第6話 第6章

 ファミレスを出た二人は、無言で歩いた。信義の背中を見ながら何も言わない康子は、不安など欠片もないといった雰囲気だった。

――それにしても、深夜にしては思ったよりも明るいな――

 明るく感じられたのは、本当に明るさに感じるものがあったわけではなく、思っていたよりも人通りが少ないことで、人通りのわりには、明るさだけが目立って感じただけのことであった。

 少し風があることで肌寒さを感じたが、もうすぐだと思うと、それほど寒さは感じなかった。それは場所を知っている信義に言えることであって、ただ黙って後ろをついてきているだけの康子には、寒さは身に沁みていたかも知れない。

――この娘は、何の疑いを持たない性格なのだろうか?

 さっきファミレスで初めて会って、少し話をしただけの相手を、こうも簡単に信じるというのも驚きだが、相手が信義だからだと思えば、これほど嬉しいことはない。深夜に自分の娘くらいの女の子を誘いだすなどというのは、妄想をしたことはあったが、本当に行動に起こすなどという暴挙に走るなど、信じられないことだった。

 その時の信義は平常心ではなかったかも知れない。自分が四十過ぎの中年であるということを忘れてしまったわけではないはずなのに、気持ちは若返ったような気がしていた。もちろん、康子が自分のような中年を本気で好きになんかなってくれるはずもないという思いが頭にはあるが、誘ってしまってからは、余計なことは考えないようにした。

 大通りから少し入ったところに目指すバーはあった。そこを見つけたのは偶然で、普段は目立たないようにひっそりと佇んでいるのに、初めてこの店を訪れて一年くらいが経つが、その時もゆっくり歩いているつもりでも、寒さからか、自然と早歩きになっていた。

 今日のような深夜だったが、その時は、今日のように明るさが感じられた。やはり、人通りが疎らだったからだろう。ただ、あの時との違いは、今日は後ろを女の子がついてきてくれているということだ。彼女がいるだけで、感じる明るさもあるのかも知れない。

 早歩きで歩いていたので、まわりを気にすることなどなかった。それなのに、ここまで来ると、ふと立ち止まった。何がその時信義を立ち止まらせたのか分からないが。立ち止まった原因を考える間もなく、寒さが身に沁みてきたのだ。

――どこかで暖まりたい――

 と思いあたりを見渡すと、目指すバーの明かりが目についた。決して暖かさを感じさせる明かりではなかったが、勝手に足が向いて、中に入ってしまったのだ。

 バーなどは常連がほとんどなのだろうが、少し怪しげにも見える外観で常連が本当にできるのかと思ったが、結構、こういう雰囲気が好きな人もいるだろう。ただ、その日の信義のように、急にバーの明かりが気になってしまう人もいるかも知れないと思った。それは常連ぼ客を見ていれば分かったことだが、

「結構、皆性格は違っても、不思議とすぐに気心が知れてしまうんだよね。やっぱり、類は友を呼ぶってことなのかね」

 と、マスターが話していた。

 信義もその話を聞いて納得し、同じように頷いていたが、以前から馴染みの店を持ちたいという思いが強かっただけに、

――やっと腰を落ち着けることのできるところを見つけたんだ――

 と感じた。

――いつも一人でしか行かない俺が、娘くらいの女の子を連れていったら、どんな顔をするだろう?

 と思っていたが、深夜のこの時間、客がいるとしても、一人か二人だ、気にすることもないと思った。

 客の中には、いつも一人で来るのに、たまに女の子を連れてくる人もいた。そんな客を羨ましいという目で見ていたのは信義だけではないだろう。そういう意味で、客が誰もいなかったら寂しいという思いもあり、複雑な感覚もあった。

 店の近くまでくると、康子も店が近づいてきたことを察したのだろうか。それまで黙って後ろからついてきていたのに、次第に前に来るようになり、信義と並んで歩く要因なっていた。

「すぐそこですよ」

 と言って、康子の方を振り返ってみると、康子がまわりをキョロキョロと見ているのを感じた。

「このあたりに来るのは初めてかい?」

 と聞いてみると、

「初めてのはずなんですけど、この光景は初めてではないような気がするんですよ。なんか不思議ですよね」

 と言って微笑んでいた。

 康子がデジャブという言葉を知っているかどうか分からないが、不思議だと言いながら、結構楽しそうだ。初めてくるはずの場所なのに、初めてではないような感覚になったことが今までにもあったのかも知れない。

 信義は、再度康子の前に立ちはだかり、少し歩を早めて、バーの前までやってきた。

――おや?

 扉を開けてみたが、普段よりも、扉が硬く、扉を引いた時に。元に戻ろうとする反発力を感じた。

――重たい――

 と思いながら、一気に扉を開けると、薄暗い中に、ほんのりとした暖かさが感じられるスペースが、目に飛び込んできた。

 それは懐かしさという言葉が一番適切かも知れない。

――そういえば、しばらく来ていなかったな――

 仕事が忙しかったこともあって、一か月ぶりくらいだった。だが、実際には、そんなに離れていたような気がしていなかっただけに、店内を覗くと、やはり久しぶりだという感覚がよみがえり、懐かしさがこみ上げてきたのだろう。

 薄暗い中で、BGMも最低限の大きさに保たれていた。たまに客の中で、気持ちよくなって奥で寝てしまう人もいるので、睡眠の邪魔にならない程度の音にしていた。

 もっとも、これくらいの音量の方が一番気持ちがいいのか、眠りに落ちるまでが、あっという間だったのだ。

 ここで朝までいたことも何度かあった。ビジネスホテルがいっぱいの時には、ここに来たものだ。やっぱりベッドの上で寝るのが一番いいに決まっているので、最優先はビジネスホテルだが、ここで朝までいても、違和感はなかった。

――でも、そんなにしょっちゅうできることではない――

 というのも事実で、身体が重たくなったこともあり、体調を崩さないようにしないといけないのは当然のことだった。

 店の中に入ると、後ろからついてきた康子も、いつの間にか、信義の横に来ていて、店内を見渡している。

「素敵なお店ですね」

 少し擦れたような声になっている康子はそう言って、信義が席を決めるのを待っているようだった。

 信義の席はいつも決まっている。カウンターの一番奥の席だった。

 店内は、カウンターが六人ほど座れる席に、テーブル席が二つほどある。

 テーブル席にはスポットライトもついていて、店内の照明が暗くなったら、スポットライトで自分のテーブルだけ調整できるようになっている。それもありがたいことだった。

 今まで誰かと一緒に来たことはなかった。ここ数年、女性と付き合ったなどという思いはなく、もし付き合う人がいれば、きっとこの店にも連れてくるだろう。

 ただ、付き合い始めて最初の頃に連れてくるようなことはしない。お互いに気心も知れてきて、性格も分かって来てからになるだろう。

――俺はこの店をそれほど大切に想っているのかな?

 と考えていたが、それ以上に、この店を自分の隠れ家にしようという思いもあるのだと感じていた。

 そう思うと、

――やっぱり、誰かと付き合うとすれば、ここには連れてこないかも知れないな――

 と感じた。

――じゃあ、この娘を連れてきたのはどういう意志が働いたからだろう?

 衝動的な行動であることは分かっていたが、それは半分以下の感覚にしか思えない。自分の中に何か考えがあるのは間違いのないことで、

――やはり、娘のような感覚でいるからかな?

 今まで、娘がほしいと思ったことはなかった。

 いたらよかったと思ったこともあったが、それはあくまでも和代と結婚して、子供ができていればの話だった。それ以降何人かと付き合ったが、和代以上の女性はいなかった。そして、そのすべてが、自然消滅である。

 娘がいてもいい年齢で、道を歩いていて、家族連れを見かけると、胸がドキドキしてしまうことがあった。それは家族に対して憧れと同じくらいに、娘に対しての愛着があったからに違いない。

 恋愛に関しては、今はしたいとは思っていない。家庭への憧れはその反動ではないかと感じていた。

 いろいろなことを考えながら、気が付けば、指定席に座ってた。康子も一寸遅れて隣に座ったが、もう店内を見渡すことはなかった。

「いらっしゃい」

 マスターの声で我に返った信義は、

「こんばんは」

 と声を掛けると、やはり一寸遅れて康子も、

「こんばんは」

 と声を掛けた。

 マスターは二人を見ながらニコニコしながら、

「よかったですね。娘ができたみたいじゃないですか」

 と、まるで今考えていたことを見透かされたように言われたので、一瞬身体が凍り付いたかのようになった信義だった。

「ええ、そうなんですよ」

 取ってつけたような返答に、マスターはニッコリ笑って、

「こういう子供のようなところがあるのが、この人のいいところなんでしょうね」

 と、康子に言うと、康子も何も言わずにニコニコしながら、頷いていた。

「彼女は、さっき出会ったばかりで、何も知りませんよ」

 と、照れ臭さからそう答えたが、この状況でのベストアンサーだったのかどうか、どう考えても違ったようで、またしても、照れ臭さから、顔が真っ赤になってしまった。

 この店に入るまでの信義とまるで別人になったかのようだったが、それだけこの場所が信義にとって癒しになるのだろうと、康子は思い、そんな場所を持っている信義が羨ましくもあった。

 その日、康子は本当は当てがあったわけではない。

 いつもと同じような行動で、

――今日も何ら変化もなく終わるんだわ――

 と考えていたが、最近では考えはするが、感情として残ることはなかった。考えはあくまでも惰性で考えているだけであった。

 康子は、ここ最近ずっと一人だった。

 一人暮らしを始めた時、期待と不安が半々だったが、現実的には不安が表に出ていた。しかし、次第にその環境に慣れてくると、不安な感覚は次第にマヒしてきたのだが、期待もそれ以上になくなっていった。

――何も感じなくなりそうで怖いわ――

 と思っている時期もあったが、それも次第に感じなくなった。阿世の毎日が始まったのだ。

 それなのに、最近急に孤独感が増してきたのを感じた。

――一旦、以前の期待と不安が戻ってきたのかな?

 と感じたほどだ。

 戻ってきたのなら、感じるようになればいいものを、一旦マヒしてしまったことで、無意識の中で受け入れてしまった感覚になっていた。それなのに、寂しさがこみ上げてくるようになると、それだけが感情として表に出てきたのだ。

――私は誰かを求めている――

 ということを感じるようになったのは、最近のことだった。

 心の中で、密かに出会いを求めていた。だが、その出会いは普通の男女の出会いではない。何かドキドキするものであり、そこには「禁断」を思わせるものがあるのを予感していた。

 そんな時に声を掛けてきたのが信義だった。

――きっと私に同い年の男の子が声を掛けてこなかったのは、近づきにくいオーラがあったからなのかも知れないわ――

 信義は、うだつの上がらない中年男性に最初は見えた。だが、目の前にいるだけで、次第に感覚が変わってきた。

――おじさんだと思っていたのに、もっと年齢が近い人に感じられるわ。しかも、慕いたいという気持ちが溢れてきた。そう、お兄ちゃんのような雰囲気だわ――

 と、康子は感じた。

 信義は、康子に対して最初は娘のような感覚だったが、それだけではない何かを感じていた。それは、自分が感じているものではなく、康子が感じている「お兄ちゃん」という思いが、康子を見ていると、伝わってきたのかも知れない。

 そんな二人を察して、いきなり「父と娘」のイメージで話し始めたのはマスターだった。マスターには、康子の気持ちが分かったのかも知れない。

 バーの中にいると、少し暑さを感じてきた。

 寒い表を歩いてきた影響かも知れないが、それよりもどこか湿気があることを感じていたのは、信義も康子も一緒だった。

 康子が息切れしているのを悟ったマスターは、

「少し暑いですか?」

 と、康子に声を掛けた。

「そうですね。信義さんはいかがですか?」

「ええ、僕も少し暑さを感じますね」

「じゃあ、少し温度を落としましょう」

 これだけの会話だったが、結構時間が掛かったと思っている信義と、あっという間に過ぎた時間だと思った康子、お互いに時間の感覚がずれていることを、お互いに知らないでいた。

「私、以前にもこのお店に来たことありませんでしたか?」

 康子は、マスターに聞いた。

「いや、私には見覚えないんだけどね」

 と、答えたが、さらに康子の顔を見ていた。

 マスターがウソを言っているとは思えないが、二人の間に、不思議な雰囲気が漲っていたのを、ただ見ているしかできなかった信義だった。

「でも、同じようなことをいきなり言われるお客さんも、少なくはないんですよ。きっと似たようなお店に思い入れがあって、初めてきたような気がしなかったのかも知れないですね」

 と、マスターは話したが、確かにバーの造りなど、それほど変わったところはない、バーというところは雰囲気づくりで店が持つように思っていた信義だったが、それが造りと雰囲気の両方から形成されているのかも知れないと、二人の会話から感じたのだ。

 信義は、デジャブは感じなかったが、違う意味で懐かしさを感じた。

 この店のイメージが、まったく違う場所で感じた懐かしさに似ていたからだ。ちょうど癒しを求めていた時期だったこともあって、癒しを感じたことで、そんな気分になったのかも知れないと思っていた。それが妄想の一種であったということに気付くのは、もう少し後になってからのことだった。

 妄想と想像は違う。妄想は自分の意識の中にあるものを膨らませていくもので、想像は意識として作り上げるものをいうのではないかと思っていた。そういう意味では、創造よりも妄想の方がしやすい。だが、意識としては、

――想像はしてもいいが、妄想はあまり膨らませるものではない――

 という思いがあるのも事実で、妄想は、タブーの一種のように感じていた。きっとそれは、妄想が行動に出やすいからではないだろうか。

 信義は、この店に初めて来た日のことを思い出していた。

 あの日は確か、仕事で嫌なことがあり、まっすぐに家に帰る気がしなかった時であった。まだ、最終電車を気にする時間ではなかったので、午後九時頃だったはずだ。街には人が溢れていて、ちょうど一次会が終わって、これから二次会に繰り出そうとする連中が、飲み屋街にいっぱいいた時間だった。

 信義は、そんな連中を横目に、わざと早く歩いて、楽しそうにしている連中を半分蔑んだ気持ちになりながら通り過ぎていた。

――どいつここいつも、浮かれやがって――

 心の中で叫んでいた。

 余計に気持ちが苛立ってきた。それは、楽しそうな連中を無視することもできないほど精神的に余裕のない自分に対しての憤りだった。嫌な気分にはなっても、決して羨ましいなどと思わなかった自分が、余裕のない精神状態を曝け出すかのように苛立っているのを客観的に見ると、これほどみすぼらしく感じることはなかったからだ。

――こんな日は一人で呑めるようなところがいいな――

 と思っていると、気が付けば、寂しいところを歩いていた。

――こんなところに意外と隠れ家のようなところがあるかも知れないな――

 と、その時は、冷静に考えられた。この店を見つけることができる予感めいたものがあったのかも知れない。

 大通りから一つ入った一角を歩こうなど、今までに考えたこともなかった。ある意味隠れ家のような店を見つけたいと思ったことで、普段と違った精神状態に落ち着いていたに違いない。

 薄暗い中に、まるでホタルの光のように、煌めいている明かりが見えた。決して明るくはないが、煌めきに、まるで自分を呼んでいるのではないかと思わせる趣を感じたのだ。角を曲がると見えてきた雰囲気に、吸い込まれるように入っていったのだが、あの時は今日のように扉が重たかったわけではない。スッと入れたのだった。

 店に初めて入った時は、長居をするつもりもなく、一時間でもいればいいという程度の感覚で中に入った。

 店内には誰もおらず、一人でビールを呑んでいた。おつまみとして、豚バラ焼きと、砂刷りの土瓶蒸しを注文したが、なかなかおいしかった。食べているうちに暖かな気分になれたこともありがたく、店内を見渡すと、入ってきた時に感じたよりも、広く感じられたから不思議だった。

 マスターは相変わらず無言で、手だけを忙しく動かしている。手つきに無駄がなく、思わず手元に目を引き付けられているのに気付いた。

 そのうちに一人の客が表れた。その人は老人で、最初は、

――バーが似合いそうな人ではないな――

 と思ったほどだった。

 その人は意外にもワインとピザを注文していた。若かった頃から、バーの常連だったのかも知れない。

 信義はカウンターの一番奥に鎮座していたが、その老人はそこから三席離れたカウンターの中央に座っている。

――この人の指定席なのかも知れないな――

 常連であることは、マスターの態度を見ていると最初から分かっていた。注文する時にも、

「今日は……」

 と言いながら老人が口にしたのを聞いて、確信に変わったのだ。

 しばらく客は二人だけの時間が続いたが、老人が入ってきてから、十五分ほど経ってから、女性二人組が入ってきて、テーブル席に腰を掛けた。時間を見ると、十時ジャストだったので、予約をしていた客だったのかも知れない。

 彼女たちは、老人のことは気になっていないようだったが、信義のことは気にしていた。

――やっぱり老人は、常連だったのかな?

 と思った。

 女の子二人組が入ってくると、老人は、席を移動して、信義の隣にやってきた。信義は、老人が隣になぜやってきたのか気にはなったが、ビックリしたわけではなかった。

 老人はおもむろに口を開くと、

「お客さんは、初めて来られたのかね?」

「ええ」

「この店のことは以前から気にされていたのかい?」

「いえ、たまたま通りかかった時に、ここにお店があることを知ったんですよ」

「ここの通りはあまり通らないのかい?」

「いえ、そんなことはないですね。毎日というわけではないですが、よく通る道ではあります」

「この店は、雰囲気が隠れ家みたいな店でしょう? あまり目立つわけでもない。だからこの店に入ってくる人のほとんどは、一人の客なんですよ。今あなたが行ったように、偶然見つけたという気持ちで入ってくるんですよね」

「そうですね、おっしゃる通りです」

 と、相槌を打った。さらに老人が続ける。

「でも、その偶然というのは、本当に偶然だったんでしょうかね? 何か気持ちの中で釈然としない思いを抱いている時、ふいにこの店が気になって、入ってくる人ばかりだと私は思うんですよ」

「確かにそうです。私も、今日は少し仕事の関係でむしゃくしゃしたところがあったのは事実ですからね。普段なら、気になったとしても、立ち寄ってみようとまでは思わなかったかも知れません」

「きっと普段の精神状態なら、この店の存在を意識することはないと思いますよ。ただ、一度意識してしまうと、気になって仕方がなくなる。でも、そう感じた時に入ってこないと、その人はこの店に入ってくることはないかも知れませんね」

「どうしてですか? 翌日またここに来てみればいいんじゃないんですか?」

「翌日になると、もうその人は前の日の精神状態ではなくなっているので、その人にこのお店を見つけることができなくなるんですよ。おかしいなと思ったとしても、誰かに確認してみるすべもない。だから、その人がもしこの店に来ようと思えば、最初気になった時のような精神状態になる必要がある。なかなかそれも難しいことですね。でも、一度気になった人は、もう一度同じ精神状態になることがあるんですよ。その時、初めてこのお店を発見する。そして中にやっと入ることができるんです」

「そんなものなんですかね?」

「ええ、だから、このお店に来た人は、前にも一度ここに来たことがあるような錯覚を起こすんですよ。入ってみたいと思った時に想像した店内の雰囲気が頭にあるからですね。そしてその気持ちは、怖いくらいに店の中の雰囲気を捉えている。だから、余計にこの店を見つけた時、以前入ってみたいと感じたことを忘れてしまうのかも知れません。ここはそんな不思議な雰囲気を持ったお店なんです」

「あなたも同じだったんですか?」

 と聞いてみると、老人はしばし黙っていたが、

「ええ、そうですね」

 と、おもむろに答えた。ただ、その声のトーンは低く、背筋に響くような声だったことが、胸の鼓動を呼び起こしたのだった。


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