日常53(空手家ーズ)

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 珈琲の香りが薄く大気に溶けている。


 ここは京都市内は下京区の新釜座町にある喫茶店だ。いわゆる隠れ家カフェという奴であった。


 店内の照明はやや光量が控えめで、全体的に落ち着いた雰囲気で、更にいかなる広告媒体にも店を掲載していないので文字通り知る人ぞ知る…という店として知られている。


 店の隅に二人の男女が向かい合って座っていた。男も女もまだ若い。といっても学生というわけではなかったが。


 男女の一方…青年が携帯端末を握りながら口元に笑みを浮かべている。不敵な笑み…というわけではなく、面白いものを見たり聞いたりしている時、声を出さない様にこらえている時のなんだかちょっとキュッとした笑みである。そんな笑みで目の前のクリームソーダに乗せられたバニラアイスを食べていた。


 細目の狐顔の青年だった。頬はややふっくらとしている。体格は中肉中背で、背に上に突き出された拳がアメコミ調でペイントされたパーカーを着ている。


 高橋 一真タカハシ カズマ、27才。

 福岡出身で武術の経験は長く、福岡は北九州出身の空手家、印伝 竜房インデン タツフサが開眼した実践空手を修める事20年に及ぶ。一真は元は孤児なのだが、竜房がそれを引き取ったのだ。一真にとって竜房は師であると同時に育ての親でもあった。


 しかし師である竜房の病死にともなって上京し、旭真大館へと入会した。彼の師である竜房は旭真大館の副館長の覚えめでたく、竜房の病死を知った副館長が一真を…いや、一真ともう一人の弟子を呼んだのだ。ちなみに旭真大館本部は京都にあるが、これは象徴的なもので、活動の主体は東京支部にある。


「一真君、何か面白いものでも聴いてるんですか?」


 一真に尋ねたのは向かいに座る細面の女性だった。


 黒峰 しゑクロミネ シエ、33才。一真との関係はいわゆる同門という奴である。境遇的にも一真と同じだ。


 黒く塗れた髪を肩口で揃え、目じりはキリリと切れあがっている。ピンと張った鋼線を思わせる女であった。敏感な者ならば彼女の全身から放射される妖しい気配にすぐ気付くだろう。不吉、しかし厭なモノだと分かってはいても近寄らざるを得ないような、そんな気配だ。身に纏う黒いワンピースもまた彼女の不吉さに一役買っていた。


 しゑの視線は一真の耳にはめ込まれた白いイヤホンに注がれている。


 一真は同好の士を見つけた様な嬉しそうな笑みを浮かべ、しゑに目を向けて口を開いた。早口でやや甲高く、どこか幼さを感じさせる声だ。


 しゑは彼の声を聴くと、どういうわけか明かりに照らされた鼠を連想する。壁には鼠の影がうつりこむ筈だが、壁にうつった影は鋭い牙を武器とする剣虎の影がうつっているのだ。


 しゑはそんな彼の声が嫌いではなかった。一真が年下だというのもあるのかもしれないが、どこか弟の様に思えてしまう事が多々あった。


「いやね、MAMAZONオーディブルっていうのがあるんですけどね、絹谷みさっていう人の作品がね、面白くて。日常系の短編集なんですけど、どの主人公もね、なんというか味があるんですよ。大変異前の時代の作品なんですけどね…」


「丁度コロナ・パンデミックの時の話でしてね、当時の生活ぶりが…」


「極普通の男女なんです、何か特別な野心とかがあるってわけじゃなくて、それで…」


「つまり…」


「僕が好きなのは整形女子編でして…」


「いや、最後の収録作品の『僕』もいいな。あの主人公はほんとうになんというか、こう、酷い屑なんですが、なぜか憎めないんですよね。不倫&3股っていうのはまごう事無き屑なんですが、でもあの主人公は凄いですよ、嫌いになれない!絹谷みさ先生は凄いですね、小説家っていうのは素晴らしいですよ」


 マシンガンの様に延々としゃべり倒す一真の話に、しゑはフンフンと頷きながら耳を傾けていた。一真が最近MAMAZONオーディブルにハマっている事は知っていた。こうして二人でお茶を飲んでいる時も構わず聴くスタイルには当初は辟易したものの、今ではもう慣れてしまっている。よくもわるくも、高橋 一真という男はちょっと変わっている男なのだ。


 ──でも不倫&3股っていうのはちょっと酷いですね…


 時間があったら聴いてみよう、とおもいつつ、しゑは一真が楽し気に話すのを眺めていた。


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 その目つきからか油断ならなそうな鋭い雰囲気を醸し出す一真だが、根はインドア・ミーハー・スタイルといった所で、SNSで少しでも話題になったものには手を出す軽やかな気質だったりする。しかしいざ戦闘となれば軽い気質は息を潜め、研ぎ澄まされた矛の様な鋭さを見せる。


 このダブルなギャップに、しゑは好感を抱いていた。今年33才となったばかりのしゑは、花の10代、20代を武術にささげた女傑だが、例によってギャップに弱い。例とはつまり、男も女もギャップに弱いと言う天の理、そして地の自明の事である。


 しゑは自身の技量を伸ばす為にダンジョンにまで足を延ばし、モンスターとの死闘に武術家としての悦びを見た。だがその欲望の充足はモンスター相手ではすぐに満たされなくなってしまったのだ。確かにモンスターは強く、恐ろしい。しゑの卓越した業を以てしても手も足も出ないモンスターなどは腐るほどいるが…


 ──なんだかそうじゃないんですよね


 と、しゑは思うのだ。


 ボクサー(一般人)が羆に殴り勝てないからといって悔しがるだろうか?


 陸上短距離の金メダリスト(一般人)が車より遅かったからといって悔しがるだろうか?


 強大なモンスターに勝てないからといって、武闘家としての矜持に瑕がつくだろうか?


 そういう事なのだ。


 ──自身の業を試したい、人間で


 しゑは自身に残虐な部分がある事を理解している。その残虐性を発散させる為に、自身が修めた武術…空手の皮を被った殺しの業がとても役立つことも良く知っている。


 それは決して同門の者に振るってはならないという事も理解している。


 だが同門でないのなら?

 つまり、"敵"なら?


「しゑさん、目が怖い事になってますよ。大会が楽しみなのは分かりますけどね。そういえば今年は絶対に勝ちたいんだそうです。副館長がそう言っていましたよ。だから僕らを出すんだそうです」


 しゑは一真の言葉をきいて、薄っすらと笑みを浮かべた。一見しとやかそうに見えるがしかし、その瞳の奥底にはドロ、としたものが滞留している。


「一真君はそこまで乗り気じゃなさそうですね」


 しゑがそういうと、一真は苦笑した。


「そうですね、僕は見世物になるのは好きじゃありません。でも師が副館長の世話になっていたそうですからね。一緒に暮らす僕らの生活費から進学費用から、なにからなにまで副館長のお財布から出ていたそうですしね。助かりますよね、師は両腕がありませんでしたし。だったら少しくらいは義理を返さないといけません。恩は倍で、怨は三倍で返すというのが師の教えです」


 一真の言葉に、しゑは笑みを浮かべたまま黙って頷いた。


 彼らの師、印伝 竜房はかつて探索者協会の甲級探索者…野獣と呼ばれる男に果たし合いを挑み、敗れている。結果として竜房は両腕を失った。

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