第1章 異世界ラジオのまなびかた

第10話 ラジ学事始①

 シンクに沈んだ皿をすくい取って、洗剤が染み込んだスポンジでしっかりこすっていく。

 ナポリタンのケチャップ汚れはかなり頑固だから、ほんの少しでも残すわけにはいかない。中学生の頃、これで何度母さんに怒られたことか。


「ピザトーストのモーニングセットで、550円になります」

「じゃあ、これで」

「はいっ、1000円を頂きまして……450円のおつりと、この飴をおひとつどうぞ」

「ども」


 その母さんは、食べ終わったお客様の会計をレジで打っている。ついでに飴玉をお渡しするのも、いつものことだ。


「んじゃ、ごっそさんでしたー」

「ありがとうございましたっ」

「ありがとうございました!」


 店を出ていくお客様には、しっかりあいさつ。

 喫茶「はまかぜ」、日曜の朝9時。今日も元気に営業中だ。


「朝ラッシュ、だいたいこんなところかな」

「そうね。今残ってる食器を洗い終わったら、もう上がっていいわよ」

「りょーかい」


 カウンター越しに食べ終わった食器を受け取って、水が張ってあるシンクへ沈める。あとはすくい上げて、一通り洗ってすすげばおしまい。最後に残ったコーヒーカップも洗って、布巾でしっかりと拭いたら、


「一丁あがり、っと。母さん、コーヒーと牛乳もらっていい?」

「いいよー」


 水まみれの腕をタオルで拭いた俺は、さっきのカップを手にしてコーヒーサーバーへ。熱々のコーヒーを注いでから冷蔵庫の牛乳を注げば、ちょうどいいぬるさのカフェオレの出来上がりだ。


「相変わらず猫舌ねぇ」

「仕方ないだろ。ヤケドは禁物なの」


 母さんと軽口を叩き合いながら、カウンターを出て一番奥にある席へ。昨日もルティたちと座ったこの席は、観葉植物がいい感じで衝立ついたてになっていて落ち着ける場所だった。


「んくっ……ふうっ」


 ひとくちカフェオレを飲んで、深くため息をつく。

 こづかい稼ぎための、いつもの休日の朝。そのはずなのに。


「いつもと変わらない朝、なんだよな」


 昨日、異世界から来た女の子――ルティが座っていた真向かいの席を眺めていたら、自然と言葉がこぼれた。


 赤坂先輩の家から帰ってきたのは、夜の9時過ぎ。いつもならゴールデンタイムまっただなかなラジオを日付が変わる頃まで聴くのに、俺はそのままベッドの中へ潜り込んだ。

 いろんな事がありすぎて疲れたっていうのもある。でも、それ以上に本当にルティと出会ったことが現実だったのかどうか、出会ってからのたった数時間のことを何度も思い返していた。


「現実だよな、やっぱり」


 洗い場の水は冷たかったし、飲んでいるカフェオレもほんのり温かい。夢や幻だったらそれで簡単に覚めるだろうけど、目の前の席で美味しそうにトーストを食べていたルティの姿は鮮明で、空想だなんて思えない。何より、俺が様子伺いで送った朝一番のメールに、


『ルティちゃんなら、あたしの隣で寝てますよ』


 ドヤ顔の絵文字つきで、ルティの寝顔入りの自撮り写真まで付けて来やがった有楽の返信を見れば、現実ってことが十二分にわかる。

 だけど、それでも、


『我、エルティシアが可憐な声に祝福を捧げよう』


 背にした夕焼けで銀色の髪を煌めかせたルティの姿は、まるでファンタジーな映画のように美しかった。


「いらっしゃいませ。あらっ、瑠依子ちゃん」

「おはようございます、おばさま」


 カランと鳴ったドアベルに続いて、聞き慣れた先輩の声が入口から聞こえてきた。


「おはようございます。神奈ちゃんも、昨日の……えっと、ルティさんもおはようございます」

「おはようございますっ!」

「お、おはようございます。あの……昨日は、まことにありがとうございました」


 そして、有楽とルティの声も聞こえてくる。


「いいのいいの。いい食べっぷりだったから、お姉さんもうれしかったわ」


 からから笑いながら言うけど、母さんよ、40歳に差し掛かるってのにお姉さんはどうなんだ。


「佐助なら、昨日の席にいるわよ」

「ありがとうございます」


 先輩の声に続いて、3つの足音が近づいてくると、


「わっ、ほんとだ」

「おはよう、松浜くん」


 観葉植物の陰から、赤坂先輩と有楽がひょっこりと現れた。


「先輩、おはようございます。有楽は物珍しそうに見てんじゃねえ」

「だって、エプロン姿のせんぱいなんてレアですもん」

「わたしは、おなじみかな」


 くすっと笑う先輩は、薄い青色のワンピースに白いカーディガンを羽織っていて、興味津々とばかりに俺を見ている有楽は、黒と赤のボーダー柄のパーカーにデニムのキュロットといった出で立ち。腰に緩く巻いた太めのベルトが、ラフなアクセントになっていた。


「さ……サスケ、おはよう」


 続いて現れたルティは、昨日の紅いブレザーと黒のスラックスじゃなく、ライトグリーンのブラウスにクリーム色のカーディガン、そして若草色のスカートっていうファッションだった。


「おう、おはよう」

「どうです、せんぱい。あたしがルティちゃんをコーディネートしてみたんですよっ」

「ほほう」

「うう……おもちゃにされた」


 ああ、有楽に着せ替え人形にされたわけか。


「わっ、笑うなら笑えっ。我にこのような格好は似合わないとな!」

「そんなことはありません。ルティさん、とっても可愛いですよ」

「そうは仰いますが、ルイコ嬢とカナの前では霞むも同然です」


 顔を赤らめているルティは、ちょっとふて腐れ気味。でも、


「いや、いいんじゃないか」

「なぬ?」

「ルティもしっかり可愛いぞ。有楽、グッジョブだ」

「えっ」

「お褒めの言葉、いただきましたっ!」


 見たまま正直に言ったらルティはきょとんとして、有楽は俺が立てた親指に親指を立てて返してみせた。

 昨日のブレザー姿とは違う落ち着いた色合いは、ルティが持つ可愛らしさとスリムさをしっかりと活かしていて、肩から掛けた空色のポシェットも、少し前に垂らした長い銀髪にマッチしている。


「でしょう?」

「は、はいっ。そうか、大丈夫か」


 先輩に言われて、ようやくルティの表情が緩む。

 格好こそ違うけど、昨日初めてここで見せてくれたのと同じ、穏やかな笑顔だった。


「んじゃま、座って下さいな」

「どもどもっ」

「ルイコ嬢、私が奥に座ります」

「わかりました」


 さっきまでの内心をごまかすようにおどけて奥の席へ詰めると、空いた隣に有楽が座って、向かいの席にルティと赤坂先輩が座る。


「お水とおしぼりをお持ちしました」


 それを見計らったようなタイミングで、母さんが水入りのコップをトレイに載せて現れた。


「すいません。ミニパスタサラダのモーニングセットを、ミルクティーで3つお願いします」

「ミニパスタサラダと、モーニングのミルクティーを3つですね。かしこまりました」


 そして、赤坂先輩の注文ににこやかに応じてから水を置いてさっと戻っていく。見習ってはいても、俺はまだこうスマートに対応出来ない。


「もう決めてたんですか」

「わたしのおすすめメニューって言ったら、神奈ちゃんもルティさんもそれにするって」

「瑠依子せんぱいのおすすめなら、食べないわけにはいきません」

「サスケの御母堂の料理、他にも食べてみたくなってな」

「なるほどね」


 ミニパスタサラダは、手作りのトマトソースをパスタに絡めてベビーリーフにくるんだり、添えてあるライ麦パンにのせたりして食べる、母さんお手製のメニュー。細かく刻んだパプリカとレモン汁が味の決め手になっている、うちの看板メニューのひとつだ。


「でも珍しいですね、この時間に来るなんて」

「朝ごはん、作りそびれちゃって」

「カナが我をおもちゃにしていたら、こんな時間になってしまった」

「どの服もルティちゃんに合うんだから、仕方ないよねー」

「それでウチへか。売り上げ御協力、ありがとうございます」

「せんぱい、露骨すぎです」

「元凶が何を言う」


 からかうように有楽が口をとがらせるけど、そんな非難の声は一蹴するに限る。


「ルティはよく寝られたか?」

「うむ。昨日は早々に寝てしまってすまない」

「いいっていいって。野宿とかで疲れてただろうし、しょうがないさ」

「ありがとう、サスケ。しかし、起きてみたら目の前にカナの顔があったのは驚いた」

「……有楽」

「し、仕方ないじゃないですか! ルティちゃんの寝顔、すごく可愛かったんですよ!」


 こいつめ、寝顔の写真を撮っただけじゃなく、ずっと眺めていやがったのか。


「しかも、その背後ではルイコ嬢まで我を眺めていた」

「赤坂先輩もですか」

「だ、だって、ルティさんの寝顔がとっても可愛かったから」


 いや、わかりますけど。昨日寝入ったときも可愛かったから、すっげえよくわかりますけど。


「聞いてくれサスケ。二人とも、我のことをこう何度も褒め殺しにするのだぞ」

「それって、普通に褒めてるだけじゃね?」

「サスケにまで裏切られたっ!?」

「実際可愛いんだから仕方ないじゃん」

「うあぁぁぁ……」


 絶望したように頭を抱えて、ルティがうつむく。こいつの自己評価、どんだけ低いんだ……


「ほらほらルティちゃん、機嫌直して。松浜せんぱいにお願いしたいことがあるんでしょ?」

「ほほう」

「あ、ああ」


 有楽にぽんぽんと肩を叩かれて、はっとしたルティは身体を起こすと俺に向き直ってまっすぐ瞳を向けてきた。


「サスケ、我に〈らじお〉のことを教えてくれないか」

「ラジオのことをか?」

「うむ」


 小さく頷いて、そうだとルティは応える。


「娯楽や人々の営みなどを、ひとつの場に留まらず様々な場で聴くことが出来るのは、実に面白い。もし可能であれば、我の国でも〈らじお〉をやってみたいと思ってな」

「可能であれば……って、ルティの国にそういう技術はあるのか?」

「いや、一切ない」


 清々しいほどにきっぱりと言い切ったルティだけど、そこに恥じらいやためらいは全くなかった。


「ルイコ嬢とカナにも同じことを言われたが、どうすれば出来るのかを考えるのも、また一興だと思うのだ」

「まあ、そりゃそうかもしれないけどさ。ラジオを送信……んと、番組を広めるほうも、受信って言って番組を聴くほうも、技術にしろ環境にしろ壁は相当高いんだぞ」

「全部が全部ニホンと同じようなものでなくとも、代替するものを探せばよい。無論、我が探して考えなければいけないことはわかっているし、それが出来るだけの時間は十分に持っている」

「……俺に出来ることっていったら、どんな番組があるかとか、どんな風に番組が作られるかを教えるぐらいなんだけどな」

「十分だ」


 戸惑う俺に、それで満足だとばかりに大きくうなずく。


「包み隠さず言ってしまえば、我はもっと〈らじお〉そのもののことを知りたい。この世で愛される〈らじお〉とは、どういうものなのかを」

「ラジオがどういうものか、か」

「ああ」


 多分、それはルティの純粋な本心なんだろう。背筋をピンと伸ばしていたはずがテーブルに身を乗りだして熱弁しているし、瞳にも迷いがない。


「わかった。ただ、俺が休みの日とか学校が終わった後ぐらいしか時間は取れないぞ」

「それでいい」


 そう言って、ルティはにっこり笑うと、


「ありがとう、サスケ」


 また姿勢を改めてから、深々と俺にお辞儀をした。


「いや、いいって。乗りかかった船だし」

「もちろん、あたしも協力しますよっ」

「わたしも、局の見学とかで協力出来ると思います」

「カナも、ルイコ嬢もありがとう」


 俺たちの協力を、ルティは本当に喜んでいるんだろう。有楽と赤坂先輩に見せる笑顔も、とても楽しそうだ。

 でも、それと同時に疑問が湧いてくる。


 どうして、14歳の女の子がこんなに大人びた考え方をするのか。

 俺らとあんまり歳が変わらないのに、なぜそんなことを思いつくのか、って。


「ん?」


 そして、ふと違和感に気付く。


「そういえば、チビ妖精のヤツはどうしたんだ?」


 昨日、屋上でルティに再会してからずっとべったりだったはずのチビ妖精が、何故かこの場にいない。ちょっとでもルティへ気安く話しかければ、くどくど言ってくるはずなのに。


「ピピナちゃんは、瑠依子せんぱいの家でお留守番です」

「留守番か」

「はい。外に出て、迷惑をかけるといけないからって」

「わたしには、疲れたから寝たいって言ってましたね」

「せっかく、これに入ってもらってサスケの御母堂の料理をいっしょに食べようと思ったのだが……」


 残念そうに言いながら、ルティは空色のポシェットを軽く掲げて見せた。確かにそのサイズだったら、チビ妖精も快適に過ごせそうだ。


「まあ、他の人の目とかもあるからな。いくらかテイクアウトが出来るのもあるし、それを後で注文すればいいよ」

「〈ていくあうと〉……おお、持ち帰りのことか。是非とも検討せねば」

「商売上手ですねぇ、松浜せんぱいは」

「商機を逃すこたぁないだろ」

「ふふっ」


 ふざけたように言う俺を、赤坂先輩はにこにこ笑顔で見つめていた。やめてください、何にも他意はありません。他意はまったくないんです。

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