3食 初期子宮がんの生スライスとオイスター炒め、香草煮込み

 むかしむかし、あるところに、兄弟がいました。むかしといってもいつかわからず、またいついかなるときも存在し、あるところといってもどこかわからず、またどこにもいないということはどこでも偏在しうる意味で、はたしてこの兄弟が存在したことを知る者は誰もいないかもしれませんし、すべての読者諸氏なら知ってて当然のことかもしれません。


 あるとき、男とも女ともつかない謎の人物が、山猫診療所へやってきました。

「自分は病気です。法律上は女性なのに、男性になりたくてしかたがない[ トランスジェンダーとは、出生時の性別が自身の性同一性(性自認:(Gender Identity)と異なる人々を示す総称であり、性的少数者のひとつとして挙げられる。かつてはトランスジェンダーという言葉に含まれていた、出生時の性別と異なるジェンダー表現をする異性装(男装や女装)をする人、クロスドレッサーやトランスヴェスタイトは、トランスジェンダーとは区別されるようになった。日本では、2003年7月に「性同一性障害者(GID:Gender Identity Disorder)の性別の取扱いの特例に関する法律(特例法)」が成立したが、一律に「生殖腺(男性は睾丸、女性は卵巣)がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること」と決め、多くの当事者たちが戸籍の性別変更のためこの法律に従った。また、ホルモン投与やSRS(性別適合手術:sex reassignment surgery)を受けない・受けたくないトランスジェンダーもいる。

 自分がトランスだと気づいた子どもたちは、自分に肉体的・精神的な暴力を振るうシスヘテロな両親のところから家出して自活する傾向がある。貧困なかれら・かのじょらはやむにやまれずセックスワークに従事するが、「トランス女性(またはSRSをしていない若いトランス男性)はすぐセックスワークをやりたがる」も一つの偏見である。中卒や高卒で就職できる会社は限られており、トランスであることを公表して入社できる企業がまだまだ少なく、そもそも履歴書の性別欄に「男・女」と記載しなくてはならないからだ(筆者も「男」と「女」のあいだにある「・」に〇をつける。ちなみに生年月日は元号の代わりに西暦で記入するが何か問題でも?)。トランスの子どもたちは連続的で苛酷な状況にあり、うつ病などメンタルヘルスを蝕まれ、SRSを受ける前に自殺したり、事後に自殺したり、稀に手術で死んだりすることもある。日本とタイでSRSを比較すると、日本の費用は高くて技術は低く、タイはその逆であり、廉価で安心なタイでSRSを受けさせようとする詐欺のアテンド・ビジネスが多かったという(2022年現在、タイのSRS可能な病院は日本語サイトで直接アクセスできる。たとえば、ヤンヒー総合病院サイトhttp://www.yanhee.jp/)。2001年、岡山大学病院で国内初のSRSを実地し、2018年には全国で初めて公的医療保険の対象となる手術を実施している。

 なお、世界中に拡散しているTERF(トランス排除的ラディカルフェミニスト:trans-exclusionary radical feminist)の最大の懸念は、海外ですでに成立したジェンダー・セルフID(Gender self-identification)制度である。ジェンダー・セルフIDとは、トランスジェンダーやクィアの人が、自己認識(性自認)だけで法的性別変更を可能とする考えや制度である。性別変更をめぐる諸外国の制度について、2020年の日本学術会議では、「特例法」の廃止と「性別記載変更法」の制定を提言し、2022年に性同一性障害という言葉が国際的な医療診断基準から消え、病気や障害ではなくなる(非病理化される)ことが決定している以上、現行の(非人道的・人権侵害ともいわれる厳しい要件を課す)「性同一性障害特例法」を見直すことが喫緊の課題であるため、これに取って代わる(世界の趨勢に合致した)「性別記載変更法」を提言した。2022年1月現在、ジェンダー・セルフIDは、ブラジル、インド、フランス、アイルランド、欧州連合の他の6か国、およびラテンアメリカのいくつかの国を含む17か国で法制化されている。それを導入する提案は、スペインやイギリスなどの一部の国で物議を醸している。アメリカ合衆国、カナダやメキシコなど、連邦制国家として存立している国では、法的な性別の承認は主に行政区画の管轄下にある可能性があるため、州ごとに異なる場合がある。トランスジェンダーをめぐる時代の先端は、医学モデルから人権モデルへの転換しつつある、と筆者は静観している。

これに対し、アメリカ合衆国カリフォルニア州の州法では「公衆施設の利用が性自認に基づくもの」と定められているため、「性自認が女性だ」と主張する未手術トランス女性による女性スペース利用が法律違反にならず、合法である。そのため、2021年7月にファミリー向け韓国式サウナのWii Spaで未手術トランス女性がスパの女性スペースに入り、少女に半分勃起している男性器を見せたことで女性たちから抗議が起こった。しかし、抗議する人数を上回る活動家も集まり、両者が衝突したWii spa事件(2021年6月、ロサンジェルスWii spaでトランスジェンダー女性が起こした事件)が起きており、TERFの一部であるGC(ジェンダー・クリティカル)系フェミニストが主張するには、「身体の簒奪」「定義変更」を通じてトランス女性が「女性を抹消する」のであり、ジェンダー・アイデンティという概念やジェンダーの社会的・文化的な構築という発想は「ジェンダー・イデオロギー」にすぎない、とのことで、事態はいっそう不安定で流動的で複雑である(シスヘテロ男性の性癖ってヴァリエーション多過ぎ!)。

2018年、国立大学であるお茶の水女子大学が記者会見を開き、トランスジェンダーの学生の入学を2020年度から受け入れることを表明した直後、故・安倍元首相と「お友だち」である某右翼作家が「よーし、今から勉強して入学を目指すぞ!」といった品性下劣なツイートをし、事態はますます複雑である。が、もし日本にジェンダー・セルフID制度が成立したら、このような“合法”的な“性犯罪者”が大量発生するであろう、TERFにとって曇天の未来が待ち受けていると言ってもいい。それでも筆者は静観するしかない。

2022年11月、トランスジェンダー当事者とアライアンス(非当事者の応援者、協力者)がクラウドファンディングして東京・札幌・大阪・福岡でトランスマーチを開催(東京では参加者が1000人を超えた)。プラカードには「Fuck the TERF」とあった(ここでの“Fuck”は「くたばれ・くそくらえ」の意。同じスローガンとして「Punch the TERF」があるが、実際に殴れる状況にないことをプラカード製作者たちは重々承知している)。それをツイッターで目撃した反トランス連中が「やっぱり! わたしたちを犯そう・殴ろうとしていた! クラファン返せ!(金など払ってもいないのに)」との過剰な反応をして誤解させ、火に油を注ぐ事態となっている(SNS上の低レベルな攻撃)。現場から以上です。ちなみに筆者はノンバイナリなので、トランスの人権擁護の応援をしています。この解説の締めくくりとして、ラカンの言葉を借りるなら、「人間存在は狂気を参照せずしては理解できないし、人間はその自由の極限として狂気を抱えているのでなければ人間たりえぬであろう」(『エクリ』)。

 同年9月、ショーン・フェイ著・高井ゆと里訳『トランスジェンダー問題 議論は正義のために(明石書店)』が出版された。定価が2200円と安く抑えられているのは高井氏が翻訳料をとらなかったせいで、「少しでもトランスのみなさんの手に届いてほしい」との高井氏の良心的な発言から。]んです。月経がくるといつも吐きそうになります。いっそのこと卵巣子宮を取っていただけませんか?」

 兄はしばらく考えてから、こう言いました。

「あなた、まだ若いでしょう? いきなり卵巣を取ると、ホルモンバランスが崩れて更年期障害が起こりますよ。ホットフラッシュや不定愁訴、ちょっと転んで大腿骨骨折する骨粗しょう症なんてのは嫌ですよね?」

「あの…子宮はどうなんでしょう? ホルモンと何か関係あるんですか?」

「子宮は取ってもいいでしょう。ただし卵巣はいけません。いくら国家が卵巣を取らなければあなたを男性と認めないと主張しても、言いなりになってはいけません。国家に従うよりあなたの健康な身体が重要です」

「…でも…」

「そもそも男性は女性ホルモンを分泌する量が少ないので、短命な傾向があります。女性ホルモンは長生きホルモンです。うらやましいですね」

「…ですね…」

「時間はまだあります。全摘してから後悔するより、よく考えてから行動するように。子宮卵巣はあるけど年をとれば誰でも多少は更年期障害になります。最近は男性の更年期障害[ 男性更年期障害(LOH症候群:Late-onset Hypogonadism Syndrome)。年齢を重ねるにつれて、「体調が良くない」「何かうまくいかない」「今までと違う」と感じていることはあるが、一般の病院へ行っても「異常なし」。自分の体はどうなったのか。身体的には全身の疲労感や倦怠感、性欲低下、ED(勃起障害)、不眠、肩こりなど、精神的には気力の衰え、集中力の低下、イライラ、抑うつなど、症状は多岐にわたる。現代において、男性更年期障害患者は600万人とも言われている。しかしその症状からうつ病によく似ており、治療を試してもなかなか症状が改善しない…と思われがちである。]が見つかったそうで」

「でも自分は…自分は男になりたいんです! 違う容れ物に入ったような感じがして、居心地が悪いんです」

「違う性になりたいと思うのは、気狂いではありません。何かにつけ『男か? 女か?』にこだわる常識的な思考がすでに二元論的思考で、病気なのです。偏執狂ですね。誰も電気コードとプラグがセックスするなんてことは考えません。フランス語やドイツ語の名詞は男性名詞/女性名詞できっちり分けられていて、名詞同士がセックスして子どもができるなんて考えません。はっきり言って病気です[ まず、読者諸氏の常識を疑ってみてほしい。ラジオ番組ではリスナー投稿から、年齢と性別とラジオネームが記載されているが、通常は「△歳男性」「〇歳女性」だったが、いまでは「ラジオネーム:おじさんのようなおばさん」「性別:ノンバイナリ」という自己申告がますます上がっており、女性/男性のアイデンティティはすでになくなりつつある(その変化をラジオ制作スタッフは無視している)。性的指向(Sexual Orientation)だけなく性自認(Gender Identity)までもがセットになり、いまでは「SOGI(ソジ:頭文字のアナクロム)」と呼ばれる。SOGIはすべての人にかかわるため、LGBTIQ+より広い概念を指す。たとえば、「トランス女性だから男性が好きなのね」というのは異性愛者の偏見である。バイセクシュアルなトランスもいれば、トランス男性でゲイもいる。90年代は一時期クイア理論が流行ったが、今では廃れている(闇と業と罪が一番深いのはシスヘテロ男性だ。彼等は男性でも女性でもトランスでも子どもでも勃起して挿入したがり、性欲を金で解決したりする。普段は常識的で階級の高い職業だが、彼らの得体の知れない性欲を周縁化(しわ寄せする)するのは決まって社会的弱者である)。ここまで言っても理解不能ならば、もういいです。読者諸氏の価値観が頑固で単純なのか、筆者の表現が未熟なのかは、あと10年経ったらわかるはず。勝手に混乱してろ。]」

「…わかりました、しばらく考えてみます」

 男とも女ともつかない謎の人物は、そう言って帰っていきました。自分で指摘するのもなんですが、「謎」の人物はいけません、それは負の形容です。そうなれば筆者は「所存の性別を疑う」者への人権侵害です。筆者もまた二元論的思考に陥っています。この表現の限界に挑戦しなくては。


 翌日、老婦人が診療所にやってきました。

「私、子宮がんです。ステージはまだ初期ですが、心配なので、全摘していただけますか?」

「わかりました。ついでに、がん再発予防のため、子宮まわりも全部きれいに取っちゃいましょう!」

「ありがとうございます!」

「全身麻酔ですよね? ちょっとしたことで死ぬ危険性がありますから注意してください」

「はい」

「酒・タバコはやりますか?」

「はい。毎日でも飲みますし吸います。ヘビー級なんです」

「それはいけません。特に術後は切開した傷口を治癒しますから、酒タバコは傷口の治るのが遅くなります」

「でも私、アルコール依存症とニコチン依存症で、どちらも辞められないかもしれません…」

(ああ…このクッソババア…!! 肺と肝臓だけは丈夫なんだから!)


術後経過も順調で、回復力の強かった老婦人に、全摘した子宮と卵巣を見せました。

「ほら、ここががんのあったところです。がん細胞は少々黒っぽいですね」

「あらまあ、美味しそう。先生、私の子宮と卵巣、いただけます?」

「…は?」

「子宮って、豚のホルモンでコブクロって言うのよ。コリコリした食感がたまらないよねえ。ヒトの子宮も同じじゃないけど、肉より臓物に食欲が惹かれます。食の嗜好が欧風なんです。たとえば、トリッパ[ 牛の第二の胃。ハチノス。第一の胃はミノ。この二つの胃を総称して反芻胃と呼ぶこともある。トリッパ(trippa)は、ハチノスを中心とする胃や腸の煮物。イタリア北部などで広く作られている。ハーブを少し入れた湯で、臭みを取り除きながら柔らかくなるまでことこと煮る。有名なものはミラネーゼ(ミラノ風)およびロマーナ(ローマ風)であり、前者は赤ワイン、後者はトマトソースで味付けされる。]のトマト煮込みとか、牛筋とモツ煮込みカレーなんて、美味しそう! ふふ」

「わかりました。調理担当者と相談してきます」

 兄は老婦人のところを離れ、弟のところに行った。


「え? 患者さんが自分の子宮と卵巣を食べたいって…?」

「そうなんだよ、弟。どうする?」

「人間の部位を食べるのに関して、注意喚起はしてる[ 厚労省が1971年に都道府県に出した通知「無承認無許可医薬品の指導取締りについて」では、人の胎盤は、医薬品としての扱いになっている。同省の監視指導麻薬対策課は「ネットで売ったりすれば、薬事法違反になりますが、食べる行為については、法的な問題はないです」と回答した。胎盤食のデメリットには食中毒などの感染症リスクがある。特に生で食べた場合には、他の肉類同様にさまざまな感染症リスクが高くなる。実際にアメリカでは胎盤食が原因とされる敗血症を発症した人がいるという報告もあった。不十分な加熱では、HIV、ジカウイルス、肝炎ウイルスなどを死滅できない可能性について言及される。]?」

「毎回してる。文書を見せて署名捺印させてる。でも滅多に起こらないことだけど」


 老婦人のところへ弟がやってきた。

「召し上がりかたはお決まりですか? 生でスライスするか、オイスターソース炒めにするか、根菜と煮込んでスープにするか、それとも、全部かっさばいて香草詰めて丸焼きにするか、どうします?」

「うう~ん、本当は全部食べたいんだけど、そこはお任せで♪」

(…欲張りなババアだな…)


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