第9話 相容れない世界・兄
チャンスはいくらでもあったと思う。呑気な性格なのか、腕に自信があるのかは知らないが、ミナスもリオも城内では護衛を付けない。二人の付き人だと言うティクムもまた、一人で城内を走り回っているところを何度も見たので、常にどちらかの王子に付きっきりと言うわけではないようだ。
兄弟であるミナスとリオも、常に同じ行動をしているわけではない。ミナスが公務をしている時にリオが剣術を学び、ミナスが剣術を学んでいる時にリオが座学の授業を受けるなど、二人は違う場所で違う行動をしている事が多い。つまりミナスは誰かといる時よりも、一人でいる時の方が意外と多いのだ。
そんなミナスの隙を突くのは簡単だろう。しかも彼はメリアを命の恩人だと思い込み、好意を向けてくれている。だからちょっとニコニコしながら近付けば、すぐにでも暗殺する事が出来るハズだ。
やろうと思えばすぐにでも終わらせる事が出来るこの試験。その気になれば、今日の夕方には海に帰る事が出来るだろう。
それなのにあれから数日経った夕方になっても、メリアはまだ人間の城にいた。その理由は簡単で、それはこの数日間、暗殺を実行しようとしなかったからだ。いや、それだけではない。この数日の間、メリアの頭にあったのはリオの事だけで、暗殺の事など頭にはなかったのだ。
『人魚は受け入れられない』
そう言って浮かべた彼の悲しそうなその表情が、頭に焼き付いて離れなかったのである。
(人魚は受け入れられない、か……)
あの日の朝、リオと座っていた中庭のベンチに座って、メリアはボンヤリと考える。
人間になんて受け入れられなくても構わない。だって人魚だって、人間なんか受け入れたくもないのだから。
もともと相容れぬ存在なのだ。互いに信頼し合い、共存して生きて行く必要なんかどこにもない。リオの発言に、おかしいところなんて一つもない。
それなのにどうしてだろう、信頼し合いたいと思ってしまったのは。そんな事言わないでと、そう思ってしまったのは。
人魚に対するリオの感情。それを告げた時のリオを思い出すだけで苦しくなるのは、どうしてなのだろうか。
「どうしたの、メリア? リオに何かされちゃった?」
「!」
ふと頭上から落ちて来た声に、メリアはハッとして勢いよく顔を上げる。
そこにいたのは優しい笑みを浮かべたミナス。リオといい、ミナスといい、どうやらこの兄弟は、気配もなく突然現れるのが得意なようである。
「ミナス様……」
「あー、だめー、それだめー、様付け禁止ー!」
そう言ってプリプリと怒り出すミナスは、やはり護衛など付けていない。その上、彼は無防備にメリアの隣に腰を下ろしているし、周囲には人の気配もない。正に絶好の暗殺シチュエーションだ。あとは他愛ない会話で更に彼の油断を誘い、突然その胸に短剣を突き立ててやれば暗殺は終了。すぐに家に帰る事が出来る。
しかしそれをメリアがやらなかったのは、既にメリアの頭から、『暗殺』と言う試験が姿を消していたからである。
「で、リオと何かあった?」
「いいえ。リオは関係ありません」
「リオ贔屓反対ー! 僕もそれー! 様付け敬語反対ー!」
どうしてもそこに拘るミナスに、メリアは苦笑を浮かべる。リオも頑なに敬語を拒んでいたけど……。やっぱり兄弟なんだな。
「ミナス様……いえ、ミナスはその、どうして私の事、人魚だと思ったの?」
ミナスの要望に応え、言葉遣いを変えてやる。
するとミナスはようやく、メリアの質問の方に返事をしてくれた。
「ええっと、それは、どうしてメリアの正体を見破る事が出来たのかって、そういう質問?」
「一応……人魚じゃないわ、私」
ミナスの言う事は確かに正しいが、それでも今は否定しておく。
しかしそんなメリアの主張など適当に聞き流すと、ミナスは「そんなの不思議でも何でもないよ」と、あっさりとその質問に答えてくれた。
「だってあの嵐の夜だよ? あの荒れ狂う海の中、男一人を抱えて岸まで運ぶなんて、どう考えても人間には無理だ。そんな事が出来るのは、人魚か化け物か大王イカくらいだよ」
「運良く岸に打ち上げられた、とは考えなかったの?」
「運良く? あれだけ沖に出ていたのに? それは無理だね。誰かが連れて行ってでもくれない限り、僕が生きてあの海岸に辿り着く事は出来ないよ」
はっきりと、ミナスはそう断言する。
そうしてからミナスは、クスリと優しく微笑んだ。
「真実はキミの方が知っているハズだよ。あの嵐の夜、海に落ちた僕を人魚であるキミが助けてくれた。だからキミはここに来たんだろう? 命の恩人を捜していると言う僕の呼び掛けに応えてね」
「確かに助けたのは私よ。でも、私は人魚じゃない」
「さっきも言ったよ。人魚でもなければ、あの海から僕を救出する事は不可能だって。それともキミは、大王イカの方なのかな?」
「違うわ。……人間よ」
「無理だよ、人間の女の子には。勿論男の子でもね。あの荒波の中、一人で泳ぐ事だって出来やしないさ」
「泳ぎは得意なの。普通の人よりは上手に泳げるわ」
「ふうん。それ、リオは信じたんだ」
「いや、信じたと言うよりは、その……」
言い出したと言うか、何と言うか?
しかしその説明をしたところで、自分が人魚ではないと言う証明にはならないだろう。
とにかく何を言っても考えを変えてくれないミナスに小さく溜め息を吐くと、メリアはその話自体を変える事にした。
「人間と人魚は、相容れないのよ」
「うん?」
「もしミナスの言う通り、私が人魚だとしたら、私とあなたは相容れない者同士。私はあなたのお嫁さんにはなれないわ」
「あー、なるほど、そっちか」
「え?」
「ううん、何でもない。こっちの話」
一人で納得したように頷くミナスにメリアが眉を顰めれば、ミナスは気にしなくて良いと首を横に振る。
そうしてから、ミナスは困ったように苦笑を浮かべた。
「リオの言う事なんか気にしなくて良いよ。アイツは考え方が古臭いんだ」
「ふ、古臭い?」
思いも寄らぬ言葉に、メリアはパチパチと瞳を瞬かせる。
古臭いって……いや、でも人間と人魚は相容れない、仲良く出来ないと考えるのが普通なんじゃないだろうか。それは今も昔も、変わらない事実だと思うのだが。
「で、でもミナス、人間と人魚は互いに害を与え合う仲よ。そりゃ、昔よりはそういう話は減ったかもしれないけど。でも……」
リオが見せた、人魚に対する嫌悪感。それを思い出しながら、メリアは否定意見を続ける。
しかしそんな彼女に柔らかい笑みを浮かべると、ミナスはゆっくりと言葉を紡いだ。
「そうだね。確かに人間と人魚は害を与え合うよ。けど、みんながみんな、害を与え合うわけじゃないんじゃないかな?」
「え?」
その意見に、メリアはハッと目を見開く。
優しいミナスの青い瞳が、メリアの桃色の瞳に映った。
「確かに人魚を食べる人間もいれば、人間を殺す人魚だっている。でも、みんながみんなそう言うわけじゃないよね。僅かな人数かもしれないけど、人魚と仲良くしたいって言う人間だっているハズだよ」
「……」
仲良くしたい。
ミナスのその一言が、すっぽりと心に嵌ったような気がした。
「リオは相容れないと思っているかもしれないけど、僕は違うよ。幸い、人間と人魚は言葉を交し合えるんだ。だったらさ、話し合えば仲良くなれると、共存出来ると、そうは思わないかい?」
「……」
「メリアはどう? 人間とは仲良くしたくない?」
「私は……」
ミナスのその問い掛けに、メリアはそっと瞳を伏せる。
人間は水中で呼吸をする事も、人魚のように速く泳ぐ事も出来ない、人魚よりも劣った生き物だ。しかもその劣った生き物の王子を殺すために、自分はここに来た。自分が王位を継ぐために彼を殺す事、それに何の感情も沸かなかったハズなのに。それなのに……。
それなのに仲良く出来たら良いなって、一緒に生きて行けたら良いのになって、そう思ってしまうのは何故なのだろうか。
「私だって……」
しかしその続きを口にしようとしたところで、メリアはハッと気が付く。
そして勢いよく立ち上がると、ニコニコと微笑んでいるミナスを鋭く睨み付けた。
「……って! だから私は人魚じゃないってば!」
危なかった。もう少しで「私だって人間と仲良くしたいです」と自白するところだった。
「うわー、残念。もう少しでメリアが正体を白状するところだったのにな」
あはははは、と笑う男の何と恐ろしい事か。まったく、油断も隙もあったもんじゃない。
「人魚、人魚って! しつこいな、ミナスはっ!」
そう悪態吐いてからクルリと踵を返せば、「夕食の時間には遅れずに食堂に来るんだよ」とミナスから声が掛かる。
それに軽く返事をしてから、メリアはミナスを残し、一人でその場を離れる。
「……」
『人魚と仲良くなりたいって、そう思うよ』
沈みゆく太陽を眺めるメリアの脳裏に浮かぶのは、先程のミナスの言葉。リオとは違った、人魚に対する友好的な感情。
(その言葉、リオに言って欲しかったな)
別に誰が何と言おうと関係ないハズなのに。人間が人魚に対してどんな感情を抱こうが、メリアには何の関係もないハズなのに。それなのにその言葉をミナスじゃなくってリオに言って欲しかったと、そう望んでしまうのはどうしてなのだろうか。
太陽のような明るい笑顔が印象的なリオ。沈みゆく太陽に、彼の笑顔を恋しく想うその理由を、彼女はまだ知らない。
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