第6話「外側の世界」
「はっ……………………」
突然、クラヴィーの体が震えた。
本当に小さく揺れただけだった。
本来気付く筈も無い違和感だが、気付いてしまった。
クラヴィーがピアノから手を離してから暫時。
何か、この世界がガラッと変態したような。
そんな違和感に苛まれた。
「人間の好奇心とは、とても奇矯だ。そして、とても興味深い」
明らかに毛質が違った。
クラヴィーじゃ無い。
「そうだ、思い出した」
こんなの、
こんなの。
「私はこうだった」
今まで何ヶ月と過ごして来た。
だから、私はクラヴィーを知っている。
「どうやら上手く事は運んだようだな」
こんな、クラヴィーの皮を被った偽物など、知らない。
「記憶を失って尚、私の思う通りに動いてくれたようだ」
誰?
「貴方は、誰?」
そう訊くと、目の前の誰かは、少し嘲った表情で言った。
「何言ってるの、正真正銘クラヴィーだよ」
「いいや…………」
「……って言っても認められないのは解るよ」
その言葉に、私は少し驚いた。
そんな事が言える人なのか、と。
人かはわからないけど。
「つまり、君が今まで見ていたクラヴィーは、本質では無かったって事さ。今クラヴィーは、夢が成就した事がトリガーに、可逆したって訳」
「……つまり、私が今まで見て来たクラヴィーは、偽物だったって事?」
「いいや、クラヴィーは彼一人だ」
「は?」
矛盾が連続する。
「私はクラヴィーでは無い。クラヴィーは、この体の、ついさっき失われた人格。私の本質は、私なんだよ」
つまりは、あの体に“私”が居たけど、“私”の記憶は奪われて、そこにクラヴィーという人格が宿った、と。
その後ピアノを弾いた事がきっかけで記憶が戻り、クラヴィーは消滅した。
そしてそこに、“私”がすげ替わった、と。
「一つ違うな。私の記憶は奪われたんじゃ無い。私自身で
「…………何故?」
「君と出逢う為さ」
は?
私と出逢う為に、記憶を消したって事?
「…………君は、此処が何処か解るかい?」
突然“私”が訊いて来た。
「さぁ」
「えぇ? 何で。君、昔はあんなに行きたがってたのに」
私が昔行きたがっていた場所?
「小さな世界の外側だよ」
その言葉を聞いた時、私の頭の中に、一つの突っかかりが出来た。
「全く、あの世界の住民はつまらない。訳の分からない壁に阻まれていれば、そこから出たくもなるだろうに。何故そんなに面白く無い安住な生活を望むのかね。ずっと私は訝り続けた」
“私”は、椅子から立ち上がった。
「そんな時、君が見えた。嗚呼、私が欲しかったのはこれだ。心の底から感動したよ。涙が出た程だ。だがそんな君も、歳を重ねるごとにしょうもなくなった。だが人間個々の心の本質とは、そう易々と失われる物ではない」
私は、壁の外に行きたがっていたのか?
「そうだ。だから外に連れ出したら、何か起こるかなと思って連れ出したのだが、好奇心すら忘れたか」
私は、忘れているのか?
いや、何もかもを忘れ、何も忘れていない。
「…………折角登って来たんだ。景色でも眺めたらどうだ?」
“私”がそう言うので、立ち上がり、地平線に目を向けた。
丁度日の出。
曲線を描いた地平線が、暁に染められた。
橙色や朱色に染められた眼下の樹々は、夜明けを称えるかのように、葉を揺らして太陽を迎えた。
不意に、涙が零れた。
「あれ? あれ?」
一度壊れた涙腺は、塞ぐ事を知らなかった。
何故がずっと、涙が零れ落ちていった。
「やはり、心の深層には、残っていたのだ」
そう言いながら“私”は私の隣に立った。
「良い景色だ」
「うん…………………………」
私は、泣き崩れてしまった。
嗚呼、そうだ。
そうだった。
子供の時からずっと。
この景色を見たくて生きていたんだ。
いつかあの壁を壊して。
外に出て。
冒険して。
この景色を見たかったのだ。
何て素晴らしい景色なのだろう。
嗚呼、私は生きているのだ。
あの樹々と同じ様に、生きているのだ。
生とは何と素晴らしいのであろう。
自然とは何て素晴らしいのであろう。
私の夢は間違っていなかった。
これで良かった。
嬉しい。
心の底から、言葉にならない感情が渦巻き、溜め息と共に流れていった。
夢が叶った。
物心がついた頃からの夢が。
今、やっと叶った。
「やはり好奇心とは美しい」
ああ、きっとそうだ。
好奇心は、素晴らしい。
ありがとう。
お陰で、生き甲斐を見出せた。
ありがとう。
お陰で、世界の美しさを知る事が出来た。
「貴方は誰なの?」
涙も止まり、日も完全に上り切った。
そう言えば未だ訊いていないと思って、別れ際、訊いてみた。
クラヴィーでは無い誰か。
なら誰?
「私ですか?」
「強いて言うなら…………」
「小さな世界……ですかね」
気付くと、いつものベッドの上に居た。
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