第16話 そして魔法が解ける時

 目が覚めた時、懐かしい磯の香りがした。だから海の近くにいるのだと思ったが、なるほど、船の上だったか。

 ならば、その磯の香りが強くなる方へと進めば、甲板へと出られるハズだ。

 人間には分からないその僅かな香りを辿りながら、メリアはリオを連れて先へと進む。

 途中、何度か人間と擦れ違ったが、物陰に隠れる事によって難を逃れて来た。暗い船内で助かった。

(このまま上手く逃げられそうね。何の問題もなく、うん、順調に)

 順調なのは良い事だ。確実にここから出る事が出来る。

 しかしここから出ると言う事は、リオとの別れを意味する。つまり順調に逃げられれば、それだけ早くその時が来てしまうのだ。

 だからいけない事だとは分かっていても、メリアはどうしても思ってしまう。ちょっとくらい妨害が入れば良いのに、と。

(いけない、いけない。今は逃げる事に集中しなくっちゃ)

 磯の香りが強くなって来ている。甲板はもうそこだろう。おそらくそこに見える扉を開ければもう……。

 そう確信したメリアは、後ろにいるリオを笑顔で振り返った。

「リオ、甲板はすぐそこよ。もうすぐ逃げられるわ」

 そうか、良かったぜ。そう言って、安心した笑みを向けてくれると思っていたのに。

 しかしその予想に反して、リオは眉間にこれでもかと言うくらいの皺を寄せていた。

「なあ、メリア」

「うん、何?」

 その扉へと向かいながら、メリアは首を傾げる。どうしたのだろう。何か気になる事でもあるのだろうか。

「お前さ……」

 しかし、それをリオが口にしようとした時だった。

「おい、ガキどもが逃げたぞ!」

「ッ!」

 すぐ近くで、そう叫ぶ男の声が聞こえた。

「船内のどこかにいるハズだ! 捜し出してとっ捕まえろ!」

 妨害が入れば良いのになんて思ってごめんなさい、あれ嘘です、なんて謝ったところでもう遅い。メリアの願いが届いたのか否か、とにかく逃げた事が男達にバレてしまったのだから。

 バタバタと、誰かがこちらに走って来る音がする。マズイ、どこかに身を隠さなくては。

「メリア、こっちだ!」

「わっ!」

 拒む暇もなく、グイっとリオに腕を引かれる。

 人が一人隠れられるくらいの小さな物陰。そこに二人で隠れるべく、リオはメリアの体をその腕に抱き締めながら、息を潜め、身を隠した。

「誰だよ、あそこの部屋の鍵閉めなかったヤツ。おかげで面倒な事になったじゃねぇか」

「ごめーん」

「お前かよッ!」

 ガチャンと甲板の扉が開き、二人の男が入って来る。

 カツカツと足音を立てながら、男達が徐々に近付いて来るのを感じ取れば、リオはその緊張感からか、更にギュッと強くメリアを抱き締めた。

(!!!)

 こんな時、普通はギュッと強く目を閉じながら、リオの腕の中で「見つかりませんように!」と必死に祈るところなのだろう。しかし、恋する乙女にとってはそれどころではない。

 トクトクと耳元で聞こえる彼の鼓動。髪に掛かる彼の吐息。背中にしっかりと回された彼の両腕。

 ダメだ。違う事で頭がパニックだ。

(もしかして私の心臓の音で見付かっちゃうんじゃないかしら?)

 ドキドキと煩く鳴る自身の心臓の音に、メリアはリオの腕の中で狼狽える。これで見付かったらリオに何と言って謝れば良いのだろうか。

 しかしそんなメリアの心臓音に気付く事もなく、男達は二人が隠れる物陰を通り過ぎ、そのままどこか別の場所へと行ってしまった。

「……良かった、見付かんなかったみてぇだな」

 ホッと安堵の息を吐きながら、ようやくリオがメリアの体を解放する。

 しかしそれでも緊張のあまり、メリアはその場に蹲ったまま動く事が出来なかった。

「大丈夫か、メリア?」

「ご、ごめん、ちょっとまだドキドキが止まんなくって……」

「ああ、オレもオレも。すげードキドキしたぜ」

 たぶんメリアのドキドキと、リオのドキドキは種類が違うのだろうが。まあいいか。

「とにかく今の内に甲板に行こう。またいつ誰が来るとも分からないしな」

「あ、う、うん、そうね」

 そう促すリオに、メリアの表情が僅かに強張る。

 甲板に出たら、リオを抱えて海に飛び込んで脱出。人魚の姿に戻り、リオを岸まで連れて行く。そしてメリアの正体に驚くリオをその場に残し、海に帰る。

 それでおしまい。全てが終了する。

(今はまだ、こんなに近くにいるのにね)

 さっきまで彼の腕の中にいたのに。その心臓の音が聞こえるくらい、近くにいたのに。未だってホラ、手を伸ばせばすぐ届く距離にいるのに。

 でもその手は、もうすぐ届かなくなる。

(リオと私は住む世界が違うのよ。仕方ないわ)

 苦しい、寂しい、切ない。そう訴える心に蓋をして、メリアは努めて明るく微笑む。

 リオの言う通り、いつまでもここにはいられない。自分達は見付かってしまったのだ。一刻も早くこの船から脱出しなくては。

「そうね、急がなくっちゃね。行こう、リオ。早く帰らないとミナスも心配するわ」

 しかし、そう笑って立ち上がろうとした時だった。

「メリア」

 その低い声が、彼女の動きを制した。

「お前、さっきから何を隠しているんだ?」

「え……?」

 その指摘に、メリアの表情が強張った。

「この船に来てから、何かお前、様子がおかしいよな。最初はアイツらに捕まって怯えているのかと思ったけど……でも何か違うみたいだ」

「え、えっと……」

「嘘、とは違うよな。お前、さっきから何かを隠そうとしていないか?」

「あ、えっと……」

 じっと真剣な眼差しを向けられ、メリアは視線を彷徨わせる。まったく、出会った時もそうだったが……リオって他人の事、本当によく見ているんだな。

「あ、あれじゃないかな?」

 バレないようにニッコリと笑う。

 ただでさえ、近付くリオとの別れが切なくて泣き出しそうなのに。それなのにこうやって隠そうとしている笑顔の裏側さえをも探って来るなんて。

 何て彼は、残酷な人間なのだろうか。

「私が本当にリオを抱えて海を泳げるのかって、不安になっているんじゃない? だから私が隠し事をしているように見えるのよ」

「……」

「そんなに睨まなくても大丈夫よ。心配しないで。私がちゃんと、リオを岸まで送り届けてあげるから」

「そう、か……」

 ポツリと、リオが呟く。

 そうか、オレの勘違いか。じゃあ行こうぜ、メリア。早くここから脱出しよう。

 そう言って笑ってくれる事を期待していたのに。

 それなのに一度瞳を伏せたリオは、その真剣な瞳を、再度メリアへと向け直した。

「分かったよ。じゃあメリア、ちゃんと約束してくれ。オレをちゃんと、城まで送り届けてくれるって」

「っ!」

 彼の赤い瞳が、真っ直ぐにメリアを捉える。

 その守る事が出来ない約束に、メリアの瞳が動揺に揺らいだ。

「何でそんな悲しそうな目をするんだよ? なあ、送り届けてくれるんだろ? 岸までじゃなくって、城まで、さ」

「そ、それは……」

 それは出来ない。人魚に戻らなければならないメリアに出来るのは、リオを岸に連れて行くところまでだ。魔法が解け、人魚に戻るメリアには、城に行く事はもう出来ない。

「……」

 きっとリオは、『メリアは城には帰れない』事を確信している。だからここで咄嗟に嘘を吐いたとしても、おそらくそれは、すぐに彼に見抜かれてしまうだろう。

「メリア、お前……どうやってオレを岸まで連れて行くつもりなんだ?」

「……」

 出会った時から最後まで。彼は本当に私の事をよく見てくれて……そして簡単に心の中まで覗きこんでしまう。今だって隠した真実になど気付かずに、表面上の嘘に騙されてくれれば良かったのに。それなのにこうも簡単に心の中に入って来てしまうなんて。

 何て残酷な人なのだろうか。

(でも、そんな残酷なところも彼の魅力の一つだから。だから私は、そんなところも好きだったんだ)

 彼には嘘も偽りも通じない。嘘が通じないのであれば、ここはもう本当の事を言うしかない。

 せっかく心の奥底に隠していたのに。でもそれを無理矢理引っ張り出そうとしたのはリオ本人なんだ。だったら最後にちょっとだけ、責任を取って聞いてもらおう。

 私達は人間と人魚だけれど。でも心に隠した言葉を伝えるだけなら、きっと許してもらえるだろうから。

「あのね、リオ」

 その表情に心からの笑みを浮かべると、メリアは優しく、リオの真剣な瞳を見つめ返した。

「私ね、リオに会えてとっても良かった」

「メリア?」

 その言葉に、リオの瞳が不安に揺れる。

 しかしそれでも気にする事なく、メリアは微笑みながら別れの言葉を告げた。

「短い時間だったけど、リオといられて楽しかった。幸せな時間を本当にありがとう」

 それは紛れもないメリアの本心。嘘、偽りのない彼女の本音。

 きっとそれは、本当の言葉としてリオにも届いただろう。不安そうに瞳を揺らすリオにもう一度微笑んでから、メリアはゆっくりと立ち上がった。

「行こう、リオ。もう帰らなくっちゃ」

 リオは陸へ、メリアは海へ。それぞれの住む世界に帰る時間だ。

「な、何でだよ、メリア。何でそんな、もうお別れみたいな言い方するんだよ?」

 納得出来ないと訴えるリオの声に構わず、メリアは彼に背を向ける。

 もう決めたのだ。リオの前で本当の姿を晒す事。そして彼を無事に海岸まで送り届け、そのまま振り返らずに海に帰る事を。

 だからメリアはリオの声を背に、甲板へと向かう。

 しかし、そこに続く扉に手を掛けようとした時だった。

 ガチャリと、その扉が勝手に引き開けられたのは。

「え?」

「あ?」

 扉の向こうから現れた男の姿を、メリアはポカンと見つめる。

 男もまた、扉の向こうにメリアがいるとは思っていなかったようで、ポカンと目を丸くしたまま彼女を見つめていた。

「……」

 突然現れた互いの姿に、ポカンとしたまま固まる両者であったが、程なくして、二人はほぼ同時に我に返った。

「い、いたぞ、捕まえ……」

「わああああっ!」

「ぐふっ!」

 咄嗟に繰り出された、メリアの拳。ミナスの腹に痣を残したそれが男の腹に決まれば、彼は呻き声を上げながらその場に蹲ってしまった。

「何だ、今の声は?」

「おい、アイツら逃げ出したガキどもじゃないか?」

(ヤバイ!)

 声を聞き付け、ガヤガヤと周りが騒がしくなる。

 見付かってしまった以上、モタモタしている暇はない。

 メリアは急ぐよう、後ろにいるリオを促した。

「走って、リオ!」

「わ、分かった!」

 メリアの言葉の意味を追求したいのは山々であるが、今は逃げる方が先だと判断してくれたのだろう。大きく頷いたリオとともに、メリアは蹲る男を飛び越えて、甲板へと走る。

 甲板に出れば海はすぐそこだ。あとは海に飛び込めば良いだけ。

「いたぞ、アイツらだ!」

「逃がすな、捕まえろ!」

 しかし、甲板とて無人と言うわけではない。しかも運の悪い事に、先程の男の声を聞き付けた仲間達があちこちから集まって来ている。

「くっ!」

 あと一歩だったと言うのに。海を目の前にし、二人は数人の男達に囲まれてしまった。

(もう少しだったのに……っ!)

 取り囲む男達の向こうに見える海を見つめ、メリアは悔しそうに唇を噛む。

 するとその前方に、他の男達よりも些か体格の良い、いかにもリーダー格の男が姿を現した。

「王子様が逃げ出したと聞いていたんだが、まさかこんなところに逃げて来るとはな。甲板に出てどうするつもりだったんだ? まさか泳いで逃げるつもりだったんじゃないだろうな?」

 ハッとリーダー格の男がバカにするように鼻を鳴らせば、周りの男達もゲラゲラと声を上げて笑う。

 自分達をバカにし、声を上げて笑う男達。どう見ても彼らは油断している。

 これは、チャンスではないだろうか。

「おい、王子様達をお連れしろ。今度は逃げないようにちゃんと見張っていろよ」

「ちょっと、待ってくれ! お前らの目的はオレなんだろ? だったら彼女は解放してやってくれよ!」

 自分達を捕えようと迫り来る男達から庇うように、リオはメリアを背後に庇う。

 彼は何とか話し合いで自分を逃がそうとしてくれているようだが、おそらくそれは無駄な行為だろう。メリアとて男達の顔を見て、そしてこの組織の存在を知ってしまったのだ。無事に帰してくれるわけがない。

「聞く必要はない。二人とも捕まえろ」

「なあ、頼むよ!」

 聞く耳を持たない男相手に、それでもリオは必死に懇願する。

 しかし平和的解決を望むリオとは違い、メリアはそんなモノ最初から望んでなどいない。だって相手に話し合いをする気がないのだから。そんな相手とは話し合おうとするだけ無駄だ。最初から力づくで押し切るしかない。

(相手は平気で人間を売る人間。でも私は人魚。人間を殺す事に何の躊躇いもない!)

 スッと。自分の中にある全ての感情を殺す。

 そしてポーチに隠し入れていた短剣に手を掛けた。

「頼む、コイツだけは助けて……」

「リオ、退いて」

「えっ?」

 リオを押し退けると同時に、短剣を引き抜く。そして自分達の行く手を阻むリーダー格の男へと斬り掛かった。

「うわっ!」

 まさかメリアが武器を持ち、しかも斬り付けて来るなんて誰も思わなかったのだろう。目を見開いたまま驚き固まる男達の中、身の危険を感じ取れたリーダーの男だけが、身を仰け反らせる事によってそれを躱す。

 しかし、それでも次の一撃は避けられまい。メリアがミナスを殺す事を躊躇っていたのは、それによってリオの笑顔が消えてしまうのが怖かったからだ。けれどもこの男を殺してもリオの笑顔はなくならない。その他のデメリットも存在しない。故に、男を殺す事に躊躇いなど微塵もない。

 だからメリアは体を仰け反らせている男の胸に、それを突き刺した。今度は避ける隙も与えず、確実に、その短剣を躊躇う事なく男の左胸に突き立てたのだ。

「……は?」

 普通であれば、その男はすぐに絶命しただろう。いや、するハズだったのだ。

 しかし男の左胸で起こった現象に、今度はメリアが驚き固まった。

 男の胸に突き立てたハズの刃。それは男の胸に突き刺さる事はなく、まるでゴムのようにグニャリと曲がってしまったのだ。……何だ、これ?

「てめぇ、何しやがる!」

「きゃあっ!」

 何が起きたか分からず、ポカンとしたままのメリアに男が掴み掛かる。その身を捕えられた瞬間、メリアの手から短剣が滑り落ちてしまった。

「おもちゃのナイフで抵抗して来るとは、良い度胸だな、お嬢ちゃん」

「う……っ!」

 ぐっと、その細い喉を絞め上げられれば、メリアから苦悶の声が漏れる。

 しかしその瞬間だった。床に転がった短剣を拾い上げたリオが、それを手に男に飛び掛かったのは。

「メリアから離れろ!」

「ぐあっ!」

 何故か切れない刃の部分を握り、柄の部分で男の頭を思いっきりぶん殴る。

 メリアに気を取られていたせいだろう。リオの攻撃に気付けなかった男は、彼の打撃をまともに受け、堪らずその場に蹲ってしまった。

「行こう、メリア!」

 それにより解放されたメリアの手を取り、船首へと走る。

 蹲るリーダーの男を飛び越え、先へと急げば、後ろから慌てた男達が追い掛けて来た。

 けれどももう遅い。脱出口は、すぐそこだ。

「飛び込むぞ、メリア! その先は、任せた!」

「リオ……うん、後は私に任せて!」

 暗い夜の海。普通であれば、そこに飲み込まれた者はもう無事では済まないだろう。

 しかし、そこに二人は躊躇う事なく飛び込む。

 しっかりと、手を繋いだまま。

「おい、本当に飛び込んだぞ!」

「正気かよ! 何考えてやがる!」

 ザブンと音を立てて、二人を飲み込んだ海が大きな水飛沫を上げる。

 それを船上から見ていた男達から驚愕の声が上がるが、既に海の中にいるメリアには彼らの声はもう聞こえない。

 海水に浸かれば魔法は解ける。

 アルフがそう言っていた通り、自身の足が変化していくのが分かる。二本あった人間の足は、一つの桃色の魚の尾ひれへと戻り、水中でも難なく呼吸が出来るようになる。

「リオ、ちょっとだけ我慢してね、すぐに陸に着くからね」

 人間から人魚の姿へ。完全にもとの姿に戻ったメリアは、繋いでいた手からリオの体を引き寄せ、その腕に彼の体を抱き抱える。

 水中で呼吸も会話も出来るメリアとは違い、リオは人間。早く陸に上がらなければ死んでしまう。

 ギュッと目を閉じ、呼吸も止めているリオに話し掛けてから、メリアは全速力で海を泳ぐ。

 船であれば何十分も掛かるこの距離も、人魚が本気を出せば一分、いや、三十秒も掛からない。

 真っ暗な夜の海を、あっと言う間に駆け抜けると、辿り着いたのは以前ミナスを助けたあの海岸。

 その海岸に顔を出すと、メリアはその砂浜にリオの体を上がらせた。

「リオ、大丈夫? リオ!」

「う……ゲホッ、ゲホ……ッ!」

 メリアの呼び掛けに応えるようにして、リオが激しく咳き込み、大きく息を吸う。

 良かった、どうやら無事なようだ。

(良かった。これで良いんだ)

 未だ苦しそうに咳き込むリオに、メリアは目を細める。

 船からの脱出には成功し、リオを安全な海岸に送る事も出来た。これで自分の役目は終わった。後はここから離れて、もとの世界に帰るだけだ。

(さようなら、リオ)

 心の中で別れを告げて、そっと彼から身を離す。

 しかし離れ行くメリアに気付いたのか、それはリオに腕を掴まれる事によって阻まれてしまった。

「リオ?」

「やっぱり、お前が兄さんを助けてくれたんだな」

「え?」

「そっか、人魚だったのか」

「……っ!」

 目を閉じていたから、もしかしたら見られていないかもしれないとも思ったが、やっぱりそう上手くはいかないらしい。

 ポツリと呟かれた自分の正体に、メリアは小さく息を飲む。

 何故、離れようとする自分の腕をリオが掴んでいるのか。このまま捕まえて食べるつもりなのか、どこかに売り飛ばすつもりなのか、それとも軽蔑の言葉を浴びせるつもりなのか。

 どうするつもりなのかは知らないが、どちらにせよ良い事なんかあるわけがない。タイムリミットは既に迎えている。魔法が解けた以上、もうここにはいられない。リオが次の行動に出る前に、さっさとここから離れなければならない。

 いつまでもここにいて、痛い目を見るのは自分なのだから。

「じゃあ、さようなら、リオ! 元気でね!」

 彼の手を振り払い、メリアは勢いよく海に飛び込む。

 しかしその直後であった。海に飛び込んだメリアの腰に、リオがガボガボと何かを叫びながら抱き着いて来たのは。

「っ、キャーッ!」

 突然の彼の行動に驚き飛び上がったメリアは、鋭い悲鳴を上げながらリオの腕を思いっきり振り払う。

 そうして彼の力が緩んだところで、その顔面を思いっきりぶん殴ってやった。

「何すんのよ! 女子の腰に抱き着くとか、何考えてんの! いくらリオでも許せない! デリカシーがなさ過ぎる!」

「……お前、意外と手が早いよな」

 砂浜の上に殴り飛ばされたリオは、仰向けに転がりながら、ギャンギャンと叫ぶメリアの罵声を静かに聞き流す。

 バカ、バカ、バカと、その悪口が単純なモノになったところでゆっくりと体を起こすと、リオは申し訳なさそうな目をメリアへと向けた。

「悪かったよ。何とか引き止めようと思って手を伸ばしたら、丁度腰だったんだよ」

「丁度じゃないわよ! びっくりしたじゃない! 引き止めるんなら普通に引き止めれば良いでしょ!」

「ごめんって。でもこうでもしなきゃ、引き止められない気がしたんだ」

「う……」

 確かにリオの言う通りだった。名前を呼んで引き止めたくらいでは、メリアはきっと振り返る事なく海に帰っていただろう。そう考えれば、『何も考えずに女子の腰に抱き着く』と言うリオの行動は、ある意味正解だったのかもしれない。

「あのさ、オレ、何も聞いてないんだけど」

「……」

 じっと、咎めるような目を向けるリオに、メリアは動揺に瞳を揺らす。

 おそらく、メリアが人魚であった事についての説明を求めているのだろう。人間の世界に来て何をしているんだ、どうしてオレ達に近付いた、何をするつもりだったんだ……。

そう言わんとするリオの怒りの目に睨まれ、メリアは小さく肩を震わせる。

 その目から逃れるようにしてリオから目を逸らすと、メリアはギュッと、怯えながら強く目を閉じた。

「ごめんなさい、リオ、私……っ!」

「急に帰らなきゃいけない用事が出来たんなら、そう言えよな」

「……は?」

 急に帰らなきゃいけない用事? え、何それ?

 言っている意味が分からず、視線をリオへと戻せば、彼は何故かプリプリと怒りながら更に文句を続けた。

「さっきから今生の別れみたいな言い方ばっかりするから、何なんだろうって思ってたら、お前、ちょっと家に帰るだけなんじゃねぇか。だったらそう言えよな。もう会えないんじゃないかって、すげー不安だったんだぞ!」

「……」

「帰るんなら、連絡先くらい置いて行ってくれよ。勿論オレのも教えるし。ところでお前って、スマホとか持ってんの? でも人魚の世界って海の中にあるんだよな? だとしたら電波は届かなさそうだから……え、鳩便とか飛ばせば良いの?」

「いや、ちょっと! ちょっと待って!」

 さっきから何を言っているんだ、この王子は。今生の別れがどうのこうのって、そりゃそうなるだろう。だって自分は人魚なのだから。人間とは共存出来ないのだ。正体がバレてしまった以上、人魚は海に帰るしかない。もう会えないのは当たり前だ。

 それなのに何故また会う気でいるんだ。どうして連絡先を置いて行かなきゃならんのだ。

「リオ、良く見て! 私、人魚!」

「うん、見れば分かるよ」

 そうか、分かっていたか。それなら話は早いな。

「だから帰るの! もう会えないし、今生の別れだし、連絡先も教えられないの! 分かった?」

「何で?」

「え?」

「何で人魚だと今生の別れになるんだよ?」

「いや、何でって……」

 人間と人魚は一緒にはいられない。だから人魚だと知られてしまった以上、もうリオとは一緒にはいられない。……え、そう言うモンじゃないの?

「人魚だと知られたら、人間の世界にはいられないとか、人魚にはそう言う掟でもあるの?」

「え? えーと、それは……」

 そう尋ねられ、メリアはうんと考える。

 人間は人魚を捕まえる。そして不老不死になりたければその肉を食べるし、興味がなければ真珠の涙を流させたり、売り飛ばしたりして金にする。そしてそれだけでは満足しない人間は、その人魚を捕獲した場所から他の人魚がいる場所を割り出し、人魚の国を襲撃する。だから人間には見付かってはいけないと言われているだけで……。

 正体がバレたから帰らなきゃいけないとか、そう言った掟はない。

「えっと、ない、けど……」

「じゃあ、帰る必要ないじゃん。それでも帰らなくっちゃいけないんなら、連絡先教えてよ。また後でこっちから連絡するよ」

「ああ、うん、分かった……って、違う!」

 うっかり言い包められそうになってしまったが、違う、何かが違う。何が違うのか具体的にはよく分からないが、多分違う。きっとそうじゃない。

「だから私、人魚なんだってば! 人間じゃないの! 化け物なの!」

「だから見れば分かるって」

「人間と人魚は互いに害を与え合う仲だから共存出来ないし、相容れない存在だって! そう言ったのはリオじゃない!」

「言ったよ。でも、相容れない存在だって決め付けるなって言ったのはメリアだ」

「それは言ったけど! でも……っ!」

「だったらさ、オレがお前に害を与えなきゃ良いのか? 絶対に酷い事しないって約束すれば、お前は海に帰らなくて済むのか?」

「え? それは……」

 せっかく帰ろうって決めたのに。それなのに何故、リオはこうやって自分を引き止めようとするのだろうか。もしかしてリオも、メリアと別れたくないと思っているのだろうか。そう自惚れても良いのだろうか。

「オレ、不老不死になんてなりたくないよ。周りが年を取って死んで行く中、オレだけが年も取らずに生き続けるなんて絶対に嫌だからな。だからオレ、お前の事なんか食べない」

「リオ……?」

「それからオレ、こう見えても王子だぜ? この国で一番金には困らない人間だ。だからお前を売り飛ばしたり、真珠の涙を流させたりなんかしない」

「……」

「あとはセキュリティも万全だ。だって兄さんもメリアの事、人魚だって思ってんだからな。だからお前がこの国にいても、国民にお前の正体は絶対バレないし、手も出せない。何たって国のトップがお前の味方なんだからな。万が一お前の正体がバレて、お前に危害を加えようとするヤツが現れても絶対に守れるぜ。だって兄さんには軍隊を動かす力があるんだから。お前に危害を加えようとするヤツなんて返り討ちだよ」

「い、いい! 軍隊なんて動かさなくって良い!」

 自分を守るために軍隊を動かす? 何それ、怖い。

「じゃあ、どうしたら良いんだ?」

「え?」

「どうしたらお前は帰らずに、このまま側にいてくれるんだ?」

「そ、それは……」

 真剣なリオの瞳が、真っ直ぐにメリアを射抜く。

 どうもしなくて良い。何もしてくれなくても構わない。このままずっとリオの側にいたい。

 でも本当に、彼の側にいて良いのだろうか。

「だ、だって私、人魚だよ? 人魚は人間を殺すんだって、その歌声で人間の男を誘惑し、海に引きずり込んで殺すんだって、そう信じているんでしょ? それなのにリオは私が気味悪くないの?」

「じゃあ、メリアはオレを殺すのか?」

「こ、殺すわけないでしょ!」

「じゃあ、問題ないじゃないか」

 はっきりと断言したメリアの言葉に頷いてから。リオはそのまま言葉を続けた。

「オレはお前に害を与えないし、お前もオレを殺さない。だったら互いに害を与え合う仲じゃない。共存出来るじゃないか」

「ええ? い、いや、それはそう、かも、しれないけど……」

「それとも、お前はオレが嫌いなのか?」

「は?」

「だからさっさと海に帰ろうとしているのか?」

「そ、そんなわけないでしょ! 好きに決まっている! ずっとリオと一緒にいたいって……」

 そこまで口にして、メリアは慌てて口を押える。リオの口車に乗せられてしまったが……。しまった、本音が出た。

「オレさ、本当に兄さんのお嫁さんになってもらうつもりで、お前を城に連れて来たんだよ」

「?」

 しかしメリアの本音に対しては特に何も言わずに、リオはポツポツと自身の話を始めた。

「本当なんだよ。本当に兄さんの願いを叶えたくてお前を見つけ出したし、本当に兄さんのお嫁さんにするつもりで、お前を城に連れて来たんだ。でも……いつからかはよく分からないけど、オレ、いつの間にかメリアを兄さんにやるのは嫌になっていたんだ」

「リオ?」

 トクンと、胸の奥が熱を持つ。

 トクトクと高鳴る鼓動を感じながらもリオを見つめれば、彼は照れ臭そうにメリアから視線を逸らした。

「大好きな兄さんが、命の恩人を花嫁にしたいって言っている。そしてその恩人も、見つけ出す事が出来た。あとはオレが二人を引き合わせて、静かに身を引けば良いだけだった。それは分かっていた。でも……でも嫌だったんだよ。お前を兄さんにやるのは嫌だって、いつの間にかそう思っていたんだよ」

「……」

「兄さんには悪いと思ったさ。でもどうしても嫌だったんだ、仕方ねぇだろ。兄さんのところになんか行かず、ずっとオレの側にいれば良いって、そう思っちまったんだからさ!」

 リオの視線が、真っ直ぐにメリアへと戻される。

 再び向けられたその真剣な瞳には、僅かな緊張の色が混ざっていた。

「オレのせいでお前まで捕まって、アイツがお前に危害を加えようとした時、カッと頭に血が上ったんだ。そして気が付いたらオレは、あの男の頭をぶん殴っていた。それでオレはようやく気が付いたんだよ。その……オ、オレはお前の事が好きなんだって!」

「っ!」

 告げられたその言葉に、胸の奥の熱が一気に全身に広がる。

 カアッと、顔が耳まで真っ赤になったのが自分でも分かった。

「兄さんに渡したくない理由がそれだったんだって、やっと分かったんだ。お前、船でオレに言ってくれたよな? 短い時間だったけど幸せだったって。けど、オレはこんな短い時間で終わるなんて嫌だ。もっと長い時間一緒にいたい。もっとずっとオレの側にいて欲しい!」

 そう言い切ったリオの言葉に、嘘も偽りもないのだろう。自分の顔が耳まで真っ赤になっている事に気付いてはいたが、それにも負けないくらい、リオの顔も耳まで真っ赤になっていた。

「お前が人魚だとか、兄さんがお前を花嫁にしたいだとか、そんな事はどうでもいい。オレはお前が好きだ。だから帰らないで欲しい!」

「っ!」

「幸せな時間だと思っていたのは、お前だけじゃないんだよ」

 言ってしまった事の照れ臭さからか、リオはメリアからそっと視線を逸らし、ポツリとそう付け加える。

 ザーッと、その空間にしばらく波の音だけが響いていた。

「……私、人魚だよ?」

 どのくらいの時間、その静寂が続いていただろうか。

 それを破ったのは、メリアの方であった。

「それでも良いの? 私、ここにいても良いの?」

 もし、それでも良いのなら。それでもリオがそれを望んでくれるのなら。

 私だってもっとずっと、この場所にいたい。

「良いよ! 当たり前だ!」

 おそるおそる尋ねて来るメリアに、リオは大きく頷く。

 ようやく彼女がこちらに向いてくれた。海に帰る事を諦め、ここに残ろうとしてくれている。

 そんな彼女を絶対に手放したくなくて。気が変わらないうちに自分に繋ぎ止めておきたくて。

 リオはメリアに向かって、大きく手を広げた。

「一緒に城に帰ろうよ、メリア!」

 それは、リオが浮かべるいつもの笑顔。暗い闇の中に輝く太陽のような、メリアが恋い焦がれた明るい微笑み。

「……っ!」

 大好きなそれを向けられたメリアには、断る術などもうどこにもなかった。

「リオっ!」

 誘われるままに大好きな彼の胸に飛び込めば、リオもしっかりと抱き止めてくれる。

 リオの胸から聞こえて来る心臓の音。これ程幸せな音色を、メリアは聞いた事がない。

「私もリオが好き! だからもっとずっとここにいたい!」

「じゃあ、ずっとここにいろよ。帰る必要なんてねぇだろ」

「良いの? 本当に? 私、ずっとここにいて良いの? リオと同じ世界にいて良いの?」

 そっと顔を上げ、もう一度そう尋ねる。

 そんな彼女と視線を合わせると、彼はもう一度ニッコリと微笑んだ。

「良いに決まってんだろ。オレも、お前と同じ世界にいたい」

「うん!」

 目の前に広がる太陽に大きく頷いてから、メリアは再び、リオの胸に顔を埋める。

「助けてくれてありがとうな、メリア」

「ううん、私こそ。受け入れてくれてありがとう、リオ」

 リオの大きな手に頭を撫でられて。

 全身を包み込むその幸せを感じながら、メリアはそっと目を閉じた。

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