2-7. 18:00 本栖湖によぎる暗雲



 ・


 西湖を駆け抜けると、河口湖に向かうために外れた国道139号線に合流した。

 その辺りは両側を鬱蒼と生い茂る森に挟まれた地域だ――そこは青木ヶ原樹海。

 自殺の名所として知られる場所である。

 富士山周辺にあることは知られていても、具体的な場所は結構知られていないって奴第三段。

 これまた完全な偏見だが、樹海というからにはアマゾンの秘境みたいな、濁った河を木のボートで遡上してやっとたどり着けるような場所だと思っていた。しかし普通に道路が通されていてちょっとガッカリしたのはここだけの秘密。

 場所としては富士山の北西部、西湖と精進湖の間、鳴沢村の周辺である。

 まぁ言うて日本だし、植生が特別変わった……と言うほど植物に詳しくはないのだけど。

 そして実は遊歩道があったり、森林浴のオススメポイントとして紹介されていたりと意外なイメージがあってびっくりした。

  

 だが、広い。

 だだっ広い。


 樹の海、と言うだけのことはある。

 日本は山が多く、そして広い森林を有している国だ。

 だが森は多くとも、樹海とまで呼ばれる場所はちょっと他に思いつかない。

 もし自分がこの樹海に分け入ったらどうなるだろう……なんて考えてみる。よく創作では青木ヶ原樹海では方位磁針が役に立たず、すぐ自分の位置をロストしてしまうなんて描写があるが実際はどうなんだろう。

 少なくとも私はビビリなので、遊歩道から外れた場所にはいかないだろうな、うん。

 それでも意を決して奥へと分け入ってみると……


「こんな場所に、家屋が……?」

「おや? こんな人里離れた山奥に旅人かい?」

「あっ!? あなたは――青木ヶ原さん!?」

「まさか、中学の時の同級生だった入江くん!?」

「こんなところで再会するなんて……」

「ふふ。懐かしいね。ところで、せっかくだから寄って行かないかい? お茶くらいは出すとも」

「いやでも、遊歩道に戻らなきゃ……」

「大丈夫。ちゃんと送るから迷うことは無いさ」

「えっと、でも――な、なんで扉に鍵を!?」

「ふふっ。これで、二人きりだね……?」

「なんで!? 青木ヶ原――ち、近いよ!?」

「もっと近くなろうよ……♡」

「待っ、キミ、おと――」

「大丈夫、僕に全部任せて……誰にも聞かれることは無いから、大きな声で叫んでいいよ」

「まっ、まっ、あっ、あっ、        アッーー!!(遭難)」




 

 私は一体何を書いているんだ。

 酷い上にキレが悪い。

 駄文にも程がある。

 アッーー!!(遭難) じゃないんだよ。


 

 ただ実際、周囲の景色があまり変わらないせいで遊歩道を離れすぎると方向が分からなくなり本当に遭難することがあるらしい。

 人の手が入っていない森というのは、人のための領域ではないのだ。

 こうして自然の中に通された道路を利用していると勘違いしてしまうことだが、ここは、場所なのだ。

 

 青木ヶ原樹海周辺は、人里とも少し離れた場所になるので自動車も少なく、本当に走りやすい場所だった。

 高い木々に囲まれているので静かで、爽やかな空気感を楽しめた。こればかりは自分の脚力を恨むしかないのだが、私の脚がもっと強ければあと二時間早くここに来れたかもしれない。そして晴れた空と初夏の森を最大限に楽しむサイクリングが出来たかもしれない。今更そんなことを嘆いたってどうしようもないのだけれども。

 

 青木ヶ原大橋を抜けると、精進湖が見えてきた。

 富士五湖の中では最も小さい湖である。

 

 なんでも西湖と精進湖は剗の海せのうみという一つの大きな湖だったらしい。

   

 ところが貞観6年(864年)に起きた貞観大噴火の際にその大半が埋まってしまい、残ったのが現在の西湖と精進湖だそうだ。

 広大な森や集落も焼けて溶岩流の下に埋もれてしまい、湖の水が煮え立ち多くの人も生き物も亡くなってしまった大災害であった記録が残されているという。

 青木ヶ原樹海は貞観大噴火の跡地に生まれた原生林であり、実は森としては割と「若い」部類になるのだとか。

 

 更に言えば、現在よりも5000年ほど前には本栖湖までも剗の海せのうみと繋がっていたことが分かっているという。

 その広大な湖は古剗の海こせのうみとの名称が与えられている。

 そして西湖・精進湖・本栖湖の湖面の高さが連動していることから、おそらく現在でも地下で三つの湖は繋がっているのではないかと推測されているそうだ。

 富士山北西部域の大半を占めていた、広大な、そして今では地の下に沈んでしまった、いにしえの湖。

 一体どんな姿をしていたのだろうか。

 是非とも見てみたいものだ――決して叶うことのない願いではあるが、古代に思いを馳せるのもまた浪漫である。

  

  

 国道沿いにあるレストランの駐車場で一息入れて、補給食を齧る。

 流石に疲労もピークとなっているので、湖を眺めていても感情がイマイチ動いてくれなくなっている。精進湖を周遊する県道はあっちの方でこの国道に復帰するんだから、精進湖はこれでクリアしたことにしようか……なんて誘惑が湧いてくる。

 別に誰に頼まれた訳でもないし、最大の目的はフジイチなんだから富士五湖制覇は関係ねぇし、と言い訳は無限に湧いてくるものだ。

 人間とは誰しも生まれついての言い訳の天才だ。あの手この手で自分自身を堕落させようと誘惑してくる。中学の宿題だろうが、大学のレポートだろうが、大人のダイエットだろうが、フジイチだろうが何も変わらない。

 なんならやる気とかいう奴は、始める前じゃなくて手を付けてからの方が発生しやすいという研究結果もあるらしい。

 だからこういう時は何も考えず、感情はオフにしてソレを始めるのが一番手っ取り早いのである。

 

 私は良い歳をした大人なので、誘惑に抗う方法もちゃんと知っているのだ。


 だけどまぁ。

 知っている事とそれを実行できるかには天地の差があるもので。

 ええ、ダイエットは明日から始めますとも。


 さておき。

 疲れ果ててるので感情はとっくにオフだし、モノ考える力も残ってないのですんなりと精進湖一周スタート。

 もしや何か面倒くさい事に取り掛かりたい時には、まず疲労困憊状態になることが良いのではないだろうか。ならばダイエットに取り掛かる前に、先ずは20kmばかりランニングしてみるのが良いのでは?(本末転倒)(……いや、転倒してねぇなコレ)


 東側のレストラン辺りからはやっぱり富士山は見え辛い位置になるので、反対側の西へと回ってみるとやはりここでも美しい富士山の姿を拝むことができた。辺りにはキャンプ場も多いし、ホテルなんかもある。

 河口湖や山中湖がリゾートというイメージなら、精進湖は保養地、というイメージだ。

 遊び回るなら河口湖が良いだろう。だがただひたすらホテルの部屋でのんびりするならこっちの方が良いと思う。

 雪のちらつく空と湖と富士山を眺めながら、ホテルの窓辺の、なんか椅子が置いてあるあの空間に座ってちびちびと日本酒でも。

 すげぇ癒されそうじゃん。

 

 Q. 誰と?

  

 A. 訊くんじゃねぇよ、独りだよ! 

 

 悲しみの感情もオフになっているので泣かずに済みました。

 そんなことを思いながらさくっと精進湖を周って、国道139号に復帰する。

 

 富士五湖は残すところあと一か所。

 本栖湖のみとなっていた。



 ・



 精進湖から本栖湖までの距離は短い。ほんの数kmしか離れておらず、気が付いたら到着してしまってた。

 一瞬行き過ぎたくらいだ。

 ちょっとだけ引き返して国道300号線に入る。

 若干の下り基調の平坦路を進んでいくと、木々を割って湖岸沿いの道路へと変わっていく。

 

 本栖湖だ。

 

 ようやくたどり着いた、富士五湖最後の湖に小さなガッツポーズ。

 そのまま進んでいくと、湖岸沿いの道と国道が別れる場所にでた。本栖湖のほぼ最西部分である。

 本栖湖周辺の案内板がある場所で、ちょっと高い場所にある為湖面と富士山がくっきり見える。


 財布を開いて千円札を探す――が、残念ながらこの時持ち合わせがなかった。

 千円札に描かれる富士山は本栖湖からの眺めが元になっている。だからここで千円札と一緒に富士山を撮影し、「完全に一致」とやりたかったのに。

 まぁ無いは仕方ない。それに「完全に一致」は以前やったことがあるから良いんだけどさ。


 ちなみにそのそばには、公衆トイレがある。

 前述した「ゆるキャン△」第一話で、物語が始まりとなったあの公衆トイレだ。

 多分、現在日本で一番有名な公衆トイレではなかろうか。


 そこのベンチに腰を下ろして最後の休憩をとる。

 ドリンクをボトルに移し替えて、富士山と空を眺める。


 実はここで、赤富士に出会えることを期待していた。

 時刻は17:30で、そろそろ夕暮れの時刻である。だからこそ反時計回りを選んだ、というのもあった。

 だが残念なことに空は白い雲に覆われていた。日は沈み切ってはいないものの流石に燃えるような夕日は見えない曇り空である。

 本栖湖越しに富士山の姿は見えたが、その下半分は重たい雲に覆われていた。

 ここで赤い夕陽に照らされる富士山が観れたらば完璧だったのだが、何事も全てが上手く行くはずもない、ということだ。

 

 ベンチに座りながら、「だが、それでいい」とも考える。

 バイクで各地を走り回る経験から、旅において大きな後悔を残さない方がいい、というのは身に染みて分かっている。旅そのものが失敗したような思いを残してしまうからだ。

 

 だが、小さな後悔があるのだったら、むしろそれでいいと思っている。

 

 どんなに事前に下調べをしようと、現地に行ってみないと分からないことはたくさんある。美味しそうなパン屋さんだったり、良さげな温泉だったりを食事した後に限って、時間が残されていないときに限って見つけてしまうものだ。

 そもそもひとつの地域を完全に楽しみつくすとなれば、ほんの数時間の滞在では不可能だ。ましてやでもあるバイクツーリングであればなおさらのこと。通り過ぎてあっちこっちに引き返す訳にはいかないのである。

 小さな後悔ややり残しがあるなら、それは大事に取っておく。

 そうすれば、もう一度そこに行く理由になる。

 

 ロードバイクかオートバイかはわからないが。

 、私は富士山に戻ってくるのだ。次は赤富士を眺めながら走るために。


 

 ・



 本栖湖の周遊を再開する。

 湖と道路の間に木々が立ち並んでいるから、全てが開けたレイクビューと言うわけにはいかなかった。

 しかしここでもウインドサーフィンを楽しむ人々の姿が見えた。

 多分河口湖や山中湖で楽しんでいた人々は、レンタルだろう。そういうお店を見かけた。

 だが西湖や本栖湖でウインドサーフィンを行っている人たちは恐らく自前のモノを運んできているのだろう。それらしい自動車も見かけるあたり、富士五湖というのは楽しみ方が色々あるものだ、と感心する。

 五月の半ばは流石に難しいかもしれないが、夏には湖水浴もできるのだろうか。滋賀の琵琶湖では湖水浴場もあったのだけど、水質次第かな……そんなことを考えながら、ふと空を見上げる。


「……げ」


 背の高い広葉樹の先端に、渦巻くような重たい霧を見た。

 いや、あれは霧じゃない。

 雲だ。


 脳裏に天気予報がちらりと思い浮かぶ。

 あれは雲、それも明日の雨雲だ。


 標高が高い場所だと、霧かと思ったら外から見たら雲の中、と言うことが往々にしてある。

 そして現在私は本栖湖にいる。本栖湖の湖面標高は900m。つまり海沿いの土地から見れば地上900mの上空に等しい高さである。

 

 西湖辺りまでは青空だったのだが、精進湖では空は雲に覆われていた。

 そして本栖湖では、そろりそろりと雨雲が忍び寄ってきている。

 予報では、雨は降らないハズだ。

 だが山の天気は変わりやすい、ともいう。そしてここは富士山麓。日本一高いお山の麓なのである。


 そろそろ時刻は18:00を周ろうとしている。

 そしてそれは、日が沈む時刻でもある。


「ヤバイ、なんてもんじゃねえぞ……!」


 この先は朝霧高原。

 そしてその先には白糸の滝。

 前日に10kmを超える坂を駆け下ったあの場所に続いている。

 

 夜。

 雨。

 ダウンヒル。


 スッ転ぶ未来しか見えない。

 焦る心を落ち着かせながらも、私はペダルを踏む脚に力を込める。

 ここからだと最早富士吉田市に戻るよりも、ゴールの富士宮市を目指す方が早いくらいだ。

 前に進む以外の道は、既に無い。

 

 



 

 



 

 

 

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