マリという女②
◆
三人は監獄エリアを抜けるために回廊を進んでいた。
聞けばマリもまたこの巣鴨プリズンダンジョンに
しかし看守も見回っており、中々うまく探索を出来ないでいた所、歳三たちに出くわしたとの事だった。
素性は協会所属の探索者で、等級は乙級。
「私も余り人に言えない過去があって……」
それは歳三も蒼島も同じであった為、その辺の事情については二人ともマリに深くは尋ねなかった。
それはそれとして、蒼島はマリにはどこか余裕がある様に思えていた。
──余裕がある。ありすぎる。僕
歳三も余裕があるように見えるが、蒼島の中では歳三ほどの強者ならば余裕があって当たり前だという先入観がある。
まあ蒼島が思うほど、歳三に余裕があるわけでもないのだが……
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マリを見ていると、歳三はなぜだか過日の出来事を思い出してしまう。
あれはいつのことだったか──歳三はどこか胸が苦しくなるような思いで、その時のことを思い出す。
まだ春先だというのに、その日は朝から初夏のように気温が高く、ただ歩いているだけで汗が滲んでくる様な日だった。
歳三はその日、電車で職場へと向かっていた。
職場と言ってもいわゆる作業所で、就労継続支援A型と呼ばれる施設だ。これは一般就労の難しい障害や各種の精神疾患を持つ人が利用可能なセーフティネットの一種である。
就労継続支援にはA型とB型があり、前者は事務所と雇用契約を結び、後者はそれを結ばないという違いがある。
非常に雑に言ってしまえば、社会への適応がより高い者がA型、低い者がB型で働くことが多い。
給料にも大きな違いがあり、雇用契約を結ぶA型では最低賃金以上の給料が保証されるが、B型はその限りではない。
B型では時給換算で200円から300円ほどであるが、A型では少なくとも1000円近くはもらえる。
歳三が通っているのは「Be proud」(誇りを持て)というA型作業所だ。
歳三の最寄り駅は急行や特急も止まる比較的大きな駅で、ホームも多くの人で賑わっていた。
当時、日本や世界はダンジョンの発生により少しずつ社会が変革している最中だったが、歳三は特にダンジョンについて思うところはなかった。ただ、危険な場所だということは理解していた。
歳三は草食系男子と言えば適切かもしれないが、当時の彼にはハングリー精神のかけらもなく(もちろん現在も)、無能の部様な生き方を体現しているといった様な風情だった。
歳三の周囲の者たちも、ほかならぬ歳三自身でさえも彼を必要とはしていなかった。
このような孤独な状況が続くと精神的におかしくなりそうなものだが、歳三に関してはそういったことはなかった。
彼の精神が元々おかしいからではなく、少しはそれもあるかもしれないが、孤独を孤独として認識するほど人との関わりがなかったからである。
幸せ不幸せなどという感情は、基本的に他者との比較から発生するものだ。
仮に他者の目から見て歳三が孤独で不幸だとしても、最初からそういった環境に身を置いていれば、彼自身はそれを不幸だとは感じない。
当時の歳三はそんな理屈の中で生きていた。
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朝の通勤通学時間。電車の中は便秘気味の直腸にぎゅうぎゅうに糞便が詰まっているような有様で、その日の朝の乗車率は優に110%を超えていた。
当時、歳三は20代に足を踏み入れたばかりのピチピチ青年だ。
しかし年は若くても心は弱く、肉体の強度もまた一般人の域を出なかった。
やたらと暑い日、ぎゅうぎゅうに詰まった満員電車──……将来に対する不透明感がもたらす何とも形容しがたい不安感。
あらゆる意味で、歳三のコンディションはベストとは言えなかった。
──はあ
と歳三は内心でため息をつく。
歳三は「Be proud」で清掃業務を任されている。ホテルや銭湯、店舗の清掃、植木のゴミ拾いを何人かのチームを組んで行うのだ。
もちろん他の仕事を任されている者たちもいる。例えば、パソコン業務や飲食補助業務など、作業所は案外手広く請け負っている。本人の能力に従って事務所が仕事を振り分けるのだ。
今日向かう現場は駅近の小綺麗なビジネスホテルの客室清掃だった。
歳三はこれがどうにも苦手で、憂鬱の念を禁じ得ない。
というのも、小綺麗な空間というのは普段自分が置かれている環境との差を強烈に意識せざるを得ないからだ。
意識してしまえば胸の奥で何かが生まれる。それはモヤモヤとした気持ちの悪いもので、歳三はその感情に名前をつけられないでいた。
そうして胸の奥の黒い念を持て余していると、不意に鼻先に蠱惑的な匂いが香った。
見れば、斜め前に手すりにつかまるロングヘアの女が背を向けて立っている。
香りは彼女から放たれているものだった。その香りはただ蠱惑的であるだけではなく、劣情を悪い意味で刺激する毒花めいた部分もあった。
歳三はふと気が遠くなるような気がして、慌てて軽く首を振る。
その時、腕に何かが当たったような気がした。横目でチラリと見れば、スーツ姿のサラリーマンが少し身じろぎした様だった。
不意にガタンと大きく電車が揺れた。
「わっ」とか「きゃあ」とかそんな声が車内に響き、歳三もその場で足を踏ん張ったが、彼のしょうもな足腰は振動に耐えることができず、たたらを踏んでしまった。
転ばなくて良かったと安堵したのも束の間、ロングヘアの女がこちらを振り向き、キッと険しい目つきで歳三を睨んでいる。
女の唇が開かれ、歯が剥き出され──。
◆
不意に歳三は気づく。
──このマリって人は、あの時の女の人に似ている……
横では蒼島が怪訝そうな目で歳三を見ていた。
対して、マリの表情は野良犬の死体以下のコミュ力しかない歳三には伺い知ることができない。しかし、あえて言うならばその表情は無である。
丸く大きな黒い瞳はまるで深い深い穴のようで、歳三は背筋を軽く震わせた。
その穴は人生という長い道のり、その道中に大きく空いた落とし穴だ。
穴からは声が響いてくる。
その声はこんなことを言っていた。
──お前には居場所なんてない。なぜならお前はとてもとても嫌われているからだ。お前がどれだけ居場所を作りたいと思っても、どれだけ努力をしても、お前の居場所なんてどこにもない。みんながお前を嫌っている。さあ、こちらへおいで。穴に落ちて、どこまでも落ちて、二度と這い上がることができない暗がりで……
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「冴木さん、なぜ君がここにいる? いや、答えなくていい」
蒼島の声にはピィン、と張り詰める様な鮮烈な気迫がこめられていた。
この時、PSI能力に素養のある者ならば蒼島が何らかの能力を起動した事に気付いただろう。
歳三はとても冷たく透明な針が自身を突き刺した様な感を覚え、そのおかげで意識を立て直す事が出来た。
そして──……ぎちり、と蒼島の右手が手刀の形を取り、マリの心臓めがけて突き出された。
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