第15話 別れの決意

 懐かしい匂いがする。浮上する意識の中、最初に感じたのはその磯の香りだった。

 次に覚醒したのは聴覚。大好きな人が自分の名前を呼んでいる。それが聞こえた。

「リオ……?」

 その声に目を覚ませば、そこにいたのはその声の持ち主、リオ。彼は今にも泣き出しそうな程に、グシャリとその表情を歪ませていた。

「メリア! 良かった……良かった、ちゃんと意識が戻って来てっ!」

「?」

 ホッとした表情を見せるリオの意味が分からない。意識? そう言えば私、何で寝ていたんだっけ?

「い……っ!」

 しかし体を起こそうとしたところで、後頭部に走った痛みにメリアは表情を歪める。

 いや、それだけではない。気が付けば腕も後ろ手に縛られている。ああ、そうだ。変な男達に連れて行かれそうになっていたリオを助けようとして、逆に返り討ちに遭ったんだった。

(人間なんかに捕まるなんて最悪だわ)

 人魚としてあるまじき失態だと、メリアは心の中で悪態吐く。アイツら、絶対に許さない。特に私の頭を殴ったヤツ。捕まえるんだったらもっと優しく捕まえなさいよ。

「ごめんな、メリア」

「え?」

 ふと掛けられた謝罪に、メリアはハッとして我に返る。

 見上げれば、後悔の念に苛まれているリオの悲痛な表情。同じように縛られているリオは、目頭に浮かんだ涙も拭えぬまま、ポツリポツリと悔しそうに言葉を零した。

「オレがもっとしっかりしていれば、こんな事にならずに済んだのに。それなのにオレが油断なんてしていたから、お前まで巻き込んでしまったんだ。ごめん……ごめんな、メリア」

(何で、リオはこんなに泣きそうになっているんだろう)

 この状況を申し訳なく思い、必死に謝罪を続けるリオの瞳には、徐々に涙が溜まっていく。

 いつ零れてもおかしくないそれを見上げれば、胸の奥が鈍く痛んだ。

(リオにこんな顔、させたくないのにな)

 それなのにリオにこんな顔をさせているのは、他でもない自分だなんて。何て嫌悪感なのだろう。自分で自分に腹が立つ。

「泣かないでよ、リオ。私はあなたの笑顔が大好きなんだから」

「え?」

「え……あ、ご、ごめん、何でもない、今のなし! 泣かれたら困る! 困るから泣かないで!」

 何故かポロッと出てしまったその言葉にハッとして、メリアは慌てて取り繕う。

 確かに今のは本心だが、でもだからって何で口にしてしまったのだろう。恥ずかしいじゃないか。

 心の中で自分を責めながら、メリアはゆっくりと体を起こす。

 途中、後頭部に走った痛みに表情を歪めれば、リオもまた、辛そうに眉を顰めた。

「大丈夫か? 無理しないで寝ていて良いんだぜ」

「大丈夫よ、このくらい。すぐに痛みも引くわ」

「ごめんな。縛られていなけりゃ、体を支えてやれたのにな」

「え、止めてよ。そんな事されたら、恥ずかしくて心臓が耐えられないわ」

「え?」

「あっ、わっ、ご、ごめん、何でもない、何でもない、何でもないっ!」

 さっきからやけに正直な自分の口を塞ぎたくなるが、手が縛られていてはそれも叶わない。

 何とかして体を起こすと、メリアは不審そうに自分を見つめるリオへと、誤魔化すような笑みを向けた。

「そ、それよりもリオ、今ってどういう状況? 私、ちょっとよく分からないから、出来たら教えて欲しいわ!」

 笑顔で尋ねるような事ではないだろうが、それでも話を変える事の方が優先だ。さっきから口走っている本音について、深く突っ込まれなければそれで良い。

 その思惑により、メリアが何とかして話を変えようとすれば、リオは「そうだな」と神妙な面持ちで頷いた。

「オレが迂闊だったんだよ。腐っても王子だって事、忘れていたんだ」

「どう言う事?」

 上手く話が逸れた事に内心ホッとしながら、メリアは話の続きを促す。

 するとリオは、眉を顰めたまま話を続けた。

「国民の関心がないとは言え、オレはこの国の弟二王子なんだ。市場に出れば、それなりに価値が出る」

「市場……って、それってまさか!」

 リオが口にした『市場』と言うその言葉。それにメリアがハッとすれば、リオもまたその通りだと首を縦に振った。

「ああ。ここは人身売買を生業とする闇の組織、その船の中だ」

「やっぱりそうなんだ……って、あれ? でも、リオって人間よね?」

「? 人間だけど?」

「人間って、人間も売るの?」

「? 他に何か売るの?」

「え? あ、えっと……人魚とか、大王イカ……とか?」

「え? ああ、まあ、人魚とか大王イカとかも売るかもしれないけど、でもこう言うヤツらって主に人間を……って、ああ、そっか。メリアはド田舎出身だったな」

「ドを付けるな」

 メリアが何を言っているのかイマイチよく分からなかったリオであったが、そう言って一人で納得すると、彼は彼女にも分かるように詳しく説明してやった。

「勿論、人間を売るのは犯罪行為だぜ。本来なら許されない行為だ。父さんや兄さんも人身売買をなくそうとしているんだけど、国の力を使っても、そう言った犯罪は中々なくならない。表の世界には出て来ないけど、裏の世界じゃあ人身売買ってのは、まだ活発に行われているってのが現状なんだ」

「そう、なんだ……」

 そうか、人間は人魚だけじゃない。同族である人間さえも平気で売り買いするのか。

 リオから聞いた人間の真実に、メリアは嫌悪に表情を歪めた。

「そんな組織にとって、各国の王族ってのは恰好の獲物なんだ。それが例え、王位継承権の低い、オレみたいな王子でもな」

「……」

「オレが護衛も付けず、よく一人で街を出歩いているって情報をどこかから掴んだんだよ。それでアイツらはオレに目を付けていたんだ。それにも気付かず、今日も街を出歩いていたオレをヤツらは尾行しいて……そしてタイミングを見計らって、オレを誘拐したんだ」

 そう説明してから。リオはメリアに向かって、思いっきり頭を下げた。

「だからごめん! 全部オレのせいなんだ! 今日だけでも護衛を付けていれば、こんな事にならずに済んだのに! それなのにオレが不用心過ぎたせいで、お前まで捕まる事になっちまって……本当にごめん!」

 なるほど。だからリオはさっきからずっと謝っていたのか。人身売買を生業とする闇の組織。本来ならば捕まるのは自分だけだったハズなのに、自分の不注意でメリアまで捕まる事になってしまったと、そう思い込んでリオはこんなにも泣き出しそうになっているのか。

「アイツらの目的はオレだけだ。だからオレが囮になれば、お前は逃げられるかもしれない。だから隙を見てそっと……」

「それって、リオが商品として売られるって事? って事は、お金を出せばリオが買えちゃうって事? え、何それ、羨ましい」

「え? メリア?」

 ポロリと口から零れたその言葉に、リオはキョトンと目を丸くする。

 しかしその本音が零れた事に当の本人は気付いていないらしく、メリアは苛立ったようにブツブツと心の声を続けた。

「買えるなら私が買いたいくらいだわ。お金で簡単にモノに出来るなんて……何よそれ、人間のクセに」

「……」

「え、でも待って。それじゃあ、リオが買われちゃったら、その人のモノになっちゃうって事? ええっ、嫌だ! そんなの絶対に阻止しな……」

 と、そこでメリアは、心の声が駄々漏れだった事にようやく気付く。ヤバイ、リオを買いたいとか言った気がする。これは人間……いや、人魚としても問題発言だ。

「ち、違うのよ! 今のはその、何と言うか、その……」

「優しいな、お前」

「え?」

 ヤバイヤツだと白い目で見られているかと思いきや、意外にもリオは、面白いとばかりにプッと噴き出す。

 予想外のリオの反応にメリアがキョトンと目を丸くすれば、クツクツと喉を震わせながら、リオは優しい笑みをメリアへと向けた。

「オレが落ち込んでいるの分かっていて、わざと冗談言って励ましてくれてんだろ? ありがとうな。おかげで少しだけ元気出たよ」

「え……あ、そう、そうなのよ! 良かった、元気が出てくれてッ!」

 決して冗談を言ったつもりはないのだが。でもリオがそう思ってくれているのなら、そういう事にしてしまおう。

「あ、そうだ。ねぇ、リオ。私、短剣持ってる!」

「え?」

 上手い事リオが勘違いしてくれたところで、メリアはその武器の存在を思い出す。

 女子の持ち物など奪ってもしょうがないと、そう思ったのだろう。幸いにも、短剣の入っているポーチは腰に付けられたままだ。これを使えば腕を縛める縄からも解放され、リオが売られるのを阻止する事が出来るかもしれない。

「このポーチに入っているの。ねぇ、リオ。何とかしてここから短剣取り出せないかな?」

「え、えーと……よし、分かった、やってみるよ」

 まさかの武器の存在にコクリと頷くと、リオは縛られた後ろ手で器用にメリアのポーチを開け、その中に入っていた短剣を取り出す。

 縛られているために時間は掛かるが、それでも切れない事はない。取り出した短剣で自身の腕を拘束する縄を切ると、リオは同じようにしてメリアの縄も切ってやった。

「ありがとう、リオ」

「いや、それはこっちの台詞だよ。ありがとうな、メリア」

 返された短剣を受け取り、メリアはそれを再びポーチへと戻す。一応持って来ていた暗殺用の短剣だったが、思わぬところで役に立って良かった。

「……あのさ、メリア」

「何?」

「助けてもらってなんだけど……何で短剣なんて持ってるの?」

「えっ?」

 そう問われ、メリアはその持ち物が異常な物である事にようやく気付く。そりゃそうだ。普通、女子のポーチから短剣なんて出て来ない。

「こ、これはねっ、えっと、その……護身用、そう、護身用なのっ!」

「護身用?」

「都会は危ない所だから持って行きなさいって、島を出る時にばあちゃんに持たされたの!」

「そうか……。でもそれだったら、もっとちゃんと切れるヤツを持って来た方が良いぜ? さっきそれでオレの腕何度か掠ったけど、全く傷付かなかったからな。錆びてんじゃねぇの?」

「え、そうなの? 分かった、帰ったらばあちゃんに言っておく」

 まさかそんな錆びた短剣を渡されていただなんて。アルフめ、帰ったら文句を……いや、でもリオの腕を傷付けずに済んだから、逆に良かったのか?

「とにかく自由にはなれたけど……。でもここは海の上だし、逃げたところで逃げ場はないよな。下手に抵抗しないで、どこか陸に着くまで大人しくしていた方が無難か?」

 体を自由に動かせるようになったとは言え、相手は大人の男達だ。その上何人いるかも分からない。逃げたところで彼らにまた見付かろうものなら、今度はガッチガチに拘束され、短剣も取り上げられてしまうだろう。そうなったらもうどうにもならない。だからここは下手に動かず、大人しく捕まったフリをして、逃げるチャンスを待った方が良いのではないだろうか。

(いや、違う。動くなら今だわ)

 しかしそう考えるリオの作戦に、メリアは真っ向から反対する。

 何故ならここは海の上、メリアの独壇場だ。この船から脱出し、海に飛び込む事が出来れば、人間は追って来る事が出来ない。自分達は無事に逃げ切る事が出来る。むしろ、メリアにとってはこの海上にいる間だけがチャンスなのだ。どこかの陸に着いてしまえば、それこそ脱出は不可能となってしまう。

(でも……)

「あ、でもここの扉、鍵掛かってないぜ。きっとオレ達が逃げ出さないって高を括ってんだろうな。うーん、って事は、やっぱ今の内にこの部屋から脱出しておくべきか?」

 扉の鍵を確認し、うーんと唸るリオを、メリアはじっと見つめる。

 扉に鍵が掛かっていないのは好都合。これで甲板に出る事が出来る。そしてそのまま海に飛び込んでしまえばもうこっちのモノだ。確実に逃げる事が出来る。

 でも……。

(でもそのためには、私は人魚の姿に戻らなければならない)

 リオを抱え、海に飛び込み、彼をこの船から逃がす。

 それは彼の無事が約束されるとともに、彼に本当の姿も見られてしまう事を意味する。

 そしてそうなればもう……。

(私は、リオとはもう一緒にはいられない)

 キュッと、拳を握り締める。

 リオに正体がバレた時。それは、別れの時を意味していた。

(私の正体を知ったら、リオは何て思うのかな。きっと驚くだろうな。驚いて、気持ち悪がって、よくも騙したなって怒るのかな。それとも不老不死になりたくて私を食べたり、この船の人達と同じようにして、私を売り飛ばそうとしたりするのかな)

 メリアの正体を知ったリオがどう反応するかは分からない。でもそれは大した問題ではない。だって彼がどう反応しようが、もう終わりなのだから。正体を知られた以上、彼の側にいる事はもう出来ないし、ミナスの暗殺だってもう出来ない。

 もうここにはいられない。国に、帰るしかない。

(良い行いをすれば、それはきっと良い事として自分に返って来るなんて、やっぱり嘘ね。リオを助けたところで、私には良い事なんて一つもないんだから)

 リオを助ける。それで自分に返って来るのは、リオとの別れと、王位継承試験の失敗。良い事が一つもないどころか、悪い事が二つも返って来る。

「そんなに怖がるなって、メリア」

「え?」

 掛けられた声に、ハッと我に返る。

 暗い表情を浮かべるメリアを見て、彼女が人身売買に怯えていると思ったのだろう。不安に揺れるメリアの瞳を真っ直ぐに見つめると、リオはニカッと明るい笑顔を見せた。

「大丈夫だって、絶対に助かるから。だから心配するなって、な!」

(そっか。もうリオの笑顔も見られなくなるんだ)

「もし見付かっても大丈夫だぜ。アイツらが狙ってんのはオレなんだから。別々に逃げればアイツらは絶対にオレを追い掛けて来るから、お前は逃げられる。オレはオレで、その後アイツらを撒いてから逃げるよ。大丈夫、オレ足には自信があるからさ。だからきっと上手く行くよ」

 だからそんなに泣きそうな顔をするなと微笑まれたところで、ようやく自分が泣き出しそうになっている事に気が付く。ああ、そうか。私にとって、リオとの別れは自分が思っている以上に辛い事だったのか。

(どの選択肢を取っても、私はもう二度とリオの笑顔を見る事は出来なくなる。でもリオは違う。リオはここから無事に脱出する事が出来れば、この先もずっと笑顔でいられる。でも私がここでリオを助けられず、彼がどこかに売られてしまったら……そしたらもう、リオは誰にもこの笑顔を見せる事は出来なくなるんだ)

 人身売買の先。そこに楽しい事なんかあるわけがない。辛い事しかないに決まっている。だからもし彼が売られるような事になったら、彼はもう二度と笑わなくなってしまうだろう。

 そんなのは、絶対に嫌だ。

(もともと、今夜別れるつもりだったじゃない。その別れ方がちょっと変わって、別れの時間がちょっとだけ早くなっただけだわ)

 むしろ良かったじゃないか、ミナスを殺さずに済むのだから。これでミナスが死ぬ事はなくなり、リオから笑顔が消える事はなくなったのだから。

 不測の事態による暗殺の失敗。そう伝えれば、アルフだって納得してくれるだろう。願ったり叶ったりじゃないか。

(リオ一人くらいなら、安全な海岸まで連れて行ける。その海岸にリオを届けたらすぐに帰れば良い。そうすればリオに捕まえられる事もないし、軽蔑の冷たい目を向けられても一瞬で済むもんね)

 人間と人魚は相容れないと、そう語っていたリオ。彼にその正体を見せた時、彼から向けられる目はきっと……。

 キュッと、決心したように拳を握り締める。

 そうしてからメリアはリオに、ニッコリと柔らかい笑顔を向けた。

「ありがとう、リオ。おかげでちょっとだけ落ち着いたわ」

「え? そう?」

「ねぇ、私に考えがあるの。何とか船の外、甲板に出られないかしら?」

「甲板? そうだな、部屋の鍵は掛かってないし、行けない事はないんじゃねぇか?」

「じゃあ早速甲板に向かいましょ。ここで大人しくチャンスを待つよりも、そっちの方が確実だわ」

「え、まさか海に飛び込むの?」

「だって私、泳ぎは得意だもの。荒波の中、ミナスを抱えて海岸まで行ったのよ。今からリオ一人を抱えてそこまで泳ぐくらい、何て事ないわ」

「そう、だな……」

「じゃ、早速行きましょう。私に付いて来て」

 溢れそうになる涙を堪えながら。メリアは必死に微笑んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る