>>4 中高ぼっちだけど質問ある?
私が私を捨てたのは、中学二年生の時。裕福でも華やかでもない私に、「モネ」は降りてきた。
「東京の高校に行くぅ? あんた、寝言は寝てから言いなさいよ」
フライパンと菜箸を持った母親が、キッチンから目も離さずに言う。父親は畳に胡座をかいて、テレビで野球中継を見ている。今日はトップオブアイドル、通称「TOI」の決勝。本当は今すぐにテーブルからリモコンを奪い取って生放送を見たいけれど、父も母もそれを許してくれず苛立っていた。テレビって家族みんなのものじゃないの、お兄ちゃんが見たいって言ったサッカーはすぐ付けるくせに。
「……もういいっ、私ご飯いらない、寝る」
「ちょっと、裕華ー! もうお皿に盛り付けしちゃってるのよ、降りてきなさい!」
だんだん、とわざと大きな音を立てて階段を登る。
裕華という名前が大嫌い。どこが裕福で、どこに華があるのよ。秋田県のど田舎、中学二年生の娘にスマホも買い与えないような家に生まれて、私の逃げ場なんてどこにもない。
でも、一応自分の部屋があるだけまだマシか。ドアをばたんと閉めて、ベッドに腰を下ろした。電波もない、勉強も運動も楽しくない、友達も居ない、摂取できる娯楽は、そう、アイドルしかない。
迷わず手に取ったのはアイドル雑誌の最新刊。表紙を飾っている綾川ルルは、TOIファイナリストに選ばれ、今頃しのぎを削って戦っている。日本でいちばんの、アイドルになるために。
昔から憧れだった。煌びやかで、華やかな世界を夢見ていた。毎月なけなしの小遣いでアイドルの雑誌を買い、使っている化粧品、髪の巻き方、歩き方やパフォーマンスまで全て真似をした。学校で浮いても特に気にしない。だって私は、オーディションに合格して東京の高校に行ってアイドルになるから。
綾川ルル。私の一番好きなアイドルが、雑誌のトップページを飾っている。嬉しくて頰が緩みそうになる。私の好きな人が、こんなに評価されている。
「やっぱ可愛いなあ、綾川ルル……ううん、桃菜ちゃん。私もこんなふうになれたらいいのに、なぁ」
雑誌の中で微笑む彼女は、ロングストレートの黒髪を軽くアレンジし、白いワンピースを着てこちらに手を振っている。オーディションでは結果が振るわず補欠合格であった綾川ルルは、加入後めきめきと実力を上げ、今では正規合格メンバーよりも遥かな人気を誇る。所属の六人グループ「SHELLY」でも一番人気のメンバーとなり、期の顔といってもいい存在になっていた。
綾川ルル。本名は安田桃菜。SHELLYのメンバーがライブ配信などでうっかり本名で呼んでしまうからか、ファンの間では大っぴらにはしないものの知れ渡っている。
私もアイドルになるなら本名じゃ無くて芸名がいい。ごろん、と雑誌を持ったまま寝返りを打つ。
枕に突っ伏して、自分の名前を恨み始めた。前に、なんでこんな名前をつけたのか母親に聞いたことがある。返答はこうだった。「裕福な人と結婚して、華やかな人生を送って欲しいから。お母さんみたいにはなってほしくないの」。
結婚なんかしない。アイドルは恋愛なんかしない。トップオブアイドルの優勝トロフィーにだけ恋焦がれる。
ある日の授業中、社会の教科書から適当に文字を拾って、繋げて芸名を作ろうとした。東の国の、和を重んじる苗字に、それとは真逆の西洋の、印象派の芸術家モネ。ノートにいくつも芸名候補を並べて、一番しっくりきた私の新しい名前。
「東和モネ。トーワモネ。東和モネなんだ、私は……」
馬鹿らしい、と一蹴してしまえばそれまで。
人に「裕華」と呼ばれるのが嫌で、アイドルという世界に憧れて、いっそ私ごと新しくなりたい。こんな田舎に住む、雑誌を買うことが日々の楽しみの、成績も振るわず友達も居ない自分が、めいっぱいの照明と歓声を浴びてトップオブアイドルへ。想像だけでにやける口元を雑誌で隠し、床に置きっぱなしになって通学用の鞄からはみ出ている「進路希望調査」の紙をベッドの上から見下して。誰がお前らの決めた高校に行ってやるものか、私は東和モネ、アイドルなんだ……と小さく呟いた。
結論からして、私が東京の高校に進学することはなかった。
親と教師の猛反対、いや反対というほど真剣に取り合ってもらえなかったか。地元の女子校に進学させられ、中学以上に増えた校則に反吐が出そうになった。名目としては一応お嬢様学校とされているそこは、とことん私と合わなかった。
「高い位置でのツインテール禁止、ならハーフツインならいいのかぁ……でも髪巻かないと可愛くならないし、ううん……」
異性の目を気にする年齢、周りの子たちはなんとなく中学の頃より可愛くなった。別の高校の男子と付き合っていると噂が流れた子も居た。私は変わらずクラスメイトの名前のひとつも覚えず、昼休みは窓側の席でひとりお弁当を広げていた。天使の羽を模ったフォークで冷凍のスパゲッティをくるくるしながら、考える。反省文を書いている暇があったらダンスを覚えたい。歌を歌いたい。だから校則は破れないし、膝丈のスカートを折るなんてもってのほか。アイドルは、清純でなければならない。
色付きのリップ、フリルのついたハンカチ、下地を塗ってビューラーであげたまつ毛。肌には日焼け止め、前髪は絶対崩さないように揃える。家族や友達付き合いを拒絶していると、いつ、いかなる時でも、私は裕華ではなくモネであるという意識がより強く付くようになった。魔法と言えば聞こえは良く、呪いというほど取り憑かれた。
お菓子を食べようとコンビニに寄ろうとする時、日課の筋トレを規定数こなしたから辞めようとした時、モネは声をかけてくる。綾川ルルに憧れたただの私の横に、「もうひとりの私」は常にいた。鏡で自分を見るたびに、私は皆とは違う、アイドルで、東和モネなんだと言い聞かせた。
そして、高校の進路希望調査にも一貫して目もくれない私に、母がついに観念した。お父さんには絶対に内緒だからねと何度も言われた。
「仕方ないわね、一回だけよ。オーディション受けてきなさい」
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