第2話 第2章

 いつもであれば、相手が怯えた様子を見せたとすれば、声を掛けるのをやめたに違いない。何しろ文庫本を勢いよく閉じたのは、彼女の様子を見るためだったからに他ならなかった。

 彼女の様子を見る限り、声を掛けられる雰囲気ではない。それなのに、おもわず立ち上がったのは、今日は出会いを感じるからだった。

――立ち上がってから、声を掛けるまでの間、彼女から目を切らないようにしないといけない――

 これが声を掛けるための鉄則だった。

 もし目を切ってしまったら、その時点で、足が竦んでしまって、先に進まなくなる。進めないということは、戻ることもできない。足元が不安定なつり橋の上に取り残された気がすることだろう。前に進むしかないのだが、前に進んでも一気に通り抜けた時のような余裕はどこにもない。通り抜けるだけで、神経を使い果たしたに違いないからだ。

「そんな大げさな」

 と、人は言うだろうが、実際に席を立ちあがった時、足元がガクンと歪んで、思わずバランスを崩してしまったのを感じた。

 きっとまわりの人には分からなかったような気がする。すぐに我に返ることができたことで、自分の中だけのことだということを感じたからだ。信義にはえてしてそんなことが今までにも何度かあった。それを治すことができたのは、身体に電流が走るのを感じたからだった。

 身体に電流が走る時というのは、仕事で会議の時など、急に襲ってきた睡魔に対処するため、一生懸命に起きようとするが、なかなかうまく行かない時、起こることはあった。一生懸命に頑張ったから電流が走ったのか、それとも、睡魔が襲ってきたのも、身体のバランスを崩す現象であるとすれば、正常に戻そうとする力が働いても不思議ではない。正常に戻そうとする力が、身体に電流を走らせたのだとすれば、納得の行くことである。

 足元のバランスが崩れたのも、会議中に襲ってきた睡魔と同じなのかどうかは分からないが、一つ言えることは、それだけ身体が緊張してたということだろう。

 身体が緊張してしまうと、どこか一点に力が集中してしまい、身体の平衡感覚というバランスが崩れてしまう。そのせいでガクンとなってしまったのだろう。

 元に戻そうとすることは、すぐに分かった。電流が身体を駆け抜けることは、その時から分かっていたのだ。

 だが、言葉にすると檀家を追って考えられるだけの時間に余裕があったかのように思うだろうが、実際にはあっという間の出来事だった。席を立って、電流が走るまで、まるで電光石火のようだったのだ。

 電流が身体を駆け抜けたことで、話しかけようと思った気持ちが、一度リセットされた。リセットされたが、再度、違った形で、覚悟となって、信義の中に生まれた。

 そこから先、彼女に声を掛けるまでに感じた時間は、そこまでの電光石火のようにはいかなかった。

 普段よりも余計に時間が掛かったかのように感じるほどで、目を切らずに歩いているのに、近づいているはずが、どんどん遠ざかっていくような錯覚に陥った。

 もちろん目の錯覚なのだが、その原因は、目を切らずにじっと見ていることで、残像が目の中に残ってしまい、目が慣れてくることで、次第に残像が次第に小さくなってくるからだった。

――近づいているんだから、次第に大きく見えてくるはずだ――

 という常識を、錯覚がぶち破ったのだ。

 いつもであれば、簡単に分かることである。普段から理屈っぽいことばかり考えている信義である。その日は仕事も一段落したことで、感じる満足感と、時間が経ってきたことで次第に現在自分が置かれている環境が非常に寂しいものであることを自覚するようになったことで、複雑な心境になってきたのだろう。身体だけでなく、精神的にもバランスを崩していたのだ。

 精神のバランスが崩れた時も、元に戻そうとする意識が働くようだ。

 そんな時、信義は妄想を働かせるのであった。想像よりも、より自分中心の世界を妄想という形で頭に描く時、時として、一大戯曲ができあがることがある。ただ、残念なことに精神のバランスが元に戻ってしまうと、妄想は夢から覚めた時のように、記憶の奥に封印されてしまっているようだ。そのために、妄想が完結したのかどうか、自分でも分からない。

「ここいいですか?」

 やっとの思いで彼女の前に歩み出た。どれほどの時間が経ったのだろうか? その間に彼女も信義の様子に気付いていたに違いないが、その様子に最初と変化はなかった。

「いいですよ」

 一瞬の間があったかも知れない。だが、それは勘違いだと思えば思えてしまうほどで、信義にとって、勘違いと一瞬は紙一重であった。

 彼女の信義を見上げる顔に対し、最初に感じたのは、あどけなさであった。キョトンとした表情は、

――何が起こったのか――

 という感覚を驚きではなく、あどけなさとして表現できるのは、彼女の長所なのかも知れないと感じた。そして、信義自身、そんな女性が自分のまわりには存在せず、そんな女性を探していたのだということを、再認識した気がした。

 ただ、信義が気になってから、彼女は信義のことが気にならなかったわけではないだろう。視線は確かに感じたのだ。だが、それも目の前に誰かが来れば、席が少し離れているとはいえ、視線が向いてしまう人もいるだろう。普段なら気にしないのかも知れないが、最終電車もなくなり、ファミレスで一人文庫本を読んでいる女の子、そして、同じように文庫本を開いて読んでいる信義、同じ姿の二人が、奇しくもファミレスで対峙したのだ。

 年齢にも開きがあり、男女の違いもある。

――どこに共通点があるというのだろう?

 と思ったとしても不思議はない。

 それでも二人を単独で見ていれば、二人とも、この場にふさわしくないとは感じないところが不思議だった。

 信義にとって、この時間のファミレスは、さほど珍しいことではない。仕事で遅くなった時、ビジネスホテルを予約しているが、夕飯はファミレスに入ることもあったからだ。だが、自分と同じような年齢の人で、この時間ファミレスにいれば、浮いた存在になるのではないだろうか。自分だから意識しないだけで、きっと他の客から見れば浮いていたみていいに違いない。

 彼女の場合も、年齢的に一人でいても不思議はない。これも信義の思い込みなのだろうが、だからこそ、声を掛けてみたいと思ったと言えば、理由になるだろうか?

 彼女のあどけない表情は、信義を暖かく迎えてくれたような気がした。

 深夜のファミレスで、一人でいる二十歳前後の女の子に、中年男が声を掛けるのだ。まるで援交目的だと思われても仕方がない。援交などしていない女の子であっても、見知らぬ中年男性に声を掛けられると、一瞬であったとしても、訝しい表情になって当然ではないだろうか。

 信義は、その場に立ちすくんでいたつもりだったが、時間的にはほとんど経っていなかったようだ。彼女の前の席に鎮座すると、

「仕事で遅くなって最終電車に乗り遅れてしまったんですよ。とりあえず夕食を摂らないといけないと思って、ここに立ち寄ったんですけどね」

 と、あらかたの事情を説明した。細かいことは説明する必要はない。会話の中で徐々に話をしていけばいいのだ。

 彼女に対しても、余計なことを聞いてしまってはいけない。気を付けないことはたくさんあると思いながらも、深夜のファミレスが急に寂しくなくなった気分になった自分に満足していた。

 それは、普段なら自分の年齢の半分にも満たない女の子に声を掛けるなど、信じられないと思っていたからだ。

 しかし、それは結構難しいことだと分かっているのに、声を掛けたというのは、

――その場の勢い――

 というのもあるだろうが、それよりもその時の自分が、ハイな状態にあり、ハイな状態になっていると、案外普段から気にしてできていないことでも、できるような感じがしていた。

 それは、気持ちが大きくなっている証拠でもあっただろう。徹夜明けのハイな状態というのは、饒舌だったりする。そんな時、普段言わないようなジョークを口走ることもあったりする。今日の信義は自分にそれを感じたのだった。

「私は、大学の三年生で、近所でアルバイトをした帰りなんですよ」

 と話してくれた。

 こんな時間までアルバイトをしていて、ここで本を読んでいるということは、家が近くだということなのだろうか?

 信義は一つ危惧していたことがあった。

 ここで文庫本を読んでいるということは、ひょっとすると時間調整ではないかということだ、食事をしているわけではなく、頼んだものはドリンクバーだけである。そして、時間調整というのは、人との待ち合わせではないかと思えた。

 待ち合わせであれば、相手が女の子でも男であっても、少し気まずい気がした。

 男であれば当然のことだが、相手が女の子であっても、余計に気まずい気がした。待ち合わせている女の子が、彼女のようにあどけない雰囲気であればいいのだが、それでも少し気まずい気がする。

「何、このおやじ。私のダチに気安く声掛けてんじゃないわよ」

 と、大きな声で罵声を浴びせられるかも知れない。ヒステリックな声で罵声を浴びれば、一気に精神的に沈んでしまい、精神破壊に繋がってしまうのではないかと思った。もし罵声を上げられなかったとしても、罵声に負けないほどの視線を浴びせられたら、どうすればいいというのだろう?

 きっとこちらも精神破壊に繋がってしまうかも知れない。そう思うと、背筋にゾッとしたものを感じた。

「あの、誰かと待ち合わせだったんですか?」

 聞いてみるしかなかった。それで待ち合わせだと言われれば、このままここを出ればいいだけだったからだ。

「いえ、待ち合わせなどしていませんよ。私、結構バイトの帰りにここで本を読んでいくこと多いんです。すぐに帰っても眠れるわけではないので、ちょっと落ち着いてから帰るようにしているんです」

「でも、すべてを済ませてから、布団に入って本を読んだ方がいいと思うんだけど、違うかい?」

「そんなことしたら、すぐに眠ってしまうじゃないですか。私は読みたい本をバイトの後で読むのが日課なんですよ。睡眠促進のために本を読んでいるわけではありませんよ」

 と、笑顔で答えてくれた。

 口調は興奮気味だが、表情は穏やかだ。これが彼女の性格なのだろう。

――ひょっとしたら、彼女には、付き合っている人はいないのかも知れないな――

 と、勝手に想像した。

 自分くらいの年齢になれば分かってるのだが、同い年の男には、彼女のように口調と表情が違う女性を相手にできるとは思えない。

「私は、石田信義と言います。よろしくね」

「私は、山田康子です。こちらこそ」

 お互いにニッコリ笑って、会釈した。康子の表情にはあどけなさの中に、大人の魅力も感じられた。それは、信義の年齢になったから分かることで、もし自分が二十歳くらいの男の子だったら、

――きっと康子の大人の魅力に気付かなかっただろう――

 という思いと、さっきの

――興奮したような口調と、穏やかな表情のアンバランスには、付き合いきれないと感じるかも知れないな――

 と思った。

 しかし、信義の場合、付き合いきれないと思いながら、最初は付き合おうと努力する。それでも付き合い始めるまでには、紆余曲折を繰り返すことになるのだが、次第に自分が破局の道に足を踏み入れてくることにまったく気付かない。

 付き合い始める前には危惧があるのに、付き合い始めるとまったく危惧がなくなるのは。それだけ自分に自信がないことと、執着心が強いからなのかも知れない。

 付き合い始めると、

――別れたくない――

 という思いが根底にあって、表面に出ているのは、都合のいいことばかりだ。

――付き合い始めたら、もう憂いなんてないんだ――

 と感じる。

 それはまるで、

――付き合い始めたということは彼女の気持ちは我が手中。もうこっちのものだ――

 という考えに傾いてしまう。いくら根底に別れたくないという思いがあっても、一度有頂天になってしまうと、麻薬のように悪いことを考える意志がマヒしてしまうのだろう。

 だが、もし自分に自信がある人であれば、

――わざわざ不安がある人と付き合わなくても、もっといい人が現れるに違いない――

 と感じるはずだからである。

 しかも、その気持ちに執着心が入ってしまうと、一旦付き合おうと思った相手を付き合わずに諦めることで、後から後悔してしまうことを極端に嫌がっている自分を感じることが執着心であることを忘れさせるほどの効力に繋がる。

 康子と面と向かっていると、いろいろなことを想像していた。それは主に自分の性格について顧みることであったが、今まで付き合った女性を目の前にして、こんなことを考えたことのなかったことを感じていた。

――若かった頃と今とでは、どこが違っているんだろう?

 若かった頃というと、自分が康子くらいの頃、いや、就職してからのことだったので、すでに二十二歳は過ぎていただろうか。

 まだ、一年目の研修時代をやっと超えて、本採用になってからのことだった。

 あの頃の信義は、ある意味で有頂天だった。大学時代にさほどいい成績ではなかったが、大企業とはいかないまでも、地元で大手の会社に就職することができた。不安も大きかったが、同じくらいに期待もあった。

 不安が八以上あれば、プレッシャーに押し潰されていたかも知れないが、不安と期待が半々だったことで、精神的に不安定な時期もあったが、それを乗り越えると、後は順調だった。

 もちろん、順風満帆というわけではなかったが、それでも仕事が順調だったことが一番だった。

 だが、二年目に入った時、隣の支店に転勤を言い渡され、新天地に赴いた。まだまだ転勤に違和感はなく、逆に新しいところに興味を抱く方が大きかった。

 今までの支店よりは少し田舎にはなるが、仕事をこなす上では関係のないことだった。

 そこの支店で、信義は一つの出会いをした。

 相手は、信義よりも二つ年上であった。全員で事務員は三人いたが、他の二人に比べて引っ込み思案に見えた彼女は魅力的だった。要するに、一目惚れをしたのだった。

 それまで信義は一目惚れなどしたことがなかった。好きになったとしても、徐々に気になっていく方だったし、まずは、自分に合う相手かどうかを考えてからになるので、どうしても一目惚れというわけにはいかなかったのだ。

 彼女に対しては、最初からピンとくるものがあった。しかも、本人は意識していなかったが、彼女に対しての、自分が発散しているオーラがすごいものだったらしい。

 彼女の名前は、安田和代と言ったが、

「石田君は、安田さんのことが気になるんでしょう?」

 と、パートのおばさんたちから声を掛けられる。

 それも一人だけなら、

「いや、そんなことはないですよ」

 と、照れ笑いでごまかすが、数人から言われてしまえば、もはや誤魔化しても仕方が合い。

「そうですね」

 と表情は、苦虫を噛み潰したような表情になっていたかも知れないが、素直に認めていた。

 パートさんは、自分の目に間違いがなかったことで有頂天になるのだろう。誰もが世話を焼いてくれようとする。ありがたいことで、正直、信義もその好意に甘えようと思ったのだ。

 もちろん、自分だけにではなく、和代に対しても声を掛けていた。

「和代ちゃんは、石田君のこと、どう思っているの?」

 信義よりも長い付き合いである和代には、信義に対している時より気さくに聞けたに違いない。突っ込んだ聞かれ方をした和代もまんざらでもないようだ。

「いい人だと思っていますよ」

 と、言葉は穏やかだが、目はマジだったようだ。

 遊園地の招待券をくれたりして、デートのお膳立てを整えてくれたのは、本当に嬉しいことだった。それだけ、自分も会社の人から大切にされているという思いが強かったからだ。

 それからしばらくして、社員旅行があった。

 信義は、その時に思い切って、交際を申し込もうと思ったのだ。

 二人が付き合っているというのは、自他ともに認めるものだったが、それはまわりがお膳立てをしてくれたことで成立したものだった。実際に付き合ってほしいという告白があったわけではない。

 本当はそこまで必要がなかったのかも知れない。和代にしても、そこまで求めていなかったのではないかと思うが、信義自身が納得いかなかった。

 信義は別にケジメを重んじるわけではないが、本当に好きな人に対しては、そこまでする必要があるのではないかと、和代と知り合ってから、初めて感じたのだった。

「和代さん、俺たちは付き合っているって思っているんだけど、その認識で間違いないかい?」

 二人きりになれる時間を設けることができた信義は、おもむろに切り出した。

「え、ええ、その認識で間違いないと思っていますよ」

 和代も少しうろたえていた。それは信義の告白の緊張感が伝わったからだろうか。まさか、この期に及んで別れ話をされるのではないかという危惧があるわけではないだろう。緊張感というのは相手に伝わるもので、考えたら、まったく意識していなかった和代への想いが、いとも簡単にパートのおばさんたちに看破されたのだ。信義の感情はストレートに態度に出るのかも知れない。

「でも、それは、まわりの人がお膳立てしてくれたからであって、俺からの告白ではなかったですよね?」

 と、言うと、和代の表情に少し余裕が戻ってきたようだ。少し暗かった表情に影が薄れた気がしたからだった。

 だが、まだ少し影が残っている。他の人なら分からないような影かも知れないが、信義は、

――俺だから分かるんだ――

 と感じていた。

「ええ、そうですね」

 と、彼女の少し上ずった声は変わらなかった。

「そこで、改めて、和代さんに聞きたいのですが、僕と正式にお付き合いしていただけますか?」

 というと、彼女の顔がパッと明るくなったかと思うと、すぐにトーンダウンしてくるのを感じた。

――どうして、ここでトーダウンするんだ?

 彼女が何か頑なになっているように思えてきた。それは彼女が何かに迷いを生じているからだと思ったが、その時はその原因が信義自身にあることだと思って疑いを持つことはなかった。

「あの、少し、そのお返事は待ってもらえないですか?」

 トーンダウンの原因は、この期に及んでの戸惑いだった。

「あ、別に構いませんけど」

 確かにトーンダウンは感じたが、まさかの返事の保留に今度は信義が戸惑ってしまった。

――余計な告白をしてしまったのだろうか?

 告白などすることなく、このまま自然に任せて付き合っていけば、彼女も自然に自分をの付き合いを受け入れてくれていたはずだという自信はあった。

 しかし、彼女に対してケジメを考えてしまった自分が口惜しいと思ったが、それは、ケジメという意味よりも、不安の払拭でもあった。

――安心して付き合って行くには、少々の不安であっても、払拭しておく必要があるんだ――

 と思っていた。

 和代に対しての不安は、他ならぬ、お膳立てをしてくれたパートさんから来ていた。

――どうも、皆、和代と俺をくっつけようとしている――

 思い過ごしかも知れないが、その行動に疑いを持てば、後は不安に繋がってくる。

――おばさんたちは、俺のことは知らなくても、和代のことは前から知っている。今回のお膳立ては。俺に対してというよりも、和代に対しての想いが強いはずだ――

 と思ったのだ。

 それは、

――強引にでも、俺たちをくっつけようとしているのではないか?

 そこに何があるのか、少し予感めいたものがあった。確かめるには、おばさんたちに聞いても答えは返ってこないだろう。答えが返ってくるくらいなら、最初から本当のことを教えてくれるはずだからだ。

 そうなれば、和代本人に聞くしかない。それが、社員旅行での告白に繋がったのだ。

 和代がトーンダウンすることよりも、

――もし断られたら――

 という思いもないではなかった。躊躇されても、断られたのと同じショックを受けるに違いないとも感じていた。それは、信義の不安が的中したことを意味しているからであった。

――彼女には、以前に付き合っていた人がいて、まだその人のことを忘れられないんだ――

 という思いである。

 それは、誰もが知っていることで、ひょっとすると、皆を巻き込むような恋愛だったのかも知れない。それを皆知っているから、

――新しい彼氏を作って、過去のことを忘れさせてあげたい――

 と皆が思っているのだろうと感じた。それが本当の親切心からなのかどうかは、まだ二十歳そこそこの信義には、ハッキリと分からなかったのだ。

 信義は、ことの真為を誰かに確認しようと思えば簡単にできたが、それをしようと思わなかなった。自分から付き合ってほしいと告白したのだから、和代が、

「少し待ってほしい」

 と言っているのだから、それに従うのが礼儀である。

 そもそも人に聞いたとしても、そこに自分の考えや偏見が含まれないとは限らない。余計なことを吹き込まれて、却って混乱してしまっては、元も子もなくなるというものだ。

 それよりも、信義は、

――どうして俺は、和代のことが気になったのだろう?

 というところから思い返していた。

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