに心配しなくて大丈夫よ。困ったり間違った時に現れるだけだから」


「困った時に関わってくれるなら、やっぱり挨拶に伺った方がいいかと。でも自宅の場所も分からないので、どちらにいるかだけでも教えてもらえませんか」


「そんなに気にしなくても大丈夫よ。私達だって誰1人と挨拶行ってないわよ。あなた方もそのうち分かるから大丈夫よ」


気のせいだろうか。だんだんと女性の顔が引き攣っているように見えてきたか。何とも言えない不安を感じたので、切り上げることにした。


「そうなんですね。分かりました。また分からないことがあったら教えてください」


「いえいえ、私は特別何も。お2人とも新生活を楽しんでね。じゃあまたね」


女性はまた笑顔に戻っているように見えた。さっきの引き攣った顔は気のせいだったのだろうか。


「次の家でも『マチコさん』のこと言われるのかな?本当に誰って感じなんだけど、何なんだろうね」


「うーん。…守り神とか?」


「そうなのかな?まぁ確かに、マチコさんの自宅教えてもらえなかったもんね。人間じゃないのかな?」


「気になるなぁ…」


6件の挨拶回りが済んだが、やはり皆口を揃えて「マチコさん」のことを話した。自宅の場所やどんな方かなど深く聞こうとすると、みんな顔が引き攣り始めるから妙に怖かった。


 時は過ぎて引越しから5年経った。困ったことがないせいか今も「マチコさん」には遭遇していない。そしてそれは、私達夫婦が間違った行いをしていないという指針にもなる。


ピンポーンとインターホンがなった。画面を見ると若い夫婦が待っている。そう、今日は新しい夫婦が引越しをしてくる日だった。


「はーい」


若い夫婦はこれから残り6件挨拶に行くのだろう、手提げにはギフトボックスがたくさん入っている。


「ご挨拶にきてくださってありがとうございます。これからよろしくお願いします。困った時は私でも良いし、何より『マチコさん』が教えてくれるから大丈夫よ」


「『マチコさん』ですか?」


「そう、『マチコさん』。同じ組合ではないから挨拶はしなくて大丈夫よ。私もそうだったから。何も心配いらないわ」


私はそう言うと、若い夫婦に微笑んだ。

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