2-3. 12:00 ポイント・オブ・ノーリターン@篭坂峠


 ・



 10:00になった。

 道中のコンビニで二度目の休憩をとる。場所は裾野市、その御殿場市との境目だ。

 近くには須山浅間神社の案内板が出ている。

 浅間神社とはそもそも、富士山を浅間神と見立て、さらに桜の化身としても有名な木花之佐久夜毘売命このはなさくやのびめのみことを祀る神社の事。浅間とは「せんげん」とも「あさま」とも読み、古くは火山の事を指す言葉だったらしい。だから長野にも浅間山という活火山がある。

 有史以来度々噴火している富士山は、その威容はもちろん活火山として畏れられてもいるのである。

 なので富士宮市の富士山本宮浅間大社を始め、富士山周辺には浅間神社という名の神社が幾つもある。

 可能であれば須山浅間神社も参拝したいところだったが、出発時間が遅かったかもしれないということと体力的な問題で寄ることはしなかった。前半戦もまだまだ続くというのに、既に脚を使い過ぎている。

 

 トイレとドリンクの補給を済ませ、パンを齧る。コンビニで売っている、一袋に四つ入っているミニクリームパン。ざっと160Kcal。

 ロードバイクでロングライドするということは、大量のカロリーを消費する行為である。

 そろそろ中年太りが気になるお年頃の私だが、ロングライドの際には意識して糖分を多めに摂るようにしている。

 糖分は太る原因でもあるが、同時に脳と筋肉が稼働するためのガソリンでもある。

 コレが切れるとシンプルに身体が動かなくなる。いわゆるハンガーノックという奴だ。朝ご飯を多めに摂ってカーボローディングとほざいていたのも、炭水化物=糖分の摂取が目的だ。


 長く休んでいても始まらない。再び国道469号を走りだす。

 するとそこは、左右をだだっ広い草原に挟まれた区間だ。新緑の草と富士山が目に美しく映える。

 なるほど、富士山周辺には広大な土地が広がっている。しかし標高や斜度の問題から住宅地とするには難しい場所も多いのだろう、となればここは牧草地。牛とか馬とか放し飼いにされて、牧畜が盛んな地域なのだろう。しかしそれにしても牛が見当たらないな……なんて思っていたが、全くの見当違いだった。


 改めて地図を見返すと、その辺りは、自衛隊の演習場なのである。

 どおりで妙に自衛隊車輛が多く見かけるな……と思った。

 ここはその名も「東富士演習場」。いるのは牛柄の牛さんではなくて、迷彩柄の陸上自衛隊員である。

 観光牧場かな? などとうっかり入り込んでしまうと、実銃で武装した小隊やら装甲車やらに追いかけられて割とガチめに怒られる土地である。洒落にならん。

 あの有名な総合火力演習が行われる場所でもある。隊列組んだ戦車が走って大砲ぶっぱなす場面は大迫力とのことで、一度は是非とも見てみたいと思っている。なお、総火演の見学者応募倍率はざっと25倍。中々の狭き門だ。

 

 地図を見ていて気が付いたが、東富士演習場は静岡側富士山麓のかなり広い場所を占めている。先ほど通り過ぎた富士サファリパークとも隣接するので、私は長年抱えていた疑問に答えを得た気がした。

 そう、幼い頃から私はずっと疑問に思っていたのだ――


 Q.さふぁりぱーくのらいおんさんとか、にげだしたらどうするんだろう?


 A.そこに自衛隊の戦車があるじゃろ?


 きっと、そういうことなのだ(多分違う)。



 

 ・

 

 脚。

 自転車競技の世界で、力を使い果たしてもう加速できないような状態の事を「脚が残っていない」なんて言うことがある。

 遅いヤツの事を指して「貧脚」と呼んだり、説明の必要などなくロードバイクで脚と言ったら、あんた。そりゃもう重要でしょうよ。


 そんな大事な大事な私の脚ですが、御殿場市内の坂道でついに限界を迎えてしましましまうま。

 

 え。

 どうすんの? って思うでしょ。

 私も思いました。

 え。

 どうすんの? って。


 状況を整理しよう。

 自衛隊の演習場から更にアップダウンの国道を進んで、御殿場市の市街地に入った。中心部であればまた違ったのかも知れないが、ルートの辺りは結構な急坂が連続する地帯だ。

 スタートからおよそ4時間が経過し、脚に疲労がたまり、しかも最高気温に到達する時刻である。

 その状況で私はおそらく、道を間違えた。


 多分先ほどの信号で直進したのが間違っていたのだ。

 その時は富士山と小さな苗がなびく水田に映る逆さ富士に気を取られて気が付かなかった。若干の下り坂だったので脚を休めることができる状況に、それ以上考えなかったというのもある。

 気が付けば私は細い市道、登り坂に入り込んでいた。

 左右にゴルフ場が広がる場所だ。地図アプリを見ながら、一端戻るかどうか考える。

 戻ればおそらく2km弱のロスになる。

 予定のルートには、このまま真っ直ぐ進めば接続できる。

 しかし幾らか下った分、この道は本来のルートに比べ勾配が急だ。


 迷ったものの、私はそのまま進むことを選択した。

 戻って正規ルートに入ったところで、再び登らなければならないのは変わらない。

 時間のロス、距離のロスを考えればそちらの方が無駄が多いという判断だ。

 この判断が吉と出るか凶と出るか。

 

 ともあれ前に進まなければならない。

 ゴルフ場のフェンスに挟まれた細い道を、えっちらおっちら登っていく。有名なゴルフ場なのだろうか? 平日だというのに、何組かがゴルフを楽しんでいた。優雅な事で羨ましい。

 隣接するリゾートホテルの駐車場で送迎バスを洗車しているおっちゃんがいた。

 ホースからダバダバと流れる水を見て、冗談抜きで「その水を俺にぶっかけてくれ! 金なら払う!!」と叫びそうになった。

 10秒でいい、1000円払うから!

 びっくりするほど高額なシャワーだが、あの時の状況だと恐ろしく気持ち良かったに違いない。それを言わなかった事を今でもちょっと後悔しているくらいだ。

 そうして長い市道の坂道を登り終えて、本来のルートに合流したあたりで私の脚はお亡くなりになってしまった。

 いや、ギリギリだがまだ死んではいない。格闘ゲームでいうならば画面上部のライフバー、それがミリ残っているような状態だ。

 


 人間の身体は複雑で多くのパーツから構成されている。一言で脚といっても、沢山の筋肉があって、それらを無意識に使いながら人は歩き、走り、ロードバイクを漕いでいる。

 長時間同じ体勢でロードバイクを漕いでいると同じ筋肉を酷使することになるので時々座る位置を変えたりハンドルの握る場所を変えたりすることがある。またわざと重たいギアに変えて立漕ぎダンシングすることもある――ペダルが重たいとその上に立つことができてしかも全体重を使えるので、多少だが脚の筋肉を休めることができるのだ。

 そんな風にギリギリまで脚の筋肉を酷使していると、僅かな姿勢の違いでその時力が込められる筋肉が違うことに気が付く。

 この時私は、右の太腿内側の筋肉が限界だった。まぁ日常生活で意識して使用する場所ではないだろう。もうほんの二、三度ペダルを踏んでいれば攣っていたに違いない。

 歩道に入ってロードバイクをガードレールにたてかけ、脚をストレッチする。

 木陰で前屈したり伸脚したり、補給食を食べたり脚の回復に努めて、直ぐには漕ぎ出せそうになかったので仕方なく歩きで再スタート。

 富士山を見上げる。

 富士山の中腹南東部には大きな抉れた跡がある。言わずと知れた歴史的大噴火の跡。宝永山だ。

 その宝永山を真西に見える位置に来た辺りで薄々予感していたことがある。

 いや、地図を見てルート設定の段階から気が付いていた。だができるだけ考えないようにしていた。


 富士山の真東に一直線に伸びるように繋がる山が見える。

 三国山。現在地からも見上げるような高さのある山だ。

 

 その富士山と三国山の境目の、僅かに低くなった場所を縫うように走る国道138号線――篭坂峠。

 このフジイチで、最難関となる峠道である。


 これから私は、この篭坂峠を越えなければならない。

 限界間近の、この脚で。

 

 

 

 終わりかけた脚をだましだましにペダルを踏み、何とか坂道を登り切る。

 突き当りにあったのは自衛隊の富士駐屯地だ。入口の門から真っ直ぐに富士山の姿が見える。

 そこから少し坂を下るとコンビニがあって、そのガラス面にとんでもないことが書いてあった。

「この先〇Kmコンビニありません」

 細かい数字は忘れたが、どちらにしろ篭坂峠の向こうだろう。

 補給と回復のため、このコンビニでは少し長く休憩することにした。こういうロングライドでは身体が冷えたり筋肉が固まるので、長くとも10分以内の出発が望ましいと聞くが、この時の私にはそんな余裕は無かった。

 限界ギリギリで酷使して破綻寸前の脚をマッサージして労わりたかったし、何より決断を下さなければならなかったからだ。


 進むか、戻るかの決断を。


 前述した通りに山梨県富士吉田市は、静岡側からのアクセスが非常に悪い。

 御殿場市から直接乗り入れる電車は無く、いっそ東京八王子まで経由する必要がある。

 つまり、この峠を越えてしまったら戻ることはできない。むしろ宿泊してでも前に進む方が良い、まである。


 一方でもし戻るとするならば、来た道を引き返すことになる。

 概ね登りが多かった国道469号だったが、富士サファリパークを過ぎたあたりから下りがメインになっていた。つまり結構な距離を下って来たわけで、それがそっくりそのまま登りになる。今の私の脚で超える自信は、正直無い。

 いっそのこと三島や沼津まで下り、国道一号線沿いに富士市街まで戻るのもアリ、だろうか。

 それならば御殿場駅で電車という手も……。


 ちなみに私はこの時、

 畳んで丸めればボトルケージに入れることのできる輪行袋を、予備ドリンクをもっていくかどうかで悩み、置いて来た訳だ。

 夏日のこの日、場所によっては気温は30℃にまで届いていたハズだ。ここまでの道中でもコンビニも自販機も無い山間を走ってもきた。だから熱中症対策として予備ドリンクを持つことは重要だった。

 しかし、これは終わって二週間経つ今でははっきりと下策だったと思っている。


 

 

 富士山周辺がサイクリングコースが充実しているということは知っていたので、自転車系のショップも多いだろうと予測はしていた。

 つまりイザとなれば輪行袋は購入してしまえばいい。その為ホテルに置いて来たのだ。

 それはそれで間違ってはいないが、しかし、輪行袋の再購入までの間、私はリタイヤできないということでもある。

 どんなに準備しても、トラブルは起こりえる。

 その時に即座に撤退できる手段があるその準備ができている、というのは心理的なプレッシャーを凄く軽減してくれる。

 退くことも勇気だ。

 遠足は帰るまでが遠足というが、それはあらゆるアウトドアイベントにも言えること。

 同行者もいない、サポートカーもないたった独りのロングライド。安全と撤退方法の確保こそ最優先であるべきだったのだ。


 しかし今、それを嘆いても仕方ない。

 この峠を越えるかどうかを決断しなければならない。


 このコンビニで補給は出来た。

 後は脚が持つかどうかだ。


 経験上、脚が攣るのとギリギリで攣らないのでははっきりとその後の回復が違ってくる。

 同じストレッチをしても補給をしても、攣ってしまったのではその後ずっと脚を庇って走らなければならなくなる。

 それは体の別の場所に負担を余計に掛けるということになる。余計な負担は更なる疲労に繋がり、そっちの方が破綻するかもしれない。

 ギリギリで攣らなければ、労わる必要はあるが庇う必要までは無い。それは大きな違いだった。


 さあ、どうするか。

 行くか、戻るか。

 行くならばどんな手段であっても、最早フジイチ達成するしかなくなる。

 戻るならば大回りで富士宮に戻らなければならない。


 ここがこのフジイチにおける回帰不能点ポイント・オブ・ノーリターン

 ここから先は引き返せない。

 時刻は12:00。

 想定よりも既に1時間の遅れが発生していた。


 

 

 

 

 

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