第7話 第7章

 老人の話を聞きながら、ビールを呑んでいると、

――初めてきたような気がしない――

 と、ついさっき感じたことを思い出した。

――まるで気持ちを見透かされているようだ――

 信義の疑問を分かっていて、それを解消させる一番の答えを老人が用意してくれたかのように思えた。

 話の内容があまりにも突飛すぎて、本質的に理解できないが、理屈は合っている。そう思うと、

――老人が納得のいく答えを用意してくれたんだ――

 と感じるのも無理のないことだと思えた。

 信義は、老人の話を半信半疑で聞いていたが、そのうちに老人の話に信憑性が感じられてきたことに気付いた。

――この老人とも、初めて会ったような気がしない――

 同じように、説得されて、納得の行く答えを以前聞かされた相手がいたのを思い出し、それが目の前にいる老人だったのではないかと思ったのだ。

 その時の人がどんな雰囲気だったのか、まったく忘れてしまっていた。納得させられたことで崇拝に値する相手だということを感じたが、その人とどこで、どのように出会ったのかすら記憶になかった。まるで意図的に、相手に記憶から消されたように忽然と消えてしまっていたのである。

 信義にとって、納得させられたことが何だったのかは覚えていないが、確実に自分が一歩前に進んだという意識だけはあった。納得という事実だけしかないことで、憤りのようなものを感じていたが、

――必要以上に意識しなくてもいいのだ――

 と諭されているようで、ああmり意識しないようにしていた。

 実際に、そんなことがあったなどということを、ほとんど忘れていたくらいだったが、それをこの店で、初めて会った老人から思い出さされるとは思わなかった。

――きっとあの時の人と、この老人とでは別人に違いない――

 信義は漠然と感じた。

 その思いが間違いではなかったと感じたのは、次回この店を訪れた時だった。

 その時、老人のことをしっかりと覚えていたし、老人も信義を覚えている。信義は老人と一緒にいることが、この店での自分の立ち位置のように思えたくらいだった。

 女の子二人組は信義を意識しながら、自分たちの話に入り込んでいた。疑問に感じたのは、

――なぜ、老人を意識しないのだろう?

 ということだった。

 その思いを察したのか、老人は言う。

「彼女たちは、わしを意識していないんじゃなくって、わしの存在自体を意識していないんだよ」

「どういうことですか?」

「二人のうちの一人は、元々このお店に一人で入ってきた人で、わしと話をしたことがある人なんだよ。彼女は、いつも一人でいることが自分で好きだと言っていた。人とコミュニケーションを取ることができないってね。でも、わしには分かっていた。彼女はコミュニケーションができないからいつも一人でいたわけではなくて、彼女自身の自分の世界をずっと持ち続けられる人だから、自分でそれが一番だと思っているとね」

「それはどういうことですか?」

「彼女には趣味があって、それが一人の自分の時間を形成していた。一人でする趣味は、えてして他の人の介入を許さないところがあるだろう? 彼女もその一人だったんだけど、寂しさが彼女の中にあって、本来は自分一人の時間を楽しんでいるのが一番自分らしいと思っていたはずなのに、迷いが生じた。だから、この店に入ってきたんだろうね」

 その気持ちは信義にも分かった気がした。

 信義には、一人になれる趣味はないが、一人でコツコツするような仕事を任されていることに満足していた。だから、人から何かを言われたり干渉されると、必要以上に神経が過敏になっていた。

 老人の話は、いちいち信義の考えていることを代弁してくれているように思えて、ますます老人を凝視している自分に気付かないまま、話にのめりこんでいた。

「その彼女も、今は自分の趣味を共有できる相手に巡り合ったようなんだ。だから、本来なら自分の隠れ家にしていたこのお店に相手を連れてくるようになる。それはそれでいいことなのだとわしは思うのだが、その代わり、隠れ家としての店ではなくなってしまったのかも知れないね」

「じゃあ、僕も誰か他の人を連れてくると、あなたが見えなくなってしまうということになるのかな?」

「そうとは限らんよ。もし相手の人間が、今のあなたと同じような気持ちを持っている人であれば、二人でわしを意識するだろう。あくまで彼女は、隠れ家だという意識を今は忘れていることで、わしが見えないだけなんだ。ずっとわしを見えないままだとは思っていないよ」

「彼女にもそれは分かっているんでしょうか?」

「分かっているかも知れないね。わしも、さすがにそこまで相手の気持ちが分かるわけではない。あくまでも、ここを隠れ家として利用しているかしていないかという考えがその人から見られるかを感じているだけだからね」

 と言っていた。

 その日は、老人とそんな話をしているうちに、気が付けば最終電車の時間に近づいていた。その日は、さすがに家に帰るつもりだったので、店を後にして家に帰ったのだが、老人の話の印象が深かったことで、どうやって家まで辿り着いたのか意識がないほど考え事をしていたようだ、

 信義は、帰宅途中気になっていたのは、店を出てから感じたこととして、

――店にいる時はあっという間に時間が過ぎたような気がしたのに、店を出た途端、我に返ったように、時間が長かったように思う。それも扉を出た瞬間に、まるで辻褄を合わせるように頭の中が急速に動いた気がする――

 と思えてならなかった。

 同じ時間を、その時に感じたのと、後から考えたのでは感じ方が違うというのは、今までにも何度もあった。しかし、それを辻褄を合わせるような感覚になるということはなかったことだっただけに、どう解釈していいのかが分からなかった。

――老人の魔力のようなものなのか?

 老人の話を聞いている時は、理解できたつもりだったのに、目の前にいないと、

――どうしてあの時に理解できたんだ?

 と感じるほど、不可解な話であった。

 突飛過ぎる話だからだというだけではない。信義が今まで考えていたことで、どうしても理解できないことを、その老人が理解させてくれたように話を聞いている時に感じたのだ。

 それが一人になると、せっかく聞いた話を、また自分自身で理解はできるが、今度は納得できないと思えてきた。

――話を聞いている時は納得できたはずなのに――

 と思っているのだ。

 会社に行っても、集中できない時間帯があった。仕事をしていれば。一日中集中が途切れないことがしょっちゅうだっただけに自分でも信じられないことだった。

――やはり、もう一度老人に会わないと納得できない――

 と感じていた。

 確かあの時にテーブルに座っていた女の子が、

――隠れ家ではなくなったので、わしが見えなくなった――

 と老人が話していたが、それは隠れ家でなくなったことは、納得できないことを抱えたまま店に行っても、同じように、老人の存在に気付くことができるかということに不安を抱くことになっていた。

 信義は、ほとんどその日仕事が手につかなかったが、まわりの人も気になっているようで、

「石田さん、大丈夫? 顔色悪いようですよ」

 と、事務員の女の子に言われて、驚いて洗面所に駆け込んだが、

「なるほど、顔色悪いな」

 と、自分ではそこまで感じていなかったことを意識させられたのだ。

 洗面所で顔を洗って、事務所に戻ってくると、

「今日は、少し調子が悪いので、このまま帰ります」

 と言って、事務所を後にした。

 元々定時は過ぎていたので、断る必要もないのだが、上司としてのケジメと思って声を掛けた。

「お疲れ様でした」

 と、一斉に声を掛けてくれる。

 このまま帰宅するわけではないので、後ろめたさがあったが、会社を出ると、そんな気持ちは少しずつ失せてきた。

――こんなに早く会社を出るなんて、いつ以来だっただろう?

 六時頃というと、まだ表は日が暮れていない。ビルの窓ガラスに当たる西日が眩しく、身体に気だるさを感じたが、同時に背筋に汗を掻いているのも感じた。

――気だるさは、子供の頃の記憶のようだな――

 子供の頃の記憶として、西日を全身に浴びる時というのは、公園で遊んでいた時に感じた空腹感を思い出させる。

 まわりから匂ってくるおいしそうな匂い、それは今から思えばハンバーグの焼ける匂いであった。

 子供の頃の一番のごちそうというと、ハンバーグだったのを思い出した。日が暮れるまで遊んでいた公園の近くにある団地からは、絶えずハンバーグの匂いがしていた。きっと自分以外にもハンバーグが大好きな子供がいて、毎日、どこからかハンバーグの焼ける匂いがしても無理のないことだった。

――ハンバーグが好きなのは、匂いに感じていた気持ちが強かったんだろうな――

 とも感じていたくらいだった。

――ハンバーグが食べたいな――

 ファミレスに入ると、二回に一回はハンバーグを食べるようになったのは、その頃からだったように思う。それまではハンバーグよりステーキの方が好きだった。

――年を取ると子供の頃を思い出すというが、ハンバーグが気になり始めたのも、そのせいかも知れないな――

 子供の頃に好きだったハンバーグとファミレスのハンバーグでは、かなりおもむきが違うが、それでもどうしても気になってしまう。

 元々好きなものは何回続けてもなかなか飽きが来ないタイプだったので、ハンバーグを注文することも気にならなかった。

 まだ、バーが開店するまでには少し時間があるだろう。開店していても、老人が来ているかどうかも分からない。まずは、腹ごしらえをしておくことにした。

 ファミレスはさすがに混んでいた。それでもちょうど席は空いていた。学生の団体が帰ったようだった。席に着くと、空腹感がさっきより増してきたのを感じ、ハンバーグ定食を迷わず注文した。ドリンクバーを付けるのも忘れずにである。

 コーヒーを入れにいくと、身体の疲れが少し取れてきたような気がした。コーヒーの香りが効いたのかも知れない。普段から嫌いではないコーヒーの香りだが、ほんのりと汗を掻いてきたことで疲れが取れた気がしてきたことに気が付いた。

 遠くの方で人の声が聞こえてくる。店内はざわついているので、もっと近くで聞こえてきそうなものだが、耳鳴りがしているようで、疲れは取れているものの、根本的な解消にはなっていないように思えた。

――まるで潮騒のようだ――

 貝殻を耳に当ててみた時に感じたことだった。

 元々潮風が苦手な信義は、子供の頃に行った海岸での出来事を思い出すことはほとんどなかった。

 海水浴に出かけた次の日は必ず熱を出していた小学生の頃、湿気た空気が嫌いになったことで、身体にほんのりと汗を掻く時は、体調が悪くなる前兆だと思っていた。だが、それも学生時代だけのことで、社会人になってから、そんなことを感じたのも、久しくなかったことだった。

 ただ、潮騒自体は嫌いではなかった。潮風さえなければ潮騒は好きで、映画やテレビで見る分には、心地よささえ感じるほどだ。実際の感覚と、目や耳だけで感じるものに開きがあることを感じたのは、潮騒が最初だった。

 老人と会わないと納得できないと感じていたが、潮騒をイメージしていると、そのような感覚が薄れてくるようだった。それよりも、昨日店で感じた隠れ家のイメージをもう一度味わいたいという気持ちが強くなっていた。

――そういえば、老人も言っていたではないか。隠れ家という意識を忘れてしまっては、会えないという話だったはずだ――

 という話を思い返していた。

 隠れ家というイメージと老人の雰囲気が決して結びつくわけではない。気分的に納得できないというのは、イメージと雰囲気が合わないことへの納得ではないだろうか。

――ここで、誰かに出会うような気がするのは気のせいだろうか?

 と確かその時に感じたような気がした。そのことを思い出すこともなく数か月が過ぎて、康子と出会うことになるのだが、実際に出会った時には、以前に出会いを感じていたなどということを、すっかり忘れてしまっていた。

 信義は、肝心なことを覚えきれない自分に苛立ちを覚えていた。何となく感覚が残っていても、覚えていないので、何を感じ、何を考えたのか、すっかり忘れてしまっている。

 時間帯がまったく違っているのも、忘れる要因だったのかも知れない。

 康子と出会ったのは、深夜だった。まだ賑やかさの残る中で、一人佇んでいた康子は、浮いた存在に見えた。浮いているだけに目立って見えたことが、信義に興味を持たせたのだ。

 しかし、一人で来たのは夕方の、まだ夕日の差し込んでくる時間帯だった。そのせいもあってか、一人佇むには、夕方の西日を感じる時間が一番ふさわしいと感じるようになった。深夜一人でいるのは侘しいものだが、寂しさがこみ上げてくるわけではない。寂しさがこみ上げてくる時間は、夕方だったのだ。

 陽の光が眩しく、潮騒が耳鳴りを運んでくることで、視界もしっかりとしていない。まるでモヤが掛かったかのように、埃が舞って見える光景は、体調を崩させるに十分で、身体に熱を籠らせてしまい、眩暈を起こさせるかのようだった。体調の悪さが心細さを呼び、寂しさを感じさせられら。

 それに比べて深夜の時間帯は、疲れてはいるが、決して眩暈を起こさせたりはしない。原色がハッキリと確認でき、却って目が冴えてくるようだ。目が冴えてくると、寂しさはなく、感じるのは、寂しさというよりも孤独だった。

 寂しさと孤独とは、同じもののように感じるが、信義は違った感覚を持っていた。

 寂しさは心細さから生まれるもので、自分ではどうしようもない思いに駆られる。しかし、孤独は寂しさのように心細さから生まれるものではない、心細さがないとは言いきれないが、生まれてくる感覚は心細さからではない。

 不安があるわけでもなく、孤独を楽しんでいる人もいる。

――孤独とは、一人でいることであり、一人でいたいと思っている人が、寂しさを感じるわけもない――

 信義は、孤独を感じることもあれば、寂しさを感じることもある。孤独は嫌いではないが、実は寂しさも決して嫌いだというわけでもない。

 ただ、孤独を感じている時は、まわりの人を感じる気にはならないが、寂しさを感じている時にはまわりの人が話しかけてくれたり、心配してくれているのを感じると、そこに暖かさが生まれてくるのが分かるのだ。

 元々孤独には暖かさは感じない。一人でいることに辛さを感じると、それは寂しさに繋がってくる。それは人に触れて暖かさを感じたいという思いが働くからだ。しかし孤独を求めている時は、まわりの暖かさが億劫に感じられる。何かに集中している時など、そういう感覚になるのかも知れない。

 ただ、鬱状態に陥る時があるのだが、それは孤独を感じた後に、苦痛を感じるのだが、その時、寂しさに繋がらない時に陥るのではないかと思うことがある。

 鬱状態は、何をやっても面白くなく、やることすべてが自分を苦しめることになるという錯覚が憑りついてしまった時に感じるものだ。そんな時に人の暖かさを求める寂しさに繋がらないのは当たり前のこと、

 寂しさは心細さから生まれるものだと思っているので、人と触れ合うことを嫌う。鬱状態では身体が必要以上に敏感になっている病気の時のように、精神が必要以上に敏感になっているのだ。そんな時、暖かさを求める寂しさが身体に漲っているなど考えられない。

 ちょうど初めてバーに顔を出して老人と出会った時は、鬱状態の終わり頃だったような気がする。鬱状態にも慣れていたし、鬱状態から抜ける感覚も分かっていた。

――そろそろ抜ける頃だ――

 と思っていたところで、初めてのバーに立ち寄り、不思議な老人を見かけた。

――これも何かの縁かな?

 と感じたのも事実だった。

 それから数か月経って、ファミレスで康子に声を掛けたのが、鬱状態から抜け出して、躁状態に近い頃だった。普段であれば、鬱から抜けると、一気に躁状態に精神が移行するのだが、その時は、平常心がしばらく続いた。鬱状態をほとんど忘れかけていた時、躁状態に移る気配を自分なりに感じたのだ。

 信義が老人にもう一度会いたいと思ったのは、自分に納得させるためでもあったが、鬱状態を抜けてからの自分が、今回は今までと少し違っている感覚を覚えたことで、寂しさを感じずにいられる方法が見つかりはしないかと考えたのだ。老人に孤独と寂しさの話を聞くことで、老人は、きっと孤独から寂しさに繋がらない時、鬱状態に陥るのだと話してくれ、それが信義の納得に繋がるのだと思っているが、あまりにも都合のいい考え方であろうか?

 その日、店に来ると、老人はすでに来ていた。

「こんばんは。昨日以来だね」

 と言って気さくに声を掛けてくれたが、老人にとって、信義がその日やってくるのが最初から分かっていたかのようだった。

「この人は気に入った人とではないと、なかなかお話はしませんからね」

 と、カウンター越しにマスターが声を掛けてくれる。

「あなたは、どうも孤独を背負っているような気がするんですが、同じ孤独でも、納得ずくの孤独を感じている人もいるけど、あなたの場合は、孤独を苦痛にまで思うことはなさそうですね」

 というが、本当はそんなことはないと思っていた。

 ある日突然孤独に苛まれることもあるからだ。あの時は苦痛だと思っている。そんな信義の気持ちを察してか、

「孤独に苦痛を感じることがあっても、一日や二日で済むのであれば、それは納得ずくな中でのことであって、軽い鬱状態になっているんでしょうね。それは純粋な孤独とは別の心細さが生み出しているものなのかも知れませんね」

 老人の話は、当たり前のことを言っているように思えてならなかった。だが、老人でなければできない発想に思える。一人で考えていては、生まれてこない発想に、

――口にすることで、自分も納得している部分もあるような気がするな――

 人を納得させるには、まず自分が納得するしかない。自分が納得しようと思い、一人で考えていると、どうしても考えがまとまらない。それは考えが堂々巡りを繰り返してしまうからだ。

 最初はそのことが分からない。

 堂々巡りを繰り返していることを理解できないということは、自分の考えていることには限界がないと思っている証拠である。一度限界を感じてしまうと、なかなかそこから抜け出すことができないが、抜け出そうとする努力はする。しかし、限界が一人で考えているから起こるのだと分かると、話をする相手を探そうと無意識にでも思うのかも知れない。

 そんな時に現れたのが、この店であり、常連客の老人であった。

 そういう意味で考えると、康子の前に自分が現れたのも偶然ではないのではないかと思えてきた。しかも、彼女であれば、この店に連れてくる気持ちにならないと思っているのに、康子であれば連れてきたというのは、まるで娘のように思えるからだけではないと思っていたではないか。

「ここでは、自分が感じているよりも、時間が短く感じられるんだよ。まだ、君は気付いていないようだけどね」

「それはどういう意味ですか?」

「時間の感覚というのは人それぞれなので、一概には言えないとは思うんだけど、わしはこの店の常連になって、かなりになるから結構分かっている。ここにはいろいろな客がやってきては、ほとんどの人が二度目はないんだよ」

「?」

「二度目に来た時は、その人は自分の世界を作っていて、最初に出会った人、二度と会うことはないというべきかな?」

「でも、僕はあなたと出会えましたよ」

「それは君がわしと会いたいと思ったからなんだよ。他の店だと、漠然と店に来ても、同じ時間にぶつかれば、会いたくないと思っている人でも、来ていることがあるでしょう? でもここはそれがない。あくまでも重要なのは、その人の時間なんだよ」

 まるで狐につままれたような話だった。

 その日は、老人と話をして、自分で納得のいかないことを納得させたいと思い、もう一度老人と会って、話をすることしかないという考えの元、この店にやってきたのではなかったか。これでは、昨日の話を納得するどころか、さらに納得できないことが深まってしまったではないか。

「君にとっては、今の話は当てが外れたと思っているかも知れないが、話というのは繋がってくると、原点に戻るものなんだよ。ほら、君が考えている堂々巡りだって、ただの限界を感じるだけだと思っているかも知れないけど、話の辻褄を合わせるという意味では、とても大切なことではないかと思わないかい?」

 どうやら、考えていることを見透かされているようだ。それを分かった上で話をしてくれている。きっと、奇抜な意見であっても、的を得ている話をしているに違いない。老人の話を聞いていると、いずれどこかで話が繋がってくるような気がして仕方がない。そのためにも、突飛で奇抜な話であっても、理解していこうと思う気持ちが大切なのだと思うのだった。

「たとえて言うなら、ヘビが自分の尻尾から自分の身体を飲み込んでいくのを想像してごらん。最初は大きな輪になっていても、次第に狭まってくるだろう? 最後にはどうなるか、想像がつかないと思うが」

「なるほど、どんどん輪が小さくなっていくのを感じますね」

「小さくなっていく輪が時間だと思えばいいんだよ。ここで、時間の感覚が短くなっていくということは、自分を自分で吸収しようとする意識があれば、ヘビが自分の尻尾から飲み込んでいくのを想像するごとく、完全に自分の世界しか見ていない。ここにやってくる人は大なり小なり、孤独な人がやってくるのさ。孤独を背負っている人には、この店の存在があからさまに感じられる。入ってこなければ気が済まなくなるようなんだよ」

「それで時間が短く感じられるんですね?」

「そうだね。それをここに来た客は、店を出てから初めて感じるようになる。その理由が分からない人は、二度とこの店に来ることはない。よほど、もう一度この店に来てみたいという思いを抱いた人でなければ、ここに来ることはできないのさ」

 マスターの方を振り向くと、無言で洗い物をしているが、老人の話を当然のごとく利いているのだろうか?

「まあ、わしの話を信じる信じないは、君次第だけどね。わしも理解できない人に、無理やり理解させようとして話しているわけではない。とりあえず、わしの話に興味を持ってくれる人を見つけて、話をしているというところかな?」

 そう言って笑っていたが、完全には納得できない。だが、昨日納得できないと思っていた気持ちとはまた違った感覚だった。

 昨日の話と微妙に繋がっている。完全な納得ではないが、昨日よりも、少し気が楽になっていた。

 昨日の疑問が解けたわけではないのに、さらに新しい疑問を積み重ねることになったのだが、不思議なことに、昨日感じた疑問ほど重たくは感じないのだ。

 それは、話が頭の中である程度繋がったからなのかも知れない。そう思うと、今度は逆に、

――すべてを納得する必要などないのではないか――

 と思うようになっていた。

 それは、納得することだけがすべてだと思っていた自分の考えを覆すものであり、それを老人が教えてくれたということに他ならない。この店の雰囲気も手伝っているのかも知れないが、信義にとって、不思議な世界への入り口に感じられたというのも否定できない気がしていた。

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