第2話・絶望の淵で

 アナスタシアが城へ来て間もなく、国王が病に倒れたのである。それからというもの、アナスタシアを取り巻く環境はさらに悪化した。


 国王代理となったグルーは今まで以上に忙しくなり、ほとんどアナスタシアに会いに来なくなった。それをいいことに、メイドたちの嫌がらせが増した。あろうことか、自分たちの仕事である国王の介護を、アナスタシアに放り投げたのである。

 

 昼夜問わずの介護は、満足に食事を与えられていないアナスタシアにとっては地獄のようなものだった。それでも行き場のないアナスタシアは、歯を食いしばって介護を続けた。


 慢性的な睡眠不足で、倒れたこともあった。そうなれば、メイドたちに氷水をかけて起こされた。


 服はいつしか継ぎ接ぎと染みだらけになって、そんな格好でグルーの目に触れようものなら、自覚がなさ過ぎるとひどく怒られた。


 国王は不自由な体となりストレスが溜まるのか、人が変わったようにわがままになった。夜中に呼び出されるのは日常茶飯事で、なにかと理由をつけては杖で殴られ、罵られた。挙句の果てにメイドに言いつけ、食事を抜きにされたこともあった。

 

 それでも、アナスタシアは踏ん張っていた。

 それなのに。

 とうとう、婚約破棄ときた。こんな展開、さすがにあんまりである。

 

「……あの、グルー様。それは、どういう……」


 アナスタシアは震える声でグルーに訊ねる。聞き間違いであってほしいと願って。


 グルーは冷ややかな瞳でボロ雑巾のようになったアナスタシアを見下ろし、言った。

 

「言葉の通りだ。自分を見てみろ。お前は品格がなさ過ぎる。このようなきらびやかな場にそんなみすぼらしい服で現れるなど、婚約者である俺を侮辱しているとしか思えない」

「そ、それは……」

「せっかく拾い上げてやったというのに、愚かな女め。俺は次期国王だぞ。こんなみすぼらしい婚約者など、俺はいらない」


 吐き捨てられた言葉に、アナスタシアは青ざめた。

  

「……申し訳ありません。今日このようなパーティーがあるだなんて知らなくて……」


 それに、このドレス以外はすべてメイドに捨てられてしまったのだ。それは、グルーにも伝えたはずだが。


「そうだったのか」


 グルーがつかつかとアナスタシアに歩み寄る。アナスタシアはホッとした。分かってくれた、そう思った。


 パン、と乾いた音が鳴った。


「っ!」


 グルーがアナスタシアの頬を平手打ちしたのである。


 体力などとうに尽きていたアナスタシアは、みっともなくふっ飛んだ。ホールの床に這いつくばり、驚きのまま頬を押さえてグルーを見上げる。


「そうかそうか。つまりお前は、俺のせいだというんだな?」


 グルーは低い声でアナスタシアを脅す。ハッとした。やってしまった。彼のプライドを傷付けたのだ。


「い、いえ、そういうことでは……」

 否定するアナスタシアの言葉に被せるように、グルーは怒鳴った。

「ふざけるな! 俺はちゃんと言ったぞ! パーティがあるから身だしなみを整えておけと! お前が忘れていただけのことを、婚約者である俺の責任にするだなんて言語道断だ!」

「も、申し訳ございません……」


 アナスタシアは床に擦り付けるように頭を下げ、奥歯を噛み締めた。

 口の中に、じんわりと血の味が広がっていく。

 

(言われてない……)


 アナスタシアは心の中で反論する。


(聞いたこともなかった……)


 こんなパーティーがあるだなんて、アナスタシアは初耳だった。おそらくグルーはメイドに言い伝えておくよう言いつけていたのだろうが、アナスタシアをよく思っていないメイドが、わざわざ素直に教えてくれるわけもない。


(グルーだって分かっているはずだわ。私がメイドに嫌がらせされていることだって、きっと知ってるはずなのに……)


 助けを求めようと周囲を見回す。しかし、誰ひとりとしてアナスタシアに駆け寄り、手を差し伸べようとする者はいなかった。


 アナスタシアは自嘲気味に笑う。

(相手が次期国王だものね……)


 アナスタシアがここですべてを暴露したとして、である。そんな言葉を、一体誰が信じてくれるだろう。ここには、彼の味方しかいないのだ。騒いだところで無駄だし、もはやそんな気力もない。


 ため息が漏れた。


(私、なにやってるの……? これまでの生活はなんだったの……? お父様、お母様……)


 悔しくて悲しくて、涙が滲んだ。


 うずくまったアナスタシアに、グルーはさらに酷い言葉をぶつける。

 

「いいか。これは、なにもかも鈍臭くて使えない、お前が自ら招いた結果だ。恨むなら自分の無能さを恨め」

 

 グルーはアナスタシアにそう吐き捨てると、扉の前の騎士に目配せをした。甲冑が擦れる音が近付いてくる。


 お前に価値はない。ダメ押しのひとことだった。そしてそれに続くように、周囲の刺さるような視線と心無い言葉がアナスタシアを追い詰める。


『いやだわ。あそこまで言わなくても』

『公の場で』

『いい気味ね』

『没落貴族のくせに、王家に入ろうとなんてするからよ』


 衆人環視。

 惨めどころの話ではない。


 アナスタシアはじんじんと痛む頬を押さえたまま、俯いて奥歯を噛み締めた。

 四方から向けられた視線と嘲笑が、アナスタシアの耳を打つ。


(死のう……)


 もういっそ死んでしまおう。そうすれば、楽になれる。両親にも会えるし、こんな苦しみからも解放される。


 家族を失ってからずっと胸に張りつめていた糸が、ぷつん、と音を立てて切れた音がした。


「こちらへ来い」

 もはや婚約者ではなくなり、一般庶民以下となったアナスタシアの腕を、騎士は乱暴に掴んだ。


 強引過ぎる力に、思わずアナスタシアが顔を歪ませた、そのときだった。

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