2-8. 18:30 夕霧の朝霧高原と超々ロング・ダウンヒル



 ・



 本栖湖周遊を終えて、国道139号線に復帰する。

 目指すは朝霧高原。そしてその向こうにあるゴールの富士宮市だ。


 時刻は18:00、もはや夕暮れ時。だが残念ながら美しい夕焼けは見えなかった――空は重たい雲に覆われてしまっている。

 併せて、気温もどんどん低くなっていくのを感じる。

 標高が高いこともあって山中湖周辺で25℃ほどと、晴れた日中でも非常に過ごしやすい気温だったのはとてもありがたかった。

 山中湖に至った後、脚と体力を温存できたのは平坦路であったことと気温に救われたのは間違いない。

 だが今は、その標高の高さと涼しさが裏目に出てしまっていた。


 道路わきの気温表示に、18℃と出ている。

 

 ――ヤバい。

 

 日が沈みかけ、しかも曇天。明るさはどんどん失われていく。

 今はまだロードバイクを漕いでいるお陰でさほど寒さを感じないが、これが完全に夜になってしまったら? もし――雨が降り出してきてしまったら?

 想像するだにぞっとする。

 体力も限界に近い状態で、暗闇と雨の中、坂を駆け下っていく……?

 濡れた体に吹き付ける風。冗談抜きで一気に低体温症になってもおかしくない。


 一つだけ幸いなことがあるとすれば、現在私が向かっているのが南であるということだ。

 天気予報番組でよくある、気象の移り変わりを見ればよくわかることだが天気の変化は西、そして北からやってくる。

 これは日本の気候が偏西風の影響を受けていることが原因だ。

 つまり南に向かって走るということは雲から逃げているのと同じ、と言うことになる。


 薄暗い森に囲まれた国道をひた走る。

 この辺りではもう、自動車に追い越されることも対向車も殆ど走っていない。それはつまり、それだけこの場所が人里離れた場所でもあるという証左だ。

 日中であればロードバイクで走りやすいと思うが、こんな状況では心細さを覚えて仕方がない。

 改めて、地図を確認する。

 出発したのが、富士宮市――時計に例えれば七時方向。

 御殿場市、四時方向。

 篭坂峠、三時方向。

 河口湖、十二時方向。

 本栖湖、十時方向。


 シンプルに考えれば、全行程の1/4が未だ残っているということだ。

 150kmの1/4……? 

 もちろんこれは概算でしかない。

 だが、概ねそれ位の距離はある、ということだ。


 改めて、自分がどれだけでっかい山に挑んだのかを思い知らされて、この時私は、思わず、


「ふ、ふへっ、へへっ」


 笑ってしまっていた。

 道はいつの間にか登りに入っている。

 

 何度も確認していることだが、ここまで来てしまったらもう、雨が降ろうと気温が低かろうと夜になろうと、進むしかないのだ。

 選択肢が一つしかないのだから、やけくそ気味な笑いも漏れるというものだ。

 薄暗い道路にライトの照らす灯りを導べとして、ペダルを一漕ぎまたひと漕ぎ。

 僅か2mの登攀を繰り返す。

 焦りはするが無理はできない。今、脚攣りを起こしてしまうわけにはいかないのだ。

 助けを呼ぶこともできない。おそらく、周囲数百メートルに人間は私一人……そんな静かな場所を走っていく。

 薄い霧に覆われた周囲は、暗くなるというよりもなんというか――色を失くしていき、灰色を重ねていくような変化だった。

 雲の中で夜を迎えるというのは、こういう姿なのか……と私は初めて知った。

 初夏の朝に始め、照り付ける太陽と萌える緑に映える富士山の冠雪、それらを映す湖と美しい色彩の自然を堪能したロングライドは、喪色の終盤を迎えつつあった。


 一漕ぎひと漕ぎを積み重ねて、どれくらい経ったのだろう。

 篭坂峠ほどの急坂ではなかったお陰で体感ほど長い時間ではなかった、と思う。

 不意に視界が開け、坂の斜度が緩くなる。

 顔を上げて前を見れば、白い案内板が掲げられていた――静岡県の文字が目に入る。


 気が付けば私は、県境である石割峠を越えて静岡県へと戻っていた。

 篭坂峠を越えた時には喜びのあまりに「山梨県 山中湖村」と書かれた案内板の写真を撮ったのだが、この時はもうそんな気力も残ってはいなかった。


 

 ・

 


 辺りはとても静かで、そして薄く暗かった――いや、明るさが少ない、と言う方が正しいだろうか。

 灰色を重ねて色を喪うというのが本当にしっくりくる。

 この周辺を朝霧高原と言い、本来であればキャンプやら観光やらで人が沢山いてもおかしくないのだが、寂しいくらいに人気が無い。

 田舎というのは店が閉まるのも早ければ、そもそもこの周辺にはスーパーもコンビニも無いような場所だ。唯一買い物が出来そうな場所と言えば道の駅朝霧高原だが、その道の駅の営業時間はとっくの昔に終わっている。

 そのまま進んでいると、「富士ミルクランド」の看板が見えた。

 柵の向こうでは無数の牛たちが、牧草を食んでいる。

 広い高原の牧草地帯、その向こうには富士山麓の光景が広がっているはずだが、薄い霧が幾重にも重なりその姿は見えない。晴れていれば緑の牧草と乳牛と富士山の姿で非常にフォトジェニックだったと思うのに。残念だ。


 

 翌日の荒天もあって私がこの旅で富士山の雄姿を目にしたのは、本栖湖で見たのが最後となった。 

 

 

 そして酪農畜産関係で有名な朝霧高原。ここを訪れるのは二回目だが、どちらも到着が遅すぎて何も購入することはできなかった。

 もっともそれに文句を言う資格は全く無いんだけど。旅程の終盤に朝霧高原に寄るようなコースを組んでいる私が悪いし、今回に至っては自転車なのでそもそも荷物になるものを持っていけないのだからどうしようも無いのだけど。

 時間記録のために牛の写真を一枚撮って、朝霧高原を後にする。


 一応住所としては朝霧高原は富士宮市ということになる。

 ここから先は一路、長い下りが始まる。今回のフジイチライドで、富士宮市スタートで反時計回りを選んだのはこれが狙いでもあった。

 150km超のロングライドの最終盤。私のド貧脚は間違いなく終わっているはずだ。

 その時にアップダウンが残る愛鷹山周辺を走るより、ダウンヒルが殆どの朝霧高原を走る方が絶対にラクなハズだ。


 結論から言えば、九割方が私の目論見通りであった。

 ただし致命的な誤算が二つ。


 ✕ 富士宮市市街地までダウンヒルが殆ど

 〇 富士宮市市街地までダウンヒルしかない


 ✕ ちょっと長めの距離

 〇 25kmはちょっとじゃない


 ちなみに県境の割石峠の標高は979m。

 途中で経由する白糸の滝付近は491m。

 ゴールの富士山本宮浅間大社は123m。

 え。

 待って。

 これから25kmで850mを一気に駆け下るダウンヒルっすか?

 登りは? 

 皆無!?

 ちょ、待、暗くなって、危な、あぶ、あぶ、ぶ、


 ぁ ぁ ぁ ぁ゛ ぁ゛ ぁ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁぁーーーーーーーーーー(ドップラー効果)


 


 止ま止ま止まぁぁぁぁぁぁぁッ

 ぬわーーーーーーーーーーーッ

 ひっぎぃぃぃぃ、

 カーブぅぅぅぅううううをわぁぁぁぁあああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛

 暗い暗い、街灯はァァァああああああ゛あ゛っぶなぁぁぁぁぁぁぁぁなんかギャップ踏んだああああ゛あ゛あ゛

 またかーぶぅぅぅうあああああああ゛あ゛あ゛S字ぃぃぃぃい゛い゛い゛い゛っあ゛あ゛あ゛あ゛゛あ゛あ゛゛゛゛゛゛゛゛゛

 い゛や゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛跳んじゃう゛う゛う゛う゛う゛う゛ら゛め゛え゛え゛え゛


 

         あっ



 

 

 

 日も沈み、夜の帳が下りた静かな富士宮市郊外に響き、尾を引いて遠くに消えていく汚ッサンの悲鳴。

 正直すまんかった。



 いやもうね。

 なにが凄いって街灯も信号も無いの。

 そしてロードバイクってレーススピードにも耐えられるよう構造なんで、下りって滅茶苦茶スピードが乗るんだよね。

 登りは脚力が必要だけど、下りにはそれが必要ない。ってことは、ド素人でもプロ並みの速度が出るということでして。

 そしてプロのダウンヒルって、70km/hとか80km/hが当然の世界なんスわ。100km/h届くこともあるそーな。

 もう一回言うよ?

 ロードバイクって、長い下り坂なら素人でも 


 下 り で 80 km/h 出 せ る の 。


 ヤバない?

 っていうかヤバかった。


 もちろん私はプロじゃないしレース中でもないし、そもそも危ないからブレーキを使ってはいた。

 しかしそれでも所々40km/hくらいは出ていたハズだ。

 だんだんと暗くなって周りが見えなくなる。

 街灯は皆無。信号も皆無。対向車もない。

 ロードバイクに装備したライトの灯りだけを頼りに高速で坂を駆け下っていく。

 

 一筋の灯りが暗闇を切り裂き。

 一台のマシンが猛然と疾走する――


 なんて書けばそりゃ格好いいし事実ではあるけども、実際には転倒の危険がある(そして転倒すれば大怪我の危険もある)本当に危ない時間だった。

 

 国道139号線は途中で自動車専用道になっているらしい。

 白糸の滝へと続く右への分岐点までのおよそ10km、本当に一度も信号もなくノンストップで駆け下る。

 そしてその分岐に入ってからも条件はほとんど変わらず、白糸の滝の前にあるラウンドアバウトまで再びのノンストップダウンヒル。

 

 

 登りのキツさに死にそうな思いをしたこのフジイチだったが、唯一物理的に死ぬかと思ったのはまさかの下りだった、というオチ。

 ……下りだけにね!!


 ラウンドアバウトの前にあるコンビニの灯りが見えた時は本当に、本ッッッッッ当に心の底からほっとした。




 

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