第4話 第4章

 信義と和代は、曖昧なうちにお互いに恋に堕ちていた。それは抜けることのない底なしの恋に思えたが、それは、喧嘩が絶えなかったことでも分かっていた。

 喧嘩の理由は、いつもバラバラで、ほとんどが大したことではなかった。

 お互いの性格も詳しく知らずに付き合い始めたのだ。無理もないことだろう。

 感情がすべてに優先し、付き合い始めたのだ。当然感情が表に出てきて、衝突は避けられない。

 それだけに、一日一日は長く感じられた。波乱万丈の日々だと思っていたからだ。

 だが、それが一週間、一か月という単位になると、あっという間だったような気がする。

 一週間前を思い出すよりも、一か月前のことの方が、まるで最近のように感じられるというのも不思議なものだった。

 逆に言うと、付き合って行く間に気持ちが徐々に深まっていくわけではなく、最初に一気に燃え上がった気持ちは、時には小康状態になったり、時には燃え上がった時の気持ちが再燃してしまう。時系列が一定していないのだ。

 もちろん、こんあ付き合いは初めてだった。

 だが、学生時代には何人かの女性と付き合ったことがあったが、それも付き合ったと言えるような関係だったのは、一人か二人だったかも知れない。

 だから、付き合い始めて気持ちの紆余曲折が分からないのだ。すぐに別れてしまったのだから、正直喧嘩になったこともない。

 信義が交際を申し込んだわけではなく、

――気心が知れた相手――

 として自然に付き合い始めたことだった。

 きっと女性の方が、

――この人は何か違う――

 と思うのだろう。

――喧嘩するほど仲がいい――

 という言葉は知っていたが、喧嘩にならないのだから、しょうがない。喧嘩になるほど付き合ったことがないのだ。

 相手が喧嘩になることを嫌ったのか、相手の方から別れを切り出してくる。言葉にはしなかったが、

「綺麗なままで別れないと、泥沼に入ってしまうような気がするの」

 と、言いたかったのかも知れないと思った。

 もちろん、そこまで分かっていた人がどれほどいたかであるが、信義に対して、恋愛をするまでに別れを切り出した女性がたくさんいたというのは、紛れもない事実なのだ。

 和代と付き合い始めて、泥沼が初めて見えたような気がした。

 確かに喧嘩をしている時は、最初こそ、感情に任せて罵倒してしまうが、喧嘩中でも冷静さを取り戻すもので、

――仲直りしたい――

 と思っても、すでに自分だけではどうすることもできなくなっていた。

 和代が何を考えているか分からないだけに、こちらから謝ることもできない。謝ったとしても、和代が折れてくれる保証はどこにもなかった。

 相手の性格を分からずに付き合い始めたことが影響しているのかも知れない。和代もきっと、

――この人は私のことを理解していないんだわ――

 という思いがあるはずだ。

 そんな相手に謝られて、一旦振り上げた鉈を下ろすことができるだろうか。相手も収拾を考えていたのであればいいのだろうが、

――売り言葉に買い言葉――

 で始まった喧嘩は、意地のぶつかり合いでもあった。特に興奮してくると、自分の言っていることすら、理解できずに罵倒している相手には、何を言っても同じに思えた。

 ほとぼりが冷めるまで大人しくしていればいいのだろうが、信義には、そんな才覚があるわけではない。

 意地をぶつけ合っている間は、お互いに時間の感覚はなくなり、相手に対して気を遣うなどということは、皆無だった。それなのに、掴みあいの喧嘩にならなかったのは、無意識に気を遣っていたからなのかも知れない。

――前に付き合っていた男性が、和代と別れた原因が分かったような気がするな――

 その人の話を伝え来たところによると、普段はとても大人しい人のようだ。

「どこか、女性的なところがあるのよね」

 と言っていたが、和代のヒステリックな態度を見れば、かなり罵倒されていたに違いない。

 ヒステリックというのは、女性特有のものだ。男性であれば、いくら相手に文句があったとしても、それ以上のことは口にしないという境界線をしっかりと持っている。しかし、和代にはそれがないのだ。

 信義は、そんな和代に対して、正面で受け止めた罵声に対して、自分も言い返している。もちろん、和代も意地になってさらに罵声を浴びせてくるが、お互いに言い合いをしている分、疲れはするが、ストレスの解消にもなるのだ。

 だが、その人は、他の人の話を聞いていれば、言い返すことのできない人のようだ。罵声を甘んじて受け止めたとしても、それを返さないと、罵声を浴びせる方もストレス解消どころか、罵声が泊まる時には。消化不良になっていることだろう。

 しかも、女性的なところがあると聞いたので、たぶん、自分の考えていることを、相手に明かすことはない、

「女性はある程度までは我慢するが、限界を超えると、絶対に心を再度開くことをしないものだ」

 という話を聞いたことがあった。

 心を開かないと、口も開かない。そんな相手にいくら罵声を浴びせても同じだった。和代の気付かないうちに、彼は次第に遠ざかって行ったのだろう。そんな遠ざかっていく相手に対しては、後ろ姿しか見えていないはずだ。

 正面で話しているつもりで、実は相手の後ろ姿しか追いかけていたいないことに気付いてしまうと、今度は、和代の方が冷めてしまう。ヒステリックな状態から、今度は冷静になると、自分から相手の男を避けるようになる。

 しかし、それは相手に帰ってきてほしいという気持ちの裏返しでもあり、相手にこちらを向かせる作戦でもあるのだ。最初から冷静な相手であれば、きっとそんなことはお見通しであろう。

 相手が振り向いてくれないと思った和代は、焦ったに違いない。その時になって、初めて相手の気持ちを分かったのだとしても、すでに後の祭りだったのだろう。

 ひょっとして、相手の男性も本当に和代のことが好きだったのかということを考え始めたのかも知れない。いくら冷静な男であっても、本当に好きな相手であれば、未練は残るはずだからだ。

 信義は、和代を見ていると、自分も本当に和代のことが好きなのかを自問自答してみた。繰り返し考えてみたが、、

――もう離れることができないくらいに好きなんだ――

 という結論しか出てこない。

 喧嘩になるのだって、お互いに相手に対して持っている願望があり、少しでも近づいてほしいという考えがあるからだ。

「喧嘩するほど仲がいい」

 と言われるが、まさしくその通りだ。

 喧嘩をすることでさらに相手が何を考えているか、そこで分かってくるからではないだろうか。一方通行では、どうしようもない。

 そう思っていると、そのうちに喧嘩することもなくなってきた。しかし、喧嘩しなくなると、今度は和代の方が、信義を避けるようになっていた。

――俺のどこが気に入らないんだ?

 と思っていたが、どうやら、その理由が別れた彼にあるのだということに、しばらくして気が付いた。

 最初から信義を見ているつもりで、意識していたのは、前に付き合っていた彼の残像を追いかけていたのだ。時々、ふと和代が何を考えているのか分からなくなることがあったが、それは、和代が無意識のうちに、信義と以前付き合っていた男性を比較していたからに違いない。

 最初は無意識だったが、喧嘩を始めた頃から、

――意識していたんじゃないか?

 と思うようになっていた。

 言葉の端々で、言い返してくる信義に対して、ムキになって向かってくる中で、

――俺を見ているようで、俺の後ろを意識しているように感じるのは、なぜなんだ?

 と感じていた。

 それが前の彼に対しての視線だと思うと、腑に落ちなかった点も分かってくる。そもそもの喧嘩の原因も大したことではなかったのに、

――どうして、こんなにムキになるんだ?

 と、頭を傾げてしまうほどだった。

 確かに和代は神経質なところがあったが、ここまで豹変するほどとは思っていなかった。それは他の人も同じようで、

「何か、彼女を怒らせることしたんじゃないの?」

 と、パートのおばさんに言われたくらいだった。

「そんなことはないですよ」

 とは答えたが、考えてみれば、何が彼女の逆鱗に触れるのか分からない。知り合ってまだ少しではないか。

 どうやら、前に付き合っていた男性、名前は里山というらしいが、あまり和代と衝突はなかったようだ。和代と、前の彼氏と二人ともに仲が良かった人の話では、

「里山さんは、和代さんを怒らせるようなことがなかったからね。和代さんが怒りそうになっても、うまく吸収してあげられるような人だったですね」

 と言っていた。彼の名前は佐藤と言った。佐藤は、高校の先輩でもある里山に、いろいろ社会人としての心得を教わったらしい。

 佐藤の話で分かったことは、要するに前の彼氏は、

――大人の男性――

 だったということである。そのことは認めなければいけないだろうが、

――俺はその人の代わりじゃないんだ――

 という思いが強い信義は、喧嘩になるのも仕方がないとまでは思っていたが、喧嘩が続いていくうちに、和代の精神状態のバランスが崩れてきているのを感じていた。

 その理由が分かったのは、しばらくしてからのことだったが、それを教えてくれたのは、佐藤だったのだが、佐藤がいうには、

「どうやら、転勤先で交通事故に遭って亡くなったらしい」

 ということだった。

「和代はそのことを?」

「多分耳に入っていると思う。ただ、交通事故に遭ったのは、里山さんが会社を辞めてからだったので、会社の他の人が知っているかどうかは、分からないんだけどね」

 里山という男は、会社を辞めていたという。和代はそのことを知っていたのだろうか?

「和代さんは知っていたと思いますよ。里山さんが会社を辞めたこと」

「どうして分かるんですか?」

「里山さんは会社を辞めた後、僕に会いに来ましたからね。その時、多分和代さんにも連絡を取ったんじゃないかな?」

「でも、別れた相手なんでしょう?」

「そうですね。でも、本当は里山さんは別れたくなかったようです。和代さんには、自分から別れたような印象を与えていましたけどね。里山さんはそんな人なんですよ。さりげないところで人に気を遣って、自分には何も残らなくてもいいと思っているところがある。里山さんも和代さんと一緒で母子家庭だったので、お互いに気持ちは分かっていたと思いますよ」

「まさか、佐藤さん。あなたは和代さんのことを?」

「ええ、好きだったですね。でも里山さんと付き合い始めたのが分かると、僕には到底太刀打ちできないと思うようになったですね。二人が母子家庭で気があるからだというわけではなかったんですが、僕は、好きな人が誰かと付き合っていると知ると、諦める傾向が昔からあったんですよ」

 なるほど、そのあたりは、佐藤を見ていると分かってくる。引っ込み思案なところがあり、人に気を遣うことが一番の美徳のように思っている。

――だから里山と仲がいいのか、それとも里山と仲がいいから似てきたのか、どちらだろう?

 と思っていたが、後者の方が強いような気がする。里山の影響力は確かにありそうだが、見ていると、佐藤という人は、今だ自分の性格について、自分でハッキリと分かっていないところがあるようだ。

――なるべく自分に自信がないことを、人に悟られないようにしようという思いが、気さくで人懐っこさに表れている――

 と感じたからだ。

 それにしても、里山も母子家庭だとは思わなかった。

 信義はどちらかというと、何不自由もなく育ってきて、初めて社会に出てきた。まわりの人と接する時、皆自分よりもしっかりしている人ばかりだという意識をどうしても持ってしまうのも無理のないことであろう。

 その意味で、

――里山には勝てない――

 という思いを抱いたこともあった。それが和代との喧嘩に結びついたのではないかと思っている。もし、それが直接の原因でなくとも、原因の一端を担っていたのではないかと思っていたのだ。

 喧嘩をすると、和代の顔色が変わってきた。

――和代は、ひょっとすると、里山と喧嘩をしてみたかったのかも知れない――

 今思えば、そう感じるふしもあった。

 里山にとって和代は、あくまでも自分の手の中にいる存在だったので、喧嘩をしなくても受け入れるだけの器があった。しかし、信義にはそこまでの度量はない。何よりも一番大きなことは、知り合ったのは相手の方が先だったということだ。

 信義には、

――先駆者に対しては、どうあがいても勝てないんだ――

 という思いがある。年長者に対しての思いもそうであるし、何かを先に始めた人がいれば、どんなに自分の方が上達しても、先に始めたということでの敬意があったのだ。

 そういう意味でも、里山が死んでしまったということに対して、信義は複雑な気分である。

 普通であれば、

――ライバルはいなくなった――

 と思って安心するものであろうが、簡単にそうはいかない。逆に不安が募ったという気持ちもあるのだ。

 相手が死んでしまっては、和代にとって、最後の印象から、それ以上でもそれ以下にもなることはない。和代がいまだに里山のことを気にしているのだとすれば、里山は和代の気持ちの中で永遠に生き続けるのだ。

 しかし、実際に接している人間には、色褪せることもある。和代が信義に対して色褪せたイメージを持ってしまえば、里山の存在が大きくなり、信義のところに永遠に戻ってこないことも考えられる。

 だが、その考えは思い過ごしであることを教えてくれたのは、佐藤だった。

 里山という男が会社を辞めたのは、新しく付き合い始めた女性のせいだということだったらしい。佐藤はそのことをなぜ知っていたかというと、

「里山に相談されたんだよ。もう、その時には和代さんのことは頭の中になかったようだったので、僕も里山の相談に乗ってあげたんだけどね」

 佐藤が里山にどんな話をしたのかは分からないが、少し腑に落ちない気がしたのも事実だった。

「その時、里山は必死な様子だったので、僕が問い詰めたんですよ。最初は、和代さんへの未練で僕に会いに来たと思っていましたからね」

 と、佐藤は続けた。

 確かに、佐藤は里山が訪ねてきたとはさっき話してくれたが、思い出したかのように、今さら里山に他に女性がいたということを信義に話そうとしたのだろうか?

「でも、佐藤さんはさっき、里山さんは和代と別れたくなかったんじゃないかって言ってましたよね? それをどうして今他に女性がいたって話してくれたんですか?」

「最初は、君に話すつもりはなかったんだよ。里山の名誉もあるだろうと思ってね。第一死んだ人間のことを悪くいうことになると思ったからね。でも、ここで話をしておかないと、この話を僕は誰にもすることはないと感じたのさ。僕には、このことを自分の胸だけに収めておく自信がなかったので、君に話してしまおうと思ったんだろうね」

「そうなんですね。もちろん、僕はこのことを口外するつもりはないし、和代に話す気はないですよ。でも、和代は知っているかも知れないですね」

 自分との喧嘩の激しさは、きっと和代がこの事実を知っていたからではないかと思うのはおかしいだろうか? 佐藤には必要以上の話をしようとは思わなかったので、そのことを打ち明ける気がしなかった。

 打ち明ける気にならなかったもう一つの理由は、

――佐藤は、必要以上のことを話してくれる――

 と思ったからだ。

 喧嘩の理由についていろいろ考えていることを話したとすれば、自分が知りたくもないことを吹き込まれる危険性がある。

 吹き込まれるというよりも、佐藤の主観が入った話を聞きたくなかった。佐藤という男は、今は客観的に話をしてくれているが、内容は結構心理の奥深くにグサリとくさびを打ち込んだような話になっていた。客観的な話でそうなのだから、主観的になってしまったらどこかで話が発展するというのだろう? それを思うと、恐ろしさが背筋に汗を掻かせるのだった。

 佐藤からいろいろな話を聞かされてから、しばらくは和代とは小康状態だった。

 和代と喧嘩をすることもなく、普通の男女の付き合いになった。

――最初に喧嘩をすることで、うみのようなものが出きってしまったかな?

 といい方に考えようとした。

 平穏な付き合いは、安心感に繋がるわけではないが、呼吸を整えることができるニュートラルな状態であった。

 そこからが、今から思い出しても自分でハッキリと思い出せないところが多い。何しろ和代との別れが、自然消滅だったのだからである。

――まるで直子の時のようだ――

 直子の時にも、自然消滅で別れてしまった。

 確かに異性に興味を持つ前だったので、自然消滅に対して、その時違和感はなかった。だが、和代と別れた時の自然消滅にも違和感を感じたという思いはさほどなかったのである。

――どういうことなんだ?

 自然消滅するような仲ではなかったはずだ。少なくとも、信義は和代に対しては一目惚れで、それまでの恋愛感情とは明らかに違っていた。

 今から考えても、和代ほど好きだった女性はいなかったのではないかと思えるくらいだ。

 自然消滅であっても、気持ちの中で、

――和代ほどのオンナはいない――

 という思いがあったのだろうか?

 それなのに、別れが近づいたと思っても、それに対して対策を考えたり、なぜ別れが近づいたかということをもっと深く考えようとしなかったのかということを掘り下げなかったのか、自分でも分からない。

 信義は今までに何度も失恋はしたが、自然消滅はこの二つだけだった。ほとんどが相手から愛想を尽かされることが多く、別れた後も、

――これから何を楽しみに生きればいいんだ――

 と思うことはあったが、相手の女性への未練はなかった。

 むしろ直子に対しても和代に対しても、別れてからしばらくして、別れた相手に対しての未練が込み上がってくるのだ。その時には、すでにショックから立ち直っていた。いや、そもそも自然消滅なのだから、ショックと言えるものがあったかどうか疑問だが、本人はショックのようなものを感じていたのだ。

――俺は、つくづく自然消滅が好きなんだな――

 呆れかえったように溜息をついた。

 それなのに、ショックが残っていることが自分でも不思議だった。

 自然消滅から感じられないものとして、寂しさはないだろうと思っていた。直子の時には寂しさはなかったが、あの頃はまだ異性に対しての意識がなかったからだ。だが、もし異性に対しての意識が生まれてから直子と出会っていたらどうであろう? 直子と付き合ったであろうか?

 信義は、付き合うことはなかったと思う。中学生の直子は、中学生になった時の信義が見た時、平凡な女の子に見えたのだ。

 小学生の頃、一緒にいた直子は、どこか他の女の子と違っていた。信義を意識しているわけではないのに、なぜか、いつもそばにいたのだ。

「何で、俺のそばにいつもお前がいるんだ?」

 と、聞いたことがあった。その時、直子は寂しそうな表情を浮かべ、泣き出しそうになっていた。

――こんな顔見たことないぞ――

 それまで知っているはずの直子ではなくなってしまった気がしたのだ。

 今の信義は、直子を思い出すと和代が記憶から薄れてくる。和代を思い出すと、直子が記憶から薄れてくる。

 三十歳代くらいまでは、どちらかを思い出すと、どちらかも一緒に思い出していた。それが急に一人を思い出すと、もう一人を忘れるようになったのだが、それがなぜだったのか、最近になって分かってきたような気がする。

――結婚願望がなくなってからだ――

 それまでは、いい人がいれば結婚したいと思っていた。当然、誰かと付き合うと、結婚という二文字が頭をちらつく年齢だからである。だが、実際に何人かと付き合ってみたが、結婚にまで至る相手ではなかった。お互いにそう思ったからなのだろうが、信義の方が最初にそう感じたことが、多かったに違いない。

 結婚願望が薄くなることに、年齢にこだわる必要があるのかと考えるが、その頃から、毎日が惰性に感じられるようになったのも事実だった。それまでは、一日一日が短く感じられる時は、一週間が長く感じられ、逆に一日一日は長く感じられる時は、一週間があっという間だった。

 それなのに、それからしばらくは、一日一日も、一週間もあっという間に過ぎて行ったのだ。

 過去のことを思い出すには、時系列に沿って思い出すのだろう。あっという間に時間が過ぎていると感じている時には、その時系列が見えてこない。ちょっと考えればすぐに分かりそうな時系列の順番だが、あっという間に時間が過ぎてくると、過去というものが、はるか遠くに感じられる。

 今まで以上にはるか遠くであれば、十年前も二十年前も、豆粒のように小さく見えてしまい。どちらが前のことだったかすら意識できなくなる。そのため、片方を思い出すと、もう片方を思い出すことはできない。なぜなら、二つとも、恋愛に関係のあることだからだ。

 同じ内容のことを見ようとすると、前が邪魔をして、その先が見えないものだが、それぞれに見えるように工夫が施されているかのように思えてくる。

――今まで付き合った女性の中で、一、二を争うのは和代と直子の二人だが、甲乙つけがたい相手としてそれ以外の女性とは、まったく違う――

 と感じていたが、それも二人が似ているからというわけではない。

 雰囲気は似ているが、性格はむしろ正反対ではないだろうか。信義は、直子の面影を見ながら和代に一目惚れしたはずだったが、実際に付き合ってみると、衝突が絶えなかった。信義は、直子の雰囲気の中に、

――従順さ――

 を見ていた。だから、和代にも同じような従順さを求めたはずだったのに、付き合ってみると、従順どころか、自己主張の激しさに、最初はビックリした。

 それでも、一目惚れしてしまったことで離れられなくなったと思ったのか、必死に食らいついていて行ったのだ。

 自己主張の激しさという意味では、結婚願望のなくなった信義に表れた性格だった。持って生まれたものが今まで表に出てこなかっただけなのか、結婚願望がなくなった時点で自分を解放したことでの想いが、自己主張に繋がって行ったのかも知れない。

 信義がここまで考えてきて気付いたのが、

――俺は相手に性格を合わせてしまうところがあるようだ――

 直子のような従順な相手に対しては、命令口調な態度をさぞかし取っていたのではないかと思っていたが、よくよく思い返してみると、命令などしたことは一度もなかった。しいて言えば、何も言わなかったのである。

 何も言わずとも、二人に共通した時間が成立した。何も言葉だけが、コミュニケーションではないと思わせる。大人になってから、

「言わないと、相手には分からない」

 という理屈に遭遇し、

――大人の方が、ややこしいな――

 と、思ったほどだった。

 ただ、それを教えられた最初の相手が和代だったというのも皮肉なもので、学生時代にも知る機会はあっただろうが、自分から、目を逸らしていたように思えた。

 直子と雰囲気が似ているので、無口なイメージを持っていて、こちらから話しかけると、和代は必ず理屈づめで返してくる。

――そんな雰囲気はなかったんだけどな――

 ここからが惚れた者の弱み、少々の性格は、目を瞑ろうと思っていた。だが、そんな気持ちは伝わるものなのか、

「そんな、上から目線で見ないでよ」

 と言われる。

 そんなつもりはないのに、言われてみて、ハッとした。

――直子に対しては、直子自身、何も言わなかったが、俺の方から上から目線で見ていたんだ――

 と思った。だから信義を嫌になったのかも知れないと思うと、彼女と自然消滅したことよりも、上から目線であったことに気付かなかったことに腹が立ったのだ。

――自然消滅だと思っていたのは、上から目線で見るから、別れた原因が見えなかったのかも知れないな――

 と感じた。

 昔のことを思い出していると、何となく睡魔を感じてきた。その時々では精神的に大変なことであったが、後になって思い出してみると冷静に思える。時系列にはやはり並ばなかったが、一つを思い出すと、さらに過去を思い出す。それによって、段階を踏んで過去を思い出していくことに、安心感のようなものを感じるのだった。


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