2-2. 9:45 富士サファリパークの実在証明



 ・



 村山浅間神社で休憩を入れたあと、一抹というには巨大すぎる不安を抱えながらも再び愛機・エモンダに跨る。

 そう言えば先ほど話しかけられたおじいさんに「富士宮から来ました」と答えたが、住所で言うならばこの村山地区もまだ富士宮市内なのだ。道理でおじいさん、ちょっと不思議そうな顔をされたと思ったよ!


 ともあれ再スタートである。

 時刻は午前8時を回り、気温も上昇している。二つのボトルケージには600ccのボトルとポカリの900ccペットボトルが差し込んである。合計1.5リットルのこのドリンクが実に重たい。言うまでもなくシンプルに荷物は軽い程良いに決まっている。走るのがこの長すぎる坂道ともなればなおさらだ。

 しかし、いかんせんこの真夏日。予報では気温は29℃にまで届くはずだ。水分をケチれば即熱中症、塩分をケチれば即足がる。重たい事を承知で抱えていく他に無かった。

 

 ちなみに脚が攣る要因はいくつもあるが、実体験として、

 ・低気温

 ・ミネラルと塩分の不足

 ・睡眠不足

 が関係していると思っている。運動生理学的な根拠としては弱いが、ドリンクや塩飴をケチった結果足が攣ったことが何度もある。

 ……琵琶湖の最北部、奥琵琶湖と呼ばれる別荘地で脚が攣った時は最悪だった。

 目の前に琵琶湖の水面。背後に山。周囲に民家もコンビニもなく、鉄道やバスの路線まで引き返すことも出来ず、脚が回復するまでひたすらストレッチとマッサージを繰り返したのを今でもありありと思い出すことができる。

 あんな悪夢は繰り返したくない。

 しかし現時点で、要因の一つである睡眠不足をツモってしまった状態だ。この上ドリンクをケチって脚がイキましたでは笑い話にもならない。

 いや、本当に笑えないからね?(真顔)


 日差しの照り付ける国道469号をひたすら走る。

 左手側の視界が開けると、そこには白い雪を頂く日本一の富士山が鎮座しているという贅沢な光景。正直、何度かペダルを踏む足を止めて写真を撮った。

 美しい、素晴らし過ぎる光景。

 日本に人類が住み付いて以来、ずっと崇められ続けたその存在。

 こんな美しいモノの傍を走ることができるなんて、なんて私は幸運な存在なのだ……!


 と、自分にそう言い聞かせ続けなければやってられない。

 いや待てよく考えて欲しい。

 

 フジイチを実行するには、まず富士山が必要だ。

 つまり富士山なんてものが存在するから、私は今、こんな自転車で坂道を延々登り続けなきゃならなくなっている、ともいえる。


「要は富士山が元凶か!? おいこら畜生!!」


 つい先ほどまでの富士山崇敬の念も棚に上げてそんなことを叫んでみる。

 まぁ叫ぶというか、そんな事する肺の容量的余裕も無くて実際は「よ……ふじ、げ、きょ……ご、ウゴフッ」みたいな呻き声が出ただけだが。

 そもそも誰に頼まれた訳でもない、ただ自分がやってみたいというだけで実行しているフジイチである。公式イベントでもなく、独りで勝手にやって来て独りで勝手に始めたことだ。

 富士山に八つ当たりした所で富士山だって困ることだろう。っていうかちっぽけな汚ッサンの呟きなんて歯牙にもかけないに違いない。


 そんな世迷い事を考えながらも、ただひたすらペダルを踏んでいく。

 ちゃんとログアプリを見ては無いが、恐らく速度は10km/hを下回っている。というか、速度を見れば余りの遅さに愕然とすることは間違いないので、ヒルクライムの最中は速度の確認はしない方が良い。心が折れるか、焦って強く踏んで無駄に体力と脚力を消耗するか。

 ペダルを踏めばタイヤが回転する。そうすればどんなに遅くとも前には進む。

 進んでいるはずだ。進んでて、お願いだから。


 思い返せば、とにかくこの国道469号のこの区間はアップオンリーの厳しい区間だった。

 もちろん自分の貧脚もある。トレーニング不足もある。しかしそんなことを言い出したところで、全てはアフターフェスティバル。結局のところ、そこに持ち込んだものだけで戦わなきゃならないのだ――この坂現実と。

 長い長い坂を登っていくと、ほんの僅かにご褒美のような下り坂があった。

 ようやく一息つくことができる……と脚が緩み、かわりにびっくりするほど簡単にペダルが回って速度が上がった。登りに登った苦労が報われる時間。


 だがその天国のような下りも長くは続かない。

 楽しい下りは一瞬で過ぎ去って、直ぐに壁のような登りにぶち当たる。

 下りでついた勢いはあっという間になくなってまた歯を食いしばる登りが始まる。


「兄ちゃん、何で下りの勢いすぐ死んでしまうん?」


 私が知りたい。

 蛍よりも儚い下りの勢いに別れを告げて、迎えるのは遅々として進まない登り地獄。

 じりじりと初夏にしては強すぎる日差しに焼かれながら、ただひたすら歯を食いしばってペダルを踏んでいく。




 ・



 富士山の北半分は山梨県であり、南半分は静岡県だ。

 有名な話だが、富士山頂はどちらの県でもない、ということになっているらしい。日本一の富士山の山頂の所属が、どちらの県であると決定してしてしまうと色々と面倒事がおきるのだろう。色々と。

 富士山頂所属問題はさて置くとして、改めて地図を見ると富士山南側は、静岡県の四つの市の領域ということになっている。

 西から順に富士宮市、富士市、裾野市、御殿場市だ。

 今回このエッセイ?を執筆するにあたって地図を見返してみると、富士宮市は富士山の西側を、そして富士市は海から富士山頂付近まで、富士山南部の広い範囲をその市域としているらしい。富士宮市と富士市の市境が、村山浅間神社からちょっと東側にある。

 勝手に富士市を海沿いの街だとばかり思っていたので、これは意外だった。

 まぁ。富士宮市から富士市に突入した所で、同じ国道469号を走っていることにはちがいない。

 長いアップをあっぷあっぷ言いながら登り、僅かなダウンで膝を労うのもつかの間、長い長いアップップの繰り返し。

 富士市の市街地は随分とお店も多く、無数の自動車が行き交って実に盛況なイメージだったが、流石に富士山麓ともなれば田畑と山林ばかりだ。

 特に富士山南西に位置する愛鷹山に挟まれたこの場所では郊外というにも少し憚られるくらい多くの自然に囲まれた場所だ。


 突然開けた場所に出た、と思うと石積の門と、看板があった。


 「富士山こどもの国」


 カヤックや釣り、キャンプのような自然体験型のテーマパークだそうだ。

 山林が開けた場所だったので、真っ青な空に白い富士山が映える。

 富士山があるからフジイチするのか、富士山があるせいでフジイチするのか、疲労困憊愛憎乱れてもう自分でも良くわからない感情だが、取り合えず富士山は美しい。美しいから惹かれる、惹かれるからフジイチをする。

 結局富士山アイツがあるせいじゃねぇか。


 そんなことを思って写真を一枚撮っていると、そこにいた人物と目が合った。

 軽く会釈する。

 彼は、白いロードバイクに跨った初老の男性だった。いや、白髪がちのその髪を見れば、六十後半か、もしかしたら七十過ぎているかもしれない。

 写真を撮ったタイミングと位置関係で、彼が少し先を走る。

 年齢差もあって私の方が少し速度が速いようだ。

 彼がこの暑い中ラッシュガードをして、リュックを背負っているのが気になって、横に並んだタイミングで話しかけてみる。


「どうも。どちらまで?」

「富士山一周の最中なんです」


 おお! 同業者!


 しばらく話をしてみると、どうやら彼は富士岡スタートのフジイチ挑戦者らしい。

 ……御殿場に、そんな名前の駅があったような?


 速度が合わないので、結局会話もそこそこに離れてしまった。

 その後彼とは二度、休憩のタイミングのズレで互いに追い越しあうことになる。


 しかし御殿場発で、この時刻にここにいるということは。

 昨晩の深夜出発で夜に富士山を一周してきた?

 いや、恐らく前日に出発して、本栖湖あたりで一泊したのだろう。そして気温が最高になるタイミングまでにゴールする計画なのでは?


 ここに来て初めて、私は自分の失策に気が付いた。

 出発時刻を1時間……いや、2時間早くするべきだったのでは?


 たまに思うことではあったが、西日本も西果てである長崎出身の私は、東京や名古屋の人に比べて「朝」という言葉が指すタイミングが少し遅いような気がする。

 冬の朝に、生放送の情報番組なんかを見ると東京では日が昇り明るくなっているのに、長崎ではようやく空が白み始める、ということがある。

 逆に夏の長崎では20:00を過ぎても夕焼け空なんてこともある。

 時計の数字を揃えているだけで実際にはそれ位の時差が存在する。日本の国土は皆が思っているより南北にも、そして東西にも広いのだ。


 つまり私が早朝と思っていた7:00スタートは、思うほど早朝ではないのかも知れない。

 いや早朝は早朝でも、東の人々の感覚ではもう一段「早い朝」があるというべきだろうか。


 まずいかもしれない。


 、ということは。

 、ということだ。


 坂を登っているからではない、冷たい汗が一筋背中に流れる――しかし、今更どうすることもできない。

 時間は巻き戻すことはできないのだ。

 できることはただ一つ。

 ひたすらペダルを踏んで、坂を登っていくだけである。



 ・



 しばらくひた走っていると、なんとなく下りの数や長さが増えてきた気がする。

 愛鷹山の北西部には十里木じゅうりぎ高原という場所があり、別荘地だったり富士山展望の登山道があるらしい。道理でそれらしい登山客が散見されると思った。愛鷹山の中腹にある展望台からの富士山は、さぞ見応えがあることだろう。

 そんなことを思いながら下り坂を走っていくと、唐突にその案内板が見えた。


「富士サファリパーク」


 ……ッ!?


 思わず二度見する。

 この坂を下らずに左の分岐に進めば、かの有名な「富士サファリパーク」に行くことができるのか!?

 あの富士サファリパーク――幼い頃から名前だけは知っているあのサファリパーク。ただっ広いサバンナで、ライオンやトラやサイやキリンやバッファローと戯れることのできる、あのサファリパー……、いや戯れはできないんだけど。

 そりゃ名前に富士と冠するからには富士山周辺にあるのは当然だ。だが、実際に存在するとは思ってもみなかった。いやそれは流石に誇大表現だが、このフジイチで行き当たることになるとは思ってもみなかったのだ。 


 これは東京出身者には絶対にわからない感覚だと思う。

 有名なテレビ情報番組や雑誌は、東京中心で情報を発信している。そのため、地方に住んでいる人間は「東京やその近郊にある地名、テーマパークを知ってはいるけど、実際にどこにあるのか知らない」という状態になっている。

 嘘だ、と思うなら東京の人は、地方出身者にこう尋ねてみればいい。


「渋谷駅の一つ隣が原宿で、原宿駅の目の前に代々木公園がある。知ってた?」

 

 九割の人が、東京に来るまで知らなかったと答えるだろう。

 渋谷も原宿も代々木公園も名前は有名なのに、位置関係は知られていない。それが実情で、それと同じことが有名テーマパークにも当てはまるのだ。

 某東京Dランドは東京ではなく千葉にあるのは有名だけど、千葉のどこにあるのかは知られていな……おや、こんな時間に誰か来たようだ。


「そっか……富士サファリパークは、富士山に実在したんだ……」


 そこだけ切り取れば意味不明な呟きである。いやホントにね、これで結構感動したんですよ。俺は今、かの有名な富士サファリパークのそばにいるんだ……ッ! て。まぁ、だからどうしたって話なんだけど。

 だが残念ながら、多分私がこのままロードバイクで突進していっても入場はさせてもらえないに違いない。

 飼育されているとはいえ、放し飼い状態の野生動物の中を自転車でうろつき回って無事でいれる自信はないね。


 馬鹿な事を考えながらも、汚っさんを乗せたロードバイクは長い坂を風のように駆け下っていく。

 そう。

 御殿場市に続く国道469号は、長すぎる登りを終えて、ようやく下りのエリアへと突入したのだった。



 

 

 

 

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