2食 重度糖尿患者のシビレ・グレンス・リードヴォー

 むかしむかし、あるところに、兄弟がいました。兄弟の職業は以下省略します。二人は都内のタワマンの最上階に住んでいました。窓下を眺め、ナポレオンをバカラであおりながら「見よ、人がゴミのようだ」とあざ笑うことが、二人にとって密かな愉しみだったのです。二人ともマンション・ポエム[ 不動産広告のキャッチコピー。たとえば、「いま東京時間を愉しむ、時代の最前線へ」「広尾、一期一会」「迎賓の地に、新たな迎賓を」「女神は、輝きの頂点に舞い降りる」「世田谷、貴人たちの庭」などなど。コピペしただけで指がむず痒くなった。]にまんまと騙されたのですが(特に「都心から三十分で楽園に到着」に騙されました。購入後、自分たちは社畜じゃなくて個人経営だと判明したのです。二人は本当に愚か者です)、法人税法やLLCの税制からみると最悪のタックス・ヘイヴン[ 一定の課税が著しく軽減、ないしは完全に免除される国や地域のことであり、租税回避地とも低課税地域とも呼ばれる。英語のタックス・ヘイヴンの haven の日本語での意味は避難所であって、楽園や天国を意味する heaven ではないことに注意されたい。犯罪に悪用されている。 ]のひとつである場所に書類上の住所は記載されているのでひとまず安心でした。

 地震大国の日本でタワマン増築中? と読者諸氏は疑問に思うでしょう。東海トラフ地震[ 東海地震は、南海トラフ沿いで想定されている大規模地震(以下、「南海トラフ地震」という)のひとつで、駿河湾から静岡県の内陸部を想定震源域とするマグニチュード8クラスの地震。この地域では、1854年の安政東海地震の発生から現在まで160年以上にわたり大規模地震が発生しておらず、さらに、駿河湾地域では御前崎の沈降や湾をはさんだ距離の縮みなど地殻のひずみの蓄積が認められていることから、「東海地震はいつ発生してもおかしくない」と考えられてきた。

 なお、南海トラフ地震は、およそ100~150年間隔で繰り返し発生しており、前回の南海トラフ地震(昭和東南海地震(1944年)、昭和南海地震(1946年))の発生から70年以上が経過した現在では、東海地震に限らず、南海トラフ全域で大規模地震発生の切迫性が高まっている。ちなみにこの解説文は国土交通省の気象庁によるもの。明日の日本を真剣に考えるのは気象庁しかない。]もいつ襲ってくるかわかりません。仮に地震で倒れないにしても、停電や断水には対策が必要です。両手にバケツを持って五十数階も往復するなんて嫌で面倒くさいですからね。


 あるとき、ワイヤレスドアホンが鳴り、LGの86V型液晶テレビには若い男性がひとり立っていました。

「どなたですか?」

「はじめまして。山猫診療所でしょうか。ヤマモトさんから聞いてきました」

 ああ、ヤマモトさんね、と兄は思い、ドアホンの解除ボタンを押しました。

「どうぞ、お入りださい」


 昼なのに落ち着いた間接照明で夜の雰囲気を出す演出。昔「照明は光を作るんじゃなくて闇を作る」と名言を残した無名の舞台照明家がいましたね。関係ないですけど。

黒の革張りの高級ソファに座った若者は、深刻な面持ちで言いました。

「自分は大学生で、子どものころからⅠ型糖尿病[ Ⅰ型糖尿病(インスリン依存性糖尿病IDDM:insulin dependent diabetes mellitus)とは、生活習慣病の一種であるⅡ型糖尿病(インスリン非依存型糖尿病NIDDM:non-insulin dependent diabetes mellitus)とはまったく異なる性質の糖尿病で、急速にβ細胞が破壊され、さまざまな自己抗体が陽性になる。抗GAD抗体、抗IA-2抗体、抗インスリン抗体、抗ZnT8抗体などがそれにあたる。]でした。遺伝性です。糖尿病といっても成人病のⅡ型糖尿病とは違います。あいつらは贅沢三昧で空腹知らずで、気づいたら糖尿病になっていたという、食にだらしない奴らの病気です。マジで病気な奴らです! 自分は毎日インシュリン注射が手放せず、ほとほと嫌になってしまいました。こんな使えない膵臓なら、いっそ切り取ってしまえばいいと思います」

 兄は少し考えてから、こう言いました。

「膵臓には、炭水化物だけじゃなくてタンパク質や脂質も消化する酵素があります。いま切除したら、お肉食べられなくなりますよ?」

「うーん…」

「もしかしたら関係ないと思いますが、膵臓つながりで、牛の膵臓ならあります。シビレとかグレンスといって、フォアグラ並みに希少です。ふっくらして美味しいですよ。それか、豚の膵臓を移植するのもいいですね。いまはまだ不可能ですが、ヒトiPS細胞やES細胞[ヒトやマウスの初期胚(胚盤胞)から将来胎児になる細胞集団(内部細胞塊)の細胞を取り出し、あらゆる細胞に分化できる能力(多能性)をもったままシャーレの中で培養し続けることができるようにしたものをES細胞(胚性幹細胞:Embryonic Stem Cell)という。]を注入して培養するんです。いつか可能になります。また、クローン胚を使用した『胚盤胞補完法』もありますよ。どうします?」

「…それ…いくらかかるんです? Ⅰ型糖尿病は優先されるんですよね? 何ごとも数が不足しているから、生体肝移植の順番は、アルコール依存症で肝炎になった不摂生な患者を後回しにするって噂があります[ 現実問題として、肝臓疾患の場合、アルコール性由来の脂肪肝や肝硬変患者よりも、伝染性肝炎患者のほうが肝臓移植に優先する。これは臓器不足によるもので、同じ臓器移植なら膵臓もそうではなかろうかと筆者が邪推したもの。]」

「億はくだらないでしょう。普及すればいずれ安くなります。あなたはまだ若いんだし、インシュリン注射じゃなくて、他の方法も見つかると思います」

「はあ…」

「いま現在可能なのは、膵臓ができないように遺伝子を改変した豚の受精卵に、ヒトiPS細胞を入れた『動物性集合胚』を作製して、豚の子宮に戻して胎児に成長させ、人の膵臓のもとになる器官ができるかなどを確認する方法です」

「それ、いくらかかります?」

「これも、最低金額でもやはり億はしますね」

「…頑張ってバイトします」

「バイト? 何の?」

「転売[ 買い取った物をさらに他に売り渡すこと。ネットスラングとしては転売を職業とする者を転売屋、不当に高額な利益を得ることに対する非難の意味で「転売師」「転売厨」「転売ヤー」とも呼ぶ。主に数量が限定されるなどの理由で入手が困難であり、希少価値が高い商品を転売目的で購入(個人ないしアルバイト等で雇われた複数人)して買い占め、ネットオークションやフリーマーケットなどのインターネットを介し高値で販売し、輸送便で発送することを生業・趣味とした一般個人を指す。某ゲーム実況配信者はPS5が転売屋のせいでまったく入手できず、「両手の指全部溶けろ。キーボード打てなくなるから」と呪詛を吐いている。]の仕事です。短時間ですがサクッと儲かるんです。割がいいと思います」

 兄は、売春[ 「売春よりも売春に近い」って、どうやら兄は誤解しています。売春は肉体労働(sexwork is work)ですし、HIVやHPV(ヒトパピローマウィルス:子宮頸がん感染症ウィルス)など、STI(性感染症)の検査を定期的に行わないといけません。ヘルスの常連客やそのへんの素人娘のほうが絶対病気もってますって。いまどき「簡単でサクッと儲かる仕事」なんて、そうそうないでしょう。みんな苦労してるんです。]よりも売春に近い仕事が進出してるんだな、それも、顔の見えない相手と取引している、と思いました。


「ちょっと、兄者」

「なんだ、弟」

「民主主義と市場経済って癒着してるの?」

 突然、なんの脈絡もない話を弟が切り出しました。

「民主主義ね。民主主義は『自己免疫性』の病を抱えている。民主主義は自分自身を敵とみなして攻撃する傾向がある。それは自壊的、自殺的である。『自己免疫性』は民主主義の欠陥――本性的パラドクス――にほかならない」

そういった兄の考えが弟には理解できませんでした。しかし、兄のデスクにはデリダの著書があります。ははあ、兄者はデリダに影響されたんだろう、と弟は思いました。


 それから数十年後――

 かつて学生だった若者は、転売の仕事から実業家になり、渋谷区松濤の住宅とセスナ機を数機持ち、再び兄の住むタワマンへ行きました。タワマンは無事でしたが、仲介役のヤマモトさんも、兄弟ももうとっくに亡くなり、実業家の夢は潰えました。いくら金があっても本人に必要な情報は乏しいという教訓で、実に残念な結果となりました。くわばらくわばら。


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