巣鴨プリズン⓪
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これでいて根っからの場当たり主義者でもある歳三は、身辺がキナ臭くなってきた事は理解しつつも、それに対して何か特別なアクションを起こそうとはしなかった。
探索はサボらずやり、鉄騎や鉄衛らとのやり取りもつつがなく行う。
ただ、日々のルーチンを変えようとはしない。
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何の気もなく歳三はテレビをつけると、メジャーリーガーの小谷が結婚を発表したニュースが流れ始めた。小谷は非探索者でありながら、探索者並みの身体能力を持つと言われている二刀流の大選手だ。
記者会見の映像が映し出され、小谷が苦笑いを浮かべながらも落ち着いた様子で話し出す。
──「あまり騒ぎ立てたくはなかったんですが、周囲がうるさいので、このような形で発表することにしました」
奥さんはどんな人なのかというマスコミからの質問に対して小谷は、「そのうち発表するかもしれませんし、しないかもしれません」と記者たちを煙に巻いていた。
「結婚ねぇ」と歳三は呟き、尻を掻く。
歳三には結婚とは何なのかが良く分からない。言葉では理解できてても、意味が良く分からないのだ。
"理想流体の定常流れにおいて、流線上でエネルギーが保存されることを示した定理をベルヌーイの定理と呼ぶ" などと言われても、何を言っているかさっぱりわからないのと同じである。
誰かが「君がストローでジュースを吸っているところを想像してね。ストローの中のジュースは空気よりもずっと重いよね。でもストローを吸うとジュースが上に上がってくる。これは、空気が動くとき、その周りのものを引っ張る力が働くからなんだよ。ベルヌーイの定理っていうのは、空気や水みたいなものが動く時に、その周りで何が起こるかを教えてくれる定理なんだ」というように、懇切丁寧に教えてくれれば歳三も理解できるが、そんな人間は過去に居なかったし現在でも居ない。未来に於いても余り期待は出来ないだろう。
だが──……
「まあ俺にはダンジョンがあるし」
と、歳三は余り意に介さないフリをした。
声には胸が締め付けられるような現実逃避の念がこびりついている。
歳三は気付きたくないのだ。
知らないままでいたいのだ。
年月を積み重ねていったその先の事を。
"現実" は歳三に始終この様に囁く。
──『背を曲げ、缶ビールと煙草をそれぞれの手に持って、薄暗い部屋でテレビを見ている老人の姿を見ろ、それがお前の未来の姿だ』
と。
ちなみに歳三の老後への不安は完全な杞憂と言っていい。
これでいてメンヘラ気質な所もある歳三だからこそこんな事で凹んだりするのだ。
毎週5、6日はダンジョンに行き、そのたびに馬鹿みたいな額を稼いでくる歳三である。
協会から紹介してもらった運用筋に金を預けて、結句、金が金を生んでいるという状況だ。
乙級探索者としての社会的地位もメジャーリーガーの比ではないし、そんな彼と結婚したいと思う女は腐る程いるだろう。
だのにこうして不安に暮れているというのは、それだけ歳三の社会不適合者としての強度が高い事を意味する。
◆
夜が更け朝が来て。
時刻は午前7時。
朝の寒さが厳しいこの時間に、歳三はいつになく厳しい表情で煙草を吸っていた。
──俺はこのままじゃ駄目だ
将来への不安が歳三を脅かしていた。
寂しい老後なんか迎えたくない。なんだかこう、アットホームなホームドラマかなんかみたいなシーンを人生の一幕に加えたい……そんな思いが風となって歳三の精神の荒野を吹き抜けていた。
(少なくとも歳三目線では)試練が必要であった。男が男を磨くイベントと言えば試練である。これは歳三の好きなサブカルコンテンツ各種でもそうなっている。
「行くか、ダンジョンへ」
この時歳三の脳裏にあったのは幾つかの高難度ダンジョンである。
乙級ダンジョンの中でも上澄み中の上澄みの超高難度ダンジョンだ。
これらは
なお、歳三はストレスが溜まれば溜まる程危険なダンジョンに行く傾向がある。
目指すは東京都豊島区東池袋3-1-6。
ダンジョン探索者協会には幾つもの闇がある。
ダンジョン時代の黎明期、法の整備もままならない頃。力に溺れ、社会から逸脱した行動を取る凶悪な探索者たちがダンジョン探索者協会によってここに追放され、そのまま葬られることが少なくなかった。
このダンジョンの特徴は、追放された探索者たちが成り果てた異形のモンスターたちが潜んでいることである。
彼らは生前の凶悪さをそのままにモンスターへと変貌し、ダンジョンの奥深くにひそむ。
ダンジョンなんだから自由に出れるだろうという向きもあるが、その理屈はこのダンジョンには通らない。
自由に入る事は可能だが、自由に出る事は出来ない……そんな魔界の名は乙級指定、旧巣鴨プリズンダンジョン。
三桁近い乙級探索者と四桁にも及ぶ協会職員の命、更には過去には甲級探索者も一名未帰還となっている。
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──俺には敵が必要だ。だらしねえ俺を磨いてくれる敵が
歳三の眼がワイルドウルフの危険な蛮光を帯びた。
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