第3話 第3章

 確かに大人しい女の子は元から好きだったが、それがいつの頃からだったのだろうと思い返してみると、その思いは小学三年生の頃まで遡った。

 小学三年生というと、もちろん、まだ異性として女の子を意識する頃ではない。ただ、学校で一人大人しい子と気が付けばいつも一緒にいたのだ。

 彼女も、

「どうしてなのかしら?」

 と、気心が知れてから話していたが、お互いに理由は分からなかった。だが、そばにいるのだから、仲良くなれる可能性は結構高い。元々お互いに意識していなかったのだから、そばにいても違和感はないというものだ。それを意識するようになっても、違和感がないことに変わりはない。男女交際ではないが、いつの間にか仲良くなっていて、お互いの家を行き来したりすることで、家族ぐるみの仲になって行ったのである。

 彼女の名前は、直子と言った。

 直子はおかっぱが良く似合う女の子で、

「本当は好きじゃないんだけどね」

 と言っていたが、小学三年生の子供が親の意向に逆らえるわけもない。そんな彼女の気持ちも知らずに、

「おかっぱ似合うじゃない」

 などと言ってしまっては、きっと彼女は傷つくだろう。あまりまわりに気を遣うことがなかった信義も直子にだけは、気を遣っていた。それは自然と出てきたもので、本人の意識の外のことだった。

 そんな気持ちが直子に通じたのだろう。直子とは結構長く一緒にいた。二年くらいは毎日一緒だっただろう。

 直子は信義に対しても、表情をあまり変えることはなかった。よほど人には気持ちを見せてはいけないという意識が強いのか、それを意識させるだけの何かが幼少時代にあったのではないかと今となっては感じていた。

 直子と一緒にいると、自然と気持ちが落ち着いてきた。それ以外の時間は、何か不安が募ってしまって、一人でいても、他の人といてもそれは変わらなかった。逆に誰かといる方が余計に不安が募る。きっと相手のことと自分を比較してしまうからであろう。

――まわりの人は自分よりも優れているんだ――

 という劣等感を常に抱いていた。ある意味劣等感の塊だった。

 劣等感という言葉を知らなかった時は、自分だけではなく、誰もが同じことを思っていると感じていた。

――自分だけではないんだ――

 と思えば、普通は安心するものだが、それは自分でいろいろ納得できる力がついてきてからのことである。まだ小学三年生だった信義にそこまで分かるはずもない。信義は、言葉は知らなくても、感じることは結構あった。だが、理屈が分からないために、感受性だけが強くなり、納得できない子供だった。それが、次第に性格の屈折を生むようになってしまったのだ。

 子供の頃から、

――自分で納得できないことは、信じられない――

 という思いが強く、他の人は理解できていることでも、自分が理解できないということで、余計に劣等感が募ってくる。

 そこに、堂々巡りが繰り返され、抜けられなくなってしまったのだが、そのこともさすがに理解できないでいた。

 そんな時にそばにいたのが、直子だった。

 直子は信義のことを分かってくれているようだったが、そのことで信義に安心感が宿ることはなかった。ただ、不安感が募ってくることがなくなったことで、

――不安の進行――

 は抑えることができたのだ。

 信義にとって直子の存在はそれ以上でもそれ以下でもなかったが、直子がどのように思っていたのか、想像することは難しかった。

 普段から喋らない直子は、従順だった。自分にだけ従順な女の子というのは、まるで王様にでもなったようで嬉しかった。別に命令するわけではないが、直子になら何かを指示しても、嫌がらずにするだろう。なぜ命令じみたことをしなかったのか分からないが、嫌われるのではないかと心の底では思っていたのかも知れない。

 ただ、そんな中で直子が時々悲しそうな顔をすることがあった。いつも同じ表情なので、直子の表情は、文字通り喜怒哀楽と無表情の五種類しかないのではないかと思ったこともあった。

 とはいえ、怒ったところは見たことがないので四種類だ。それもほとんどが無表情なので、感情から出る直子の表情が、まさしくレアであった。

 直子が自分のそばにいないという想像をしたことがない。ずっと直子が自分のそばにいることが当然で、次第に意識をすることもなくなっていった。

――まるで空気のような存在――

 後から思えば、そう感じられたのだが、直子がそばにいることが当然だと思うようになってから、直子に対して感情がなくなってきた。

 それから少しして直子が自分のそばから消えた。直子の立ち位置が決まっていて、そこから少しでもずれれば、信義にとって直子は、

――存在しない相手――

 になってしまっていた。

 お互いに感情をぶつけることはない。それだけにそばにいなくなっても、寂しいという思いも、辛いという思いもなかった。ただ、

――風通しがよくなった――

 という程度で、違和感はあったが、感情に出るほどではなかった。その頃の信義は、直子だけではなく、他のことに対しても無関心だった。勉強も嫌いだったし、友達と遊ぶと言っても、目立たないように端の方にいるだけだ。何事にも無関心でいることは「物ぐさ」なことであり、しばらくの間、

――自分は物ぐさなんだ――

 という意識を持っていた。

 それが悪いことだという意識はなかった。

 確かに物ぐさであれば、楽である。しかも悪いことだという意識がないのだから、人に憚ることはないと思っていた。

 まわりは、そんな信義を変わり者だと思っていた。信義にはそれでよかった。何しろまわりに憚ることがないので、楽だからである。

 だが、いつの間にか、楽な方に進まなくなっていた。物ぐさな頃は楽ではあったが、頭の中では絶えず何かを考えていた。何を考えていたかは、その時々で違ったであろうが、しょせん子供の考えること、身体と同じで限界も狭い。それだけに、いつも同じようなことを考えていたに違いない。

 直子とは付き合っていたわけではないので、別れたという表現は当てはまらない。しかも、ハッキリと別れを告げたわけではないので、ある意味、自然消滅だった。最初から深く気にしていなかった直子なので、そばにいることがなくなっても、存在感は今までと変わりない。

 だが、それが急に直子のことが頭から離れなくなったのが、中学に入ってからだった。どうしてなのか分からない。中学に入っても相変わらずの二人だったが、急に気になり出したのだ。

 ただ、それは中学生の直子ではない。自分のそばにいた頃の直子だった。

 ちょうどその頃から、無性に身体がムズムズする感覚に襲われていた。今から思えば、期待と不安が入り混じっていたのだ。精神的な不安定をもたらしていたのは、肉体的に成長期を迎えたことで、

――精神が肉体に追いついていないんだ――

 と思っていた。

 だが、それだけではないことはすぐに分かった。それは異性を気にするようになったからだ。肉体の成長は精神的な面での異性への目覚めと綿密に結びついている。その頃はそこまでハッキリと分からなかったが、顔にできたニキビを見ていると、身体から知らず知らずに吹き出してくるものがあることを意識させられた。

 その時、再度直子に声を掛けるようなことはしなかった。信義が直子を意識したと言っても、中学生の直子ではない。小学生の時の直子だからだ。

 どうしてそんな気持ちになるのか分からなかったが、異性が気になり始めて、好きになる人を考えてみると、次第に分かってきたのだ。

――俺にとっての女性の好みは、小学生時代の直子なんだ――

 そう思うと、初めて小学生の頃に自然消滅したことを後悔した。

――子供心に冷めていたのかな?

 と思ったが、少なくとも成長期に迎えた精神的な不安定さと比べると、小学生時代の方が、まだ冷静だった。

 中学時代の信義は冷静でなかったわけではないのだろうが、何かあれば、それがいいことであれ、悪いことであれ、すべてを吸収するようになっていた。納得できないことを受け入れなかった小学生時代とは明らかに違う。元々納得できないことを受け入れないタイプの信義にとって、納得できないことまでも吸収してしまう中学時代が嫌だった。

 信義にとっての女性の好みの原点が、自分でも意識できるようになると、好きになる相手は自ずと決まってくる。きっと、一目惚れをすることがなかったのは、自分の子のみおw具体的に映像として頭の中に浮かべることができたからだろう。一般的に面食いだと言われる人たちも、信義と同じように、目を瞑れば自分の理想の女性が映像となって現れているのかも知れない。

 信義にとって直子は、

――初恋の相手――

 として頭の中に残った。しかし、異性に興味を持つ前だったので、恋愛感情という甘い感覚があったわけではない。だからこそ、自分の好きなタイプとして頭の中に残ったのだ。

 自分の好きなタイプに対して、感情が籠っていたわけではない。好きになる人が自然と小学生の頃の直子のようなタイプの女の子であれば、それは無意識であって、自分から惚れたという気分にならないのだろう。

――本当は一目惚れなのかも知れないのに、それを意識できないんだ――

 と、信義は感じていた。

 そんな信義が、

――初めてかも知れない――

 と思える一目惚れをした。それが和代だったのである。

 和代に一目惚れしたことによって、それまでおぼろげにしか思い出せなかった小学生の頃が頭によみがえってきた。

 ただ、いろいろ考えていると、一目惚れが初めてではないと思えたことは、少しショックでもあった。元々異性に興味を持つようになったのも、まわりに彼女がいる人が増えてきて、その楽しそうで、上から目線の表情に嫉妬していたからだ。

 出遅れた感覚は、相手の上から目線を羨ましいと思うようになる。

 相手に上から見られて悔しいというよりも、自分に彼女がいないことで上から目線を浴びせられるということが悔しかったのだ。純粋に彼女がほしいと思ったわけではなく、上から目線を今まで自分にした相手に対し、仕返ししてやりたかったからだった。

 浅はかな考えであったが、他の人も言わないだけで、同じように考えていた人もいるのではないかと思えた。中学時代は、誰もがまわりの目を気にしていて、決して自分の考えを悟られないようにしようとする意志をあからさまに感じたのだ。

 和代に対しては、まったく違った感情だった。

 きっと和代に一目惚れをした一番の理由が、自分でもすぐに分かったからなのかも知れない。

――和代には、他の女性にはない何か憂いを感じる――

 というものだった。

 それが、小学生時代の直子のイメージに合致したというのは偶然ではないだろう。直子に対しても、異性として意識はしていなかったが。

――他の女の子とは違う――

 という感覚が第一印象だったからだ。

 もっとも、小学生の頃は、女の子を違った目で見ていたわけではない。まわりが女の子として、男の子と違った目で見るから、

――女の子は俺

とは違うんだ――

 という意識を持っていただけだった。

 和代の返事がハッキリしないまま、二人は付き合い続けた。ただ、和代を抱くことで、言葉ではなく、身体で答えを返してもらったような気がした。

――告白してきた相手に身体を許すのだから、当然答えはOKだよね――

 と、信義は考えた。

 ただ、和代の態度を見ていると、次第に信義を誰かと比較しているように見えてきた。特に身体を重ねている時など、その最たるもので、

「上手になった……」

 と、快感に身を委ねながら、口にしていた。

 誰かと比較されたり、上から目線で見られたりすることは、信義にとって屈辱的なことで、おおよそ耐えられるものではなかった。

――それなのに、どうして和代にだけは、屈辱を感じないのだろう?

 と考えていたが、本当は屈辱を感じていなかったわけではなく、屈辱がそのまま快感の渦に巻き込まれている状態が、耐えられないことに結びつかなかったのだ。

 和代が付き合っていた相手と別れたのは、信義が転勤になる少し前だったようだ。信義とは入れ替わりで他の支店に転勤になり、その代わりに補充されたのが、信義だったのだ。

 これは、ある意味屈辱でもあった。

 前の人とどのような付き合いだったのか分からないが。別れたすぐ後に自分と付き合うというのは、まるで残り物をいただくような気分だった。

――おさがりじゃないんだぞ――

 と自分に言い聞かせ、自分の中にある劣等感を擽った。今までであれば気分がすぐに萎えていたかも知れないが、その時の信義は、すでに和代から離れられなくなっていた。

 最初に感じた和代に対する衝撃は、失恋による寂しさを隠そうとしている雰囲気だったのかも知れない。屈辱感の代わりに、最初にそう感じてしまったことが、和代を忘れられない存在にしてしまったのだ。

 和代が以前付き合っていた男性、その人は、かなり年上だったという。

「確か、三十五歳は過ぎていたんじゃないかしら?」

 年上に憧れる女性は確かにいる。さらに、もう一つ、

「彼は離婚経験のあるバツイチのようですよ」

 と言っていたが、和代の方にも理由があった。

「私、お父さんがいないから、母子家庭なの」

 と言っていた。

 男性と付き合う時についつい相手に父親を見てしまうという。その気持ちは分からなくはない。そういう意味では、お互いに悪い気はしていなかったとは言え、年下の信義の方から、

「付き合ってほしい」

 と言われた時は、ビックリしたことだろう。今から思い出しても、目をカッと見開いて、驚愕の表情は、和代にとって意外だったことを物語っている。

「付き合うってどういうこと?」

 と、和代から言われた時、

「どういうことって?」

 と、聞いた本人も戸惑ってしまった。

「付き合ってほしいという言葉に、どういうことも何もないよ」

 と、信義は続けた。

 信義はストレートに言葉通りの答えを期待したつもりだったが、和代にはそれ以外に考えがあったようだ。確かに恋愛には先があるので、

「結婚を前提に付き合ってほしい」

 という意味もあれば、

「ハッキリとまわりに付き合っていると言えるように、お互いで気持ちを共有していたい」

 という思いもあるだろう。

 信義の気持ちは後者だったのだが、和代は前者も考えていたようだ。

 それも後で聞いたことだが、

「彼女、前に付き合っていた人と、婚約寸前まで行ったらしいわよ」

 という話だった。

 そんな相手と別れて、それほど経ってもいないのに、今さら甘い恋愛から始めるということに違和感もあったのかも知れない。

 だが、まわりからは、

「まだ若いんだから、いくらでもやり直しができるわよ。これからいっぱい恋愛することね」

 和代本人は、母子家庭だったこともあって、母親に早く孫を見せてやりたいという気持ちがあった。

 いや、それよりも彼女の親が、

「早く結婚しなさい」

 と口が酸っぱくなるほど言っていた。その理由は、親戚がうるさいというのもあった。それも母子家庭の苦しい状態を、親戚に助けてもらった恩もあるので、親戚の忠告を無視することができないという事情もあったのだ。

 そんな中で、できた恋人が、三十過ぎの、しかも離婚経験のある男性では、母親が納得するはずもない。

 会社の同僚やまわりの人も結構巻き込んだことだろう。家庭内では、ある意味修羅場もあったようだ。だから完全に別れた後の和代に対して、まわりが信義を推したというのも分からなくはなかった。

 それに呼応するように、信義も一目惚れしてしまったのだ、

――環境が整った――

 と言ってもよかったのだろう。

 もっとも、信義が和代に一目惚れをしたのが、彼女の中にある理由の分かっていなかった、

――心の中の影――

 が関わっていたというのも、皮肉なことだった。

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