マリという女③

 ◆


 蒼島の手刀がマリの心臓に届く寸前、歳三は素早く動いてその手を掴んだ。


 肉と肉ではない。


 金属と金属が軋り合うような音が回廊に響く。


 蒼島は驚きの表情を見せ、歳三を見やる。


「佐古さん、なぜ止めるのですか」


 蒼島の声は刃物の鋭さを帯びていた。


 歳三は一瞬目を閉じてから、ゆっくりと首を振る。


 声に出して答える事はしなかった。


「彼女は人間じゃない。ましてや僕たちの味方ではない。僕にはそれがわかります。僕は彼女の精神に触れようとしましたが……」


 蒼島は腕を引き、警戒の念を色濃く滲ませマリを睨みつけながら言った。


 声が僅かに震える。


 蒼島の表情に暗い影が差した。


「まるで、冷たい沼に手を突っ込んだかのような感覚でした。何かぬるぬるとしたものが絡みついてくるんです。無数の触手が、冷たく湿った感触で心の奥底に絡みついてくるようでした。まるで、闇の中から何かが手を伸ばして引きずり込もうとするかのように……」


 マリは何も答えない。


 真っ黒いガラス玉のような瞳で蒼島を見つめている。


 蒼島は続けて言った。


「彼女の精神は、人間のそれとは全く異なります。少なくとも、彼女は僕たちにとって安全な存在ではない。それだけは確かです」


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 明らかに深刻な場面だが、ピンボケしている歳三にはちょっとよくわからない。


 改めてマリを見るものの、確かにあの時のロングヘアの女性に似てはいたが、よくよく見れば違うようにも思える。


 ──あの人は、どんな顔をしていたっけなァ


 歳三はのんきにもそんなことを考え、顔を思い出そうとしていたが、脳裏に描く画像はところどころボケていて、どうやら思い出せる感じがしない。


 この辺は佐古歳三という男の個性というか、彼は何事につけても"覚えよう"と意識しないと記憶に刻み込まれないタチにできているのだ。


 しかしこのタチ、かなりピーキーな設定らしく、歳三が本気で覚えようとしたならば、たとえどんな些細な事やモノであってもまるで写真に写したかのように鮮明に脳裏に刻み込まれ、それらは決して消えることがない。


 ところでなぜ歳三が蒼島の攻撃を妨害したかといえば、いつものしょうもない理由……というわけではなく、一応は自身の希薄な善性に従って行動したにすぎない。


 これ以上罪を犯してもらいたくなかったのだ。


 歳三は蒼島がこの監獄に打ち込まれた理由を彼自身から聞いている。


 歳三としては正当防衛なのだから別に構わないじゃないかというそんなノリだったのだが、どうやら蒼島は歳三には窺い知れない理由で気に病んでいるらしい。


 要するに心が弱いのだ、と自分のことを棚に上げた上から目線の感想を蒼島に抱いていた歳三は、このダンジョン探索がどれほど長く続くかわからない状況で少しでも心に負担をかけてもらいたくないからという慈悲の心で蒼島の攻撃を妨害したのである。


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 蒼島は歳三に掴まれた腕を擦りながら、次に取るべき行動を心中で模索した。


 マリが何をしようとしてもすぐさま反応できるように警戒しつつ様子を伺う。


 ──この女、見れば見るほど彼女……冴木撫子に似ている


 蒼島が十全に能力を行使できていれば死なせなくて済んだ女。


 彼女の死は己の未熟さの象徴として蒼島の精神の瑕となっている。


 ◆


 "意思"には感情がある。


 もちろん人もそれとは似ても似つかないいびつな構成をしているが。


 その感情のようなものはこの時、警戒、困惑といった色をにじませていた。


 この巣鴨プリズンダンジョンで発生する全ての事象は"意思"から発されているのだが、その分体の一つはまだ見極められないでいた。


 個体の一つはまだではないとわかる。


 なぜならば更生の念が見られないからだ。


 もし本当に申し訳ない、悪いと思っているならばあのような暴挙には決して出ないはずである。


 しかしもう一方の個体はよくわからない。


 ただが必要だ、と"意思"は分体に伝達した。

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