第3話 鏡の中の対照
狭間世界というのは、祐樹にとってどんな世界なのだろうか?
さすがに何でもありというわけではないと思っている。
夢と現実世界の間にあるもので、夢か現実か、どちらに近いのか分からない。
ただ、その両方の間にあるものだということは分かる気がする。
祐樹は、自分の前と後ろに鏡を置いたシーンを想像していた。これが一番狭間世界というものを表現するのにふさわしいと思っているからだ。
目の前の鏡には自分が写っている。目はその鏡に集中していて、神経も集中している。他に気を散らすものなど存在するわけもなく、この状況に陥れば、誰でも目の前の鏡以外は見えなくなるに違いないと思えた。
写っている自分の後ろに、鏡が写っている。その鏡には、背中を向けている自分が写っている。そして、その向こうには、こちらを向いている姿が写っている鏡が写っている……。
つまりは、鏡を使って、永遠に自分が映し出されるという発想である。
ただ、そこで素朴な疑問が生まれてきた。
――最後まで行けば、俺の姿は消えてしまうのだろうか?
確かに半永久的に映し出される自分の姿は消えることがないように思う。しかし現実としてどんどん小さくなっていって、すぐに見えなくなる。見えなくなったからといって、その存在を否定することは乱暴だ。むしろ不自然である。そう考えると、もう一つの発想が生まれてきた。
ある大き目の箱が目の前にあり、その箱を開けると、その中には少しだけ小さな箱が入っている。その箱を開けると、またその中には箱が……。
そうやって考えると、どんどん小さくなる箱ではあるが、決して箱の中の箱はなくならない。もちろん、どんどん小さくなってくるのであるから、そのうちになくなってしまうのは間違いない。事実はそうでも発想は違っている。
夢の世界ではきっと、箱はなくなってしまうに違いない。自分の中の常識が、
――箱はなくなるんだ――
と言っている。
潜在意識が見せるのが夢なのだから、常識に従うとするならば、箱はなくなってしまうだろう。
夢の世界でも現実世界でも、プロセスはどうあれ、結果は同じことになっている。
では、狭間世界ではどうなのだろうか?
――現実と夢が箱の絵は半永久的を否定したのなら、狭間世界では肯定するに違いない――
と思えた。
そうでなければ、狭間世界の存在意義はないからである。いちいち夢の世界や現実世界での結果としては同じになる出来事を否定する世界が存在するのであれば、それは毅然として二つの世界を否定しなければいけないからだ。
ただ、狭間世界は創造なのだ。誰にも証明できるものではない。
狭間世界という発想は、祐樹の独特な発想にとどまっているのか、それとも、他の人も意識していて、誰も口にしないだけなのか分からない。夢の世界の話は、ハッキリ覚えていない夢であっても、誰もが認めている。
寝ている時に見る夢と、起きていて見る夢とでは発想が違っているように思えるが、寝ている時に見る夢も潜在意識のなせる業だとするならば、起きていてみる夢のように、何かを目指して見るものなのかも知れない。
つまりは、覚えていないのは、目指していることが夢の中だけで実現されてしまったからではないだろうか。現実世界での夢というと、実現させてしまうと、その夢は消滅してしまう。そこから新しい夢を目指す人もいるだろうが、いったんはリセットされて、達成感に変わることだろう。
達成感を味わうために夢を見るものだと考えれば簡単であるが、実際にそうではない。達成してしまって、夢がそこで終わってしまうと、達成感とは別の空しさを感じることがある。
それは脱力感に繋がり、精神的に鬱状態に陥ってしまうこともある。
「夢というのは達成するために見るのではなく、夢を見続けるために見るものなんだ」
と言っている人がいたのを思い出した。
その時は、何を言っているのかよく分からなかったが、今から考えると、
――脱力感からの最悪な場合に、鬱状態に陥ることが分かっていたのかも知れない――
と思った。
ただ、この時の鬱状態は、普段感じる鬱状態と同じものなのだろうか?
達成感から感じる鬱状態、感じたことはないが、鬱状態というのには陥ったことはあった。
その時は二週間ほどで戻ったが、すぐに躁状態に入った。
――何をやってもうまくいきそうな気がする――
これもそれまでに感じたことのなかったものだ。
鬱状態から普段の状態に戻らずに、一気に躁状態に入り込んだ。駆け抜けるとはこのことではないだろうか。
祐樹はこの時、鬱状態から躁状態、そしてまた鬱状態へと、普段の状態に戻らずに、この状態が少しループした気がした。
――俺の精神状態はどうかしてしまったんだ――
と思ったほどで、でも気が付けば夢の中で、自分は平常心だったような気がする。
そのことを感じると、スーッと気が楽になって、躁鬱のループを抜けることができたのだ。
ただ、この時に自分が普段の冷静な自分になっているという夢を見たというのを、覚えている。今では完全に忘れてしまっているが、内容まで具体的なくらいその時は覚えていたのだ。
――あの時の冷静な気持ちって、本当に夢だったんだろうか?
狭間世界という発想を思い浮かべた時、この時の躁鬱ループを思い出した。
この時の躁鬱ループがあったから、狭間世界という発想が思い浮かんだのではないかと思うようにもなった。
それが夢と現実世界の間にあるものだという発想はさすがにその時にはなかった。
――まったく違う次元のものが果てしない虚空に広がっている――
と感じたのだ。
夢と現実の狭間だという発想は、
――夢は現実世界と結果は同じものでも、夢で見たことは目が覚めるにしたがって忘れてしまう――
という発想からだった。
夢の世界では、覚めてしまうと現実世界への関わりを全否定してしまう。しかし、狭間世界では忘れることはない。だから、
――ひょっとすると、現実世界で起こった出来事だと思っていることでも、本当は狭間世界のものでないだろうか?
という発想が生まれたのだ。
そういう意味で、現実世界にも関わりがあり、夢の世界にも関わりがある狭間世界という発想になったのだ。
――夢の世界を覚えていないのに、どうして俺は夢の世界と関わりがあると感じたのだろう?
その思いは、夢の世界というのは誰もが意識していて、他の人も感じていることであり、会話にも上がってくることであるのとは反対に、狭間世界の話は誰もしない。そう思った時、
――誰もが狭間世界を持っているが、その世界は夢の世界だと思い込んでいるからではないか?
と感じたからだ。
――夢の共有――
という発想を持ったことがある。
自分の夢に他人が出てきた時、その人が自分と同じ夢を見ているのではないかと思ったのだ。
そんなバカなことはないとは思ったが、相手に、
「昨日、お前俺の夢に出てきたぞ」
と聞いたことはない。
なぜなら、肝心な夢を目が覚めてから忘れてしまったからだ。
「どんな夢だったんだ?」
と聞かれても、覚えていないものを、何といえばいいのか分からないからだ。
夢の共有という発想は、
――ひょっとすると、自分だけではないかも知れない――
と感じたことがあった。
しかし、こんな話をしても、誰が食いついてくれるというのか、祐樹は子供の頃からあった発想を、表に出すこともなく、一人で抱えていたのだ。
それでも、中学に入りグループができると、
――話をしてもいいかも?
と思える人ができた。
それは、最初瀬戸だと思っていたが、瀬戸は思ったよりも現実主義的な人間で、下手に話すのは得策ではなかった。
――では誰ならいいんだろう?
と思っていろいろ考えると、思い浮かんだのは天神だったのだ。
天神という男は、天真爛漫なところがあるが、祐樹には天真爛漫というよりも、八方美人に見えていた。どこかわざとらしさが感じられるようで、それを思うと、祐樹は自分が捻くれていることを感じた。
――何を今さら――
と感じたが、自分が人を偏見で見たりするのも無理はないと思っていたはずだ。以前いじめられっこだったことで、委縮してしまい、誰かがそばを通っただけで、何か攻撃されるのではないかという危惧をいつも抱いていたからである。
天神はいつも笑顔だった。瀬戸はあまり笑顔を見せることがなく、いつも冷静で、その分、信用もできていた。
――もし最初に出会ったのが、天神だったらどうだたんだろう?
グループの最初にできた友達が瀬戸だったことで、瀬戸のいいところばかりを見ていて、正直、彼の悪い部分を見ようとはしていなかったように思う。今でも瀬戸に対して疑問がないわけではないが、すぐに打ち消すことができるほどの軽い疑問だった。
しかし、その疑問は自分で作り上げ、勝手に納得しているだけの自分本位の考えであった。本当の瀬戸を見ようとはしていなかったことに初めて気付かされたのは、天神に出会ったからだろう。
天神に出会って最初に感じたイメージは、あまりいいものではなかった。
――よく言えば天真爛漫、悪く言えば八方美人――
八方美人は誰にでもいい顔をして、信用できないと考えていた。それこそ、「コウモリ」の話である。
実際にグループを結成してそろそろ一年が経とうとしている今、天神が入ってきてからもそろそろ半年になろうとしている。グループ結成の一年くらいは自分の感覚に近いものがあったが、天神が入ってきて半年も経っているなど、
――もうそんなになるのか?
と感じさせるいほど、時間が経つのが早かった。
しかし、この半年の出来事を思い出してみると、半年というのは妥当な期間だったように思う。半年があっという間だったと感じるのは、天神が入ってから感じる半年だったのだ。
やはり、その間に話をほとんどしていないというのが一番の理由だろう。祐樹の方から話をしに行こうとすることはないし、天神の方から来ることもなかった。
実際に天神は天真爛漫で誰にでも笑顔を見せているので、結構親密になる人もいるのではないかと思ったが、実際には天神と腹を割って話をしたという人はいなかったようだ。
天神を見ていると、孤独という言葉とはかけ離れているように見えるが、実際には孤独を抱えている。天神ほど裏表がある人間もおらず、下手をすると、孤独が似合うのかも知れないとも感じた。
――孤独の似合う人間なんて、本当はそんなにいないのではないか――
瀬戸を見ていると、そう感じたことがあった。
そして、今度は天神を見ていると、
――本当の孤独とは、今まで感じていた孤独というイメージとは少し違っているのかも知れない――
と感じた。
孤独というのは、誰もが裏で持っているものなのかも知れない。表に出ている孤独は、本当の孤独ではなく、裏を見せたくないことで、演技をしているのではないだろうか?
もちろん、それは無意識のうちのことだろう。祐樹にしても、自分が孤独だと思っていたが、本当に表に出しているのかどうか、いつも疑問だった。苛められっこで委縮していた頃などは、孤独を表に出して、
「こんな面白くもないやつを苛めてもつまらない」
と言わせたかったのだ。
苛められっこが最初に考えるのは、
――苛められるのは仕方がないとして、どのようにすれば、最小限の苦痛で済ますことができるだろうか?
という思いである。
それにはまず相手を増長させないことである。下手に逆らって相手に面白がらせてしまっては、さらにエスカレートしてしまう。それよりもじっと我慢して、相手が、
――つまらない――
と感じさせることが一番だった。
そう思って攻撃を受けていると、意外と最小限の被害で済むものだ。抵抗しないことにまわりは干渉することもなく、苛めは日常の光景へとなっていくのだ。
苛められっこが抵抗しないのは、そういう思惑を持っているからだろう。苛められて抵抗するだけ無駄だということを知っているのだ。
それは苛めを受けることが宿命であり、逃れられないことを分かっているからで、
「どうして苛められっぱなしなんだ。いじめを受けるには理由があるはずだろう? それを究明して苛められないようにする努力をしないと」
と、まわりの人は無責任にも当たり前のことを当たり前にいうだけだ。
祐樹は正当理論を当然のように口にするやつが嫌いだった。どうして嫌いになったのか、しばらくは分からずに、
――嫌いなものは嫌いなのであって、聞いただけでも嘔吐を催すほどの嫌悪感を感じる――
と思っていた。
――でも、あの時、彼女が救急車で運ばれる時に言った言葉は、確かに当たり前のことを当たり前に言ったんだよな――
それを思い出した時、顔が真っ赤になるのを感じた。
――どうしてあんなことを口にしたのだろう?
今からでは想像もできないほど、まったく違和感なく言葉が出てきたのだ。確かに目立ちたがりだからだという意識があったのは覚えているが、それだけのことだったのだろうか?
今から考えると顔が真っ赤になった理由が分かる気がした。
――上から目線だったんだな――
冷静になって考えたからなんだろうか。今からなら分かる気がする。
しかし、
――本当にあの時、そのことを微塵も感じなかったんだろうか?
そんなことはなかったような気がした。
言葉は確かに無意識に出てきたものだったが、その言葉を一度は口にしてしまったが、自分で飲み込んでみて感じたのではなかったか。その時に感じたのは、
――出てしまった言葉はどうすることもできない――
ということであり、突っ走るしかなかった自分を、
――無意識だった――
として考えるしかなかったのだろう。
天神にいったいどう言って話をすればいいのか、最初のきっかけが重要だった。
しかし、それは取り越し苦労というものであって、危惧に対しての答えは、相手の方から持ってきてくれたのだ。
「やあ、若槻君。君とはあまり話をしたことがなかったけど、せっかく会ったんだから、何か話をしようじゃないか」
と言って笑った。
その日は、天神とどうやって話をしようかと思いながら、考え事をしながら歩いていた。ちょうど廊下の十字路あたりで、出会い頭に天神と出会った。
天神が気を付けて避けてくれたからよかったが、そのまま行けば正面衝突をしていた。二人とも歩いていただけなので、正面衝突したとしても大したことはなかったのだろうが、それでも出会い頭というのは、あまりいい傾向ではない。
「大丈夫ですか?」
どちらもビックリしたが、先に声をかけたのは、祐樹の方だった。ずっと意識していた天神が目の前に現れたことがビックリの一番の原因だったので、出会い頭に驚いている天神よりも先に声を掛けることができたのだ。
「ああ、大丈夫だよ。君こそ大丈夫かい?」
天神のその言葉に、どこか上から目線を感じたが、以前から、
――まわりの人は、皆俺よりも優れているんだ――
という妄想に憑りつかれていたこともあって、天神からの上から目線をそんなに億劫だとは思わなかった。
祐樹が天神の上から目線をスルーしたことで、天神も気が楽になったのだろう。一緒に話をしようという雰囲気になったのだ。
「ああ、そうだね。僕も天神君と話をしてみたいと思っていたんだ」
天神の誘いに快く答えた祐樹は、
――俺も上から目線になっても、問題ないんじゃないか?
と感じた。
ただ、上から目線になるということは、孤独を伴うような気がしたので、あまり今まで考えたことはなかったが、
――どうせ普段から孤独を裏に持っているのだから、今さら孤独を意識するというのもおかしなものだ――
と感じた。
「このことは、瀬戸には内緒にしておこうな」
と、最初に釘を刺すように言ったのは、天神だった。
それは自分も考えていたことなので、願ったり叶ったりで、異論はなかった。
「何の話からしようかな?」
天神は、暗に話を祐樹からするように促した気がした。
それは祐樹が何か話をしようという意識があったことを最初から分かっていたことで感じたことだろう。そう思うと、最初に話をしようと言い出したのも、彼から何か話があるわけではなく、祐樹に気を遣ったからなのかも知れない。
そう思うと、今まで感じていた天神に対するイメージを払拭して、新たなイメージを作り上げなければいけないと思った。今日がいい機会でもあるし、夢の話をすることで、
――ひょっとすると、天神の本心が聞けるかも知れない――
と感じた。
祐樹は、
「それでは」
と切り出したが、ここで少しの間があったのだが、この間を祐樹は結構長く感じられた。なぜならその瞬間、金縛りにあったかのように感じたからだった。
金縛りにあってはいたが、意識はしっかりしていた。天神がどんなリアクションを示すか見ていたが、その間まったくの無表情で、時間が止まってしまったかのように感じたほどだった。
――本当に時間が止まっていたのかも知れない――
止まったというよりも、凍り付いていたという方が正確ではないだろうか。凍り付いているのに、寒さで顔が歪むことはない。まったく無表情のまま、一瞬にして凍り付いてしまった印象だ。
そういえば、映画やドラマなどで、人が凍り付いてしまうようなシチュエーションがあるが、その時凍り付くまでに一瞬で、表情を変える暇などなかったかのようであった。
凍り付くというのが、人のセリフが極寒で、ジワジワ凍り付いていたのでは、そのイメージが伝わらないからであろう。それを思うと、凍り付くというのは、本当に凍り付くイメージの後ろに、一瞬にして固まってしまうような何かをイメージしていることを示しているようだ。
今回話をする内容は、極寒に匹敵するような内容に似ている。会話が成立しなければ、場は凍り付いてしまうからである。
祐樹はその意識はあったが、天神にあっただろうか?
天神の裏に孤独を感じていることで、その思いはあると思っていた。
――天神ほど、孤独が似合う人はいない――
と感じたのは、それだけ普段が天真爛漫でその分、何を考えているのか分からないからだ。
「天神君は、夢は見る方かい?」
「僕は見る方だと思っているよ。でも、そのほとんどは覚えていないんだけどね」
という天神の言葉に、うんうんと頷いた祐樹は、
――俺が感じていることを少なくとも天神も感じているんだ――
と思った。
これは、天神が自分に近い人間だから感じていることなのか、それとも天神にかかわらず、
――夢というものは、誰も口にしないが、同じような感覚のものだということになるんだろうか?
とも思えた。
「若槻君は、きっと夢のことを誰も口にすることがないので、何かタブーなものなんじゃないかって思っているんだろう?」
「うん、確かにそうだ」
「でも、そんなに深く考えることなんかないんだ。夢の話をしないのは、そんな難しい話をして、相手に引かれてしまっては嫌だという思いと、難しい話になると、相手を上から目線で見てしまうことが往々にしてあると思っているからではないかな? 要するに難しい話って面倒くさいんだよ」
天神の口から聞くと、まさに嫌な気がした。面倒くさそうに話をしているわけではないのに、面倒くさいという言葉が出てきたことで、一気に気分を害してしまいそうに感じたのだ。
だが、天神の本心はそこにあるわけでもないだろう。普段から天真爛漫で、人に気を遣っている様子を見ている祐樹には、天神の本心がどこにあるのか、想像もつかないと思えた。
「天神君は、正夢って信じるかい?」
「僕はあまり信じる方ではないかな?」
もう少し考えてから返事をしてくれるのかと思ったが、案外アッサリと返事をしてくれたことにビックリした。
「どうしてなんだい?」
「夢というのが、元々信用できないからさ」
「えっ」
その言葉は、祐樹にとっては意外なものだった。天神のような男にこそ、夢を信じているように思えたからだ。
ただ、そこには何の根拠も信憑性もない。ただ、自分と比較すれば、自分よりも信じているのではないかと感じただけだった。
祐樹も確かにあまり夢というものを信用していないが、それでも、正夢を信じるかと聞かれると、すぐに信じる方ではないという即答をするとは思えなかった。
「どうしてなんだい?」
と必ず言われるからで、そこに対してのそれなりの返答を用意しておかなければいけないと思ったからだ。
それなのに、天神は即答を返した。しかもその理由を一言で言ってのけたからだ。信用できないと言われてしまっては、いくら漠然とした返答であっても、彼なりの信憑性を持って答えているはずなので、そのことをぞんざいに扱うこともできず、会話の主導権を握られてしまいそうな気がしたのだ。
驚いてしばらくきょとんとしていると、天神の方から話しかけてくれた。
「何をそんなに驚いているんだい? 君は夢と言うものをまともに信じているのかい?」
「信じていないといえばウソになるし、信じていると言っても、ウソになる」
と答えると、天神はニコッと微笑んで、
「じゃあ、消去法でも中途半端なんだね?」
「そういうことになるかな?」
というと、
「僕も同じなんだよ。でも、僕の場合は消去法ではないので、最初から曖昧で中途半端なものなんだ。だから、そんなものは信用するに値しないと思っただけさ」
天神の言い分は至極当然のことだった。
――目からウロコが落ちた――
とはまさにこのことである。
「でもね。君の言っていた正夢という発想は、もし夢というものが信じられるものだという意識を持つことができると、十分にありえることではないかって思うんだ。だから、さっきの君への即答は、夢を信じていないという前提に立ってのものなので、それでは会話にならないだろう? だから、夢というものを信じられるという前提に立って、考えてみようって思ったんだ」
その言葉を聞いて、
――なんて素直な解釈なんだろう――
素直というよりも柔軟な考えだとも言えるだろう。ただ、彼は自分の考えを曲げてまで祐樹の話しに付き合おうというのだろうか? もしそうであるとすれば、
――天神という男、奥が深い男なんだな――
と感じた。
「そうしてくれると嬉しいな」
素直な相手には、素直に気持ちだけを伝えた。
祐樹の気持ちが分かったのだろうか、天神は笑顔を絶やさないでいた。
「僕は、夢を見た時を覚えていることが少ないんだけど、それは皆同じなのかな?」
と天神が言い出した。
「うんうん、少なくとも俺は同じ意見だよ。目が覚めるにしたがって忘れていくって思っているんだけど、君も同じなのか?」
「そうだね。そのあたりは皆共通のようだね。
「僕は、皆の会話の話題に、夢の話が出てこないのは、見た夢を忘れているからではないかと思っているんだけど、そのあたりも共通意識なのかな?」
「うん、そうだよ。夢の話をしても、思い出しながらの話になって、思い出しながらだと、せっかく覚えていたところまでも話をするにしたがって、忘れてしまっていくような気がしているんだ」
天神の話は、祐樹を会話に引き込んでいった。
天神が次に何を言うかということが分かっているような気持ちになっている。
――俺ってそんなに相手の話を理解できる方だったのか?
と感じたが、相手が天神であると思うと、逆に天神の話から、
――こちらが無意識のうちに、会話に誘導されているのではないか?
と思えてきた。
それは別に嫌ではない。むしろ誘導されることに心地よさを感じるほどだ。自分が相手の次にいう言葉を想像できると感じるほどなのだから、よほど天神という男は、
――相手を見ながら行動や会話のできる人間なのだ――
と感じるのだった。
「僕の場合は、覚えている夢がないわけではないんだけど、それがどんな夢なのかハッキリとしないんだ」
「覚えているのにかい?」
「ああ、覚えていると言っても、目が覚めてから少しの間だけのことなんだ。一歩表に出ると夢のことは忘れてしまっている。思い出せそうなんだけど思い出せない。きっと思い出したとしても、それがその日の夢のことだったなどというのは分からなくなっているんだって思うんだ」
「どういうことなんだい?」
「夢は、覚えていないだけで、忘れてしまったわけではないと思うんだ。記憶の中のどこかには存在していて、そこは実に煩雑に置かれている。煩雑でないと収納できないのかも知れないけど、そのために思い出したとしても、時系列はバラバラで、いつのことだったのかということは、まったく分からないんだって思うんだ」
「俺も、夢は忘れてしまっているものではないと思うよ。記憶の奥に封印されているという思いを抱いているんだ。そしてその封印されているところは、元々秩序や意識の働くところではない。ただの収納庫でしかないと考えると、そもそも時系列なんて発想が生まれてくるはずもないって思うよ」
祐樹は、天神と話をしながら、お互いに話題を出して、出した話題に添えた話を、相手が補って、さらに完全なものにしているように思えた。
――一人で抱え込んでいるよりも、最初から話をしていればよかったかも知れないな――
と祐樹は感じていた。
ただ、それも相手が天神だからよかったと思うだけで、他の人だったらどうだろう?
今、思い起こして話をできる人を想像してみると、
――瀬戸以外には考えられないな――
と思ったのだ。
――瀬戸だったら、どういうんだろうな?
と考えたが、それよりも、どうして今まで瀬戸とこういう話をしてこなかったのかということを不思議に感じる祐樹だった。
瀬戸のことを思い浮かべていたが、彼と一緒にいない時に、彼のことを思い浮かべたことが今までにはなかったような気がした。
元々、一人でいる時、他の人とのことを想像するということがあまりなかった祐樹だった。
それは小学生の頃に苛められっこだったという意識が残っていて、無意識に萎縮していしまうことで、一人でいる時に、他の人のことを思い浮かべるのは、邪念が入っているからだというように感じていたからだった。
ただ、瀬戸の場合はそれだけではなかった。
――瀬戸にはカリスマ性を感じる――
という思いがあったからで、カリスマ性を感じさせる彼のことを想像するのは失礼に当たるというような思いもあったからだった。
それなのに、目の前に天神がいて、天神と話をしている時に、瀬戸のことが頭をよぎった。
瀬戸と天神は、祐樹にとって他の人とは違って特別な存在であるということは共通しているが、その存在感は、それぞれに違っていて、相容れるところがないように思えるほどだった。
祐樹にとって瀬戸と一緒にいる時は、天神の存在は頭の奥に封印し、天神と一緒にいる時は瀬戸を頭の奥に封印しているつもりだった。それなのに、どうしてここで瀬戸のことを思い出してしまうのか、自分が分からなかった祐樹だった。
――そういえば、今日誰かの夢を見たような気がするが、そこに出てきたのは、天神だったか、瀬戸だったか――
どちらかが出てきたという意識はあるのだが、そのどちらだったのかが思い出せない。逆に思い出せたとすれば、その時の夢の全貌が分かりそうな気がした。それを思うと、今度は、
――天神だったのか、瀬戸だったのか、きっと思い出せないに違いない――
と感じた。
――さっき、正夢の話をいきなり切り出したが、それは夢に出てきたのが、天神だったら、と感じたからなのかも知れないな――
と思った。
天神に会って話をしているのも、無意識ではあるが、何も考えを持っていないからではないかも知れないと思うと、天神が正夢についてどう思っているのかということが祐樹にとって大切なことだと思ったのだ。
ただ、祐樹が正夢という言葉を最初に口にしたのは、ただの偶然ではないと思っている。それは、
――今日、こうやって天神と夢の話をすることになるとういうのは、以前から感じていたことだったような気がする――
と思ったからだ。
それが祐樹にとっての正夢であり、祐樹がそれを正夢だと信じるには、その根拠として、天神も正夢というものを信じていることが必要だと感じたからだった。
「正夢というのは、そうやって考えると、これから見る夢なのかも知れないって感じることもあるんだよ」
天神は妙なことを言い出した。
「どういうことだい?」
「夢を格納する記憶の奥があって、そこに時系列が存在しないのだとするならば、同じ夢を見ることだってあるだろう。格納している場所はあくまで自分の中なので、まだ夢として見ていないこともある。格納している意識の中にあるものと、現実世界で起こったことが酷似していれば、ひょっとすると、その日の夢に今日起こったことが出てくるかも知れない。それを時系列が曖昧なため、見た夢が現実よりも先だったのか後だったのか分からないことが、正夢という現象を引き起こしているのかも知れないと思うんだ」
なかなか難しい発想である。
しかし、その話を聞いた時、祐樹も一つ閃いた。
「デジャブという、以前に見たことがあるような気がするものを見ることがあるんだけど、それも記憶の奥の封印に時系列がないことで引き起こされた現象なのかも知れないと思うんだけど」
というと、
「それもいえるかも知れないね。でも、僕はデジャブと夢とは直接関係がないと思うんだ。何か根拠があるわけでもないんだけどね」
と言って、笑った。
「デジャブと夢が関係ない?」
「ああ、夢と呼ばれているものとは関係ないと思っているんだ」
「じゃあ、夢と俺たちが呼んでいるものと違う夢が存在しているということなのかい?」
「これも根拠も信憑性もないけど、何となくそんな気がするんだ。どちらも寝ている時に見るものなんだって思うんだけど、夢と呼ばれている世界と、現実世界の間に、何かワンクッションあるんじゃないかってね」
それは、祐樹が創造した「狭間世界」の発想ではないか?
「それはどんな世界だって思うんだい?」
「僕は、その世界が、本当の夢なんじゃないかって思うんだ。つまりは、目が覚めるにしたがって忘れていくものだってね」
「実は俺も似たような発想を持っていて、俺は勝手にそれを『狭間世界』って呼んでいるんだけど、天神君の考えている世界も同じようなものなんだろうか?」
「きっと似たようなものなんじゃないかって思うんだ」
「じゃあ、君は狭間世界と夢と呼ばれている世界とでは、どの辺りが違っていると思っているんだい」
天神は、ここで少し考えた。
きっと話をしている相手も、同じような発想を持っていると分かり、簡単に返答はできないと感じたからではないかと思った。さっきまで二人の間の優位性は天神にあったのだが、このあたりから、二人は対等に変わってきたように思える。さっきまでの立ち位置との違いに、祐樹は少し戸惑っていた。
「正直、よく分からないんだ。でも、どちらかが、他の人と共有することができるものではないかって思うんだ」
「それは俺も思っている。そして、どちらかというと、狭間世界ではなくて、一般的に夢と呼ばれている方だって思うんだ」
祐樹の口調は軽かった。ただ、その言葉にはさっきまでと違って重みがあるのを感じていた。その重みが二人の間の距離をもっと縮めたような気がした。
いや、距離が縮まったわけではない。距離という概念ではなく、他の人たちから遠ざかったというイメージが一番適切なのかも知れない。二人だけの世界が、他の人に見えているのかどうなのか分からないが、見えているとしても、特別なベールに包まれていることに気付いていないだろう。
「そのあたりは少し僕と違うかな? 僕の場合は狭間世界こそ、他の人と共有できているんじゃないかって思うんだ」
「その根拠は?」
「根拠があるわけではないんだけど、一般的な夢と呼ばれているものだけが表に出ていると思っている人が多いんじゃないかって思うと、信憑性が高いのは、普段表に出ていない方が、共有に値するものでないかって思うんだ」
「なるほど、天神君は正統派な意見なのかな?」
「そうかも知れないですね。より妥当な方がどちらなのかということをいつも考えているからね」
その話を聞くと、祐樹は少しガッカリした。
――ひょっとすると、天神のようなやつの方が、改革的な考えを持っているんじゃないかな?
と思っていたからだ。
ただ、ガッカリしたのは一瞬で、改革派的な考え方を持っているのは自分なので、お互いに改革的な考えを戦い合わせて、果たして望んでいるような方向にいくのかどうか、それが疑問だった。
どちらかというと、一般論的な相手との話の方が、自分の改革的な考えがより目立って考えられて、異端児的な性格が表に出ることで、相手に対して優越性を保てると思えたからだった。
これまで祐樹は天神に対して、少し距離をおいていた。彼の場合は誰にでも好かれる性格で、それだけに人と同じ考え嫌う祐樹は、彼と一緒にいると、彼に引き込まれてしまうかも知れないという考えが頭をよぎっていたのだ。
――逃げていたということだろうか?
人と関わりたくないという考えを祐樹が持っているということを、他の人はウスウス感じていると思っていたが、天神を見ていると、そのあたりがどうなのか分からない。そう思って天神を観察いていると、彼のことがどんどん分からなくなっていった。
彼のことで見えたことといえば、
――天神を見つめれば見つめるほど、その奥にある霧が深まってきて、見えないように煙幕を張っているかのようだ――
というものだった。
そう思っていると、天神の方が祐樹に対して興味を持っていることに気がつき始めた。彼の視線を感じるようになった時期があり、その頃はグループの中での自分の立ち位置に疑問を抱いていた頃でもあった。
まさか、このような話を天神とできるようになるなど、想像もしていなかっただけに、本音は嬉しいと思っている。
――いや、こんな話をできるとすれば、それは天神しかいない――
とも思っていた。
瀬戸ともこういう話をしてみたいという気持ちはあったが、瀬戸と話し始めると、きっと彼の中に取り込まれる形で、自分の存在価値が消えてしまいそうに感じたからだ。それだけ瀬戸のカリスマ性は強力なものがあり、それでも彼のそばにいることが自分にとって一番いいという考えは、衰えることはなかった。
天神が正統派の考え方を持っていると分かると、祐樹は余計に話しやすくなった。
天神が唱える正論に、自分が反対意見で対応すれば、会話は果てしなく続いていき、どんどん発想が膨れ上がってくるように思えた。
もちろん果てしないなどありえないのだろうが、
――結論が出るはずはない――
という思いを最初から抱いておくことで、有意義な時間を過ごすことができるはずである。
二人の会話は、次第に永久性の話に辿りつく。
「若槻君は、夢の世界も狭間世界も永遠に続くものだって思っているのかい?」
「そうだね。狭間世界という発想は最初からあったわけではないけど、現実世界と夢の世界は永遠に続くものだって思うんだ。というよりも、現実世界が終われば夢の世界も思ってしまう。そういう考え方かな?」
「現実世界はずっと続いていくという発想は分かるけど、夢の世界はどうなんだろうね?」
「夢の世界というのは、潜在意識が見せるものだという話を聞いたことがあるんだけど、それって現実世界で感じていることも潜在意識だとすれば、現実世界がなければ夢というのも存在しないことになるよね。だとすると、逆に現実世界の存続は、夢の世界にかかっているともいえないだろうか?」
「それは極端な考えだって思うんだけど、どうなんだろう? でも、一つ感じているのは、今の話を裏付ける考えなんだけどね」
「どういうことなんだい?」
「夢は目が覚めるにしたがって忘れていくでしょう? どうしてなのかって考えたんだけど、それは、同じ夢を二度と見ないようにするためなんじゃないかって思うんだ」
「それは現実が時系列に沿って、前に進むしかなくて、まったく同じことが起こるはずはないという基本的な根拠に基づいていると考えていいのかな?」
「そうだね。夢だったら何でもありだって思っていた頃から比べれば、今は夢に対してかなりシビアに感じているんだけど、同じ夢を二度と見てはいけないと考えると、夢の中にはないと思っていた時系列がしっかり存在しているんじゃないかって思うんだ。そしてそれが現実世界と密接に関わっていると思うと、それなりの根拠のようなものであってもいいんじゃないかな?」
祐樹は饒舌だった。
天神の意見もさっき感じた、正統派な意見ばかりではないかのようにも感じる。
「ねえ、若槻君。天神君はさっき話していた狭間世界についての考えというのは、いつ頃から持つようになったんだい?」
「俺は小学生の頃、苛められっこだったんだけど、その時にいつも『夢の世界に逃げられたらいいな』と感じていたんだ。でも、夢の世界についていろいろ考えてくると、少し夢に疑問を持ったんだ。夢というのは目が覚めるにしたがって忘れていくだろう? ほとんどの夢が目が覚めてしまうと覚えていない。夢を見たという意識すらないこともあるんだ。俺は夢というのは、毎日見るものだって思っていたことがあったんだ。だから、夢を見たという意識も忘れてしまっていることもあるんだって感じると、じゃあ、夢を何のために見るのかを疑問に感じるようになったんだよ」
「なるほど」
「それで、夢を覚えていないということは、現実世界で感じたことが夢の中で違った形で現われて、夢から覚める時に、現実世界のその出来事に変換されてしまうことで、同じ記憶がよみがえらないように、夢の記憶は封印されるんだって思ったんだ」
「かなり屈折した考えに見えるんだけど、でも、そうやって話をしてくれると、分かりやすく感じるよ。きっと若槻君も人に話すことで、頭の中が整理されてきたんじゃないかな?」
「そうだね。それに相手がしっかり聞いてくれる人だと思うと安心していろいろ考えることができる。人によっては、こんな話はするだけ無駄だと思って嫌悪感を抱く人もいるかも知れないからね」
「じゃあ、若槻君は夢も同じように本人と一緒に成長するものだって思っているのかい?」
「そうだよ。だから俺は夢の世界も現実世界に近いと思って、共有できるものではないかって思ったんだ」
「現実世界は決して共有しているとはいえないと思うけど?」
「だからこそ、夢の世界で共有しているんじゃないのかな? そしてその共有しているという意識を現実世界に持ってきてはいけないので、夢は目が覚めるにしたがって忘れていくものなんじゃないかって考えるんだ」
「なるほど、若槻君の意見は奇抜な発想ではあるけど、筋は通っているように思う。僕も十分に共感できる部分はあると思っているよ」
天神はそう言って、微笑んだ。
「現実世界も夢の世界も、人一人一人で違っているはずなんだけど、そうとは感じさせないのはなぜなんだろうって考えた時、別にもう一つの世界が存在するんじゃないかって思ったんだよ」
と、祐樹がいうと、
「それがさっき君が言っていた狭間世界というものなんだね?」
「ああ、そうなんだよ。こんなことを考えているのは俺だけなのかも知れないって思っていたんだけど、天神君なら似たような発想を持っていそうな気がしたので、今日は話をしてみたんだ」
「そうだったんだね。若槻君はその狭間世界というものの存在をいつ意識したんだい?」
「いつ頃だったかな? 小学生の頃に苛められっこだったって言ったけど、その時には意識はなかった。ひょっとすると、中学に入って瀬戸とグループを作った頃から、こういう発想が生まれたような気がするんだ」
と祐樹がいうと、天神も、
「僕も中学に入ってからじゃなかったかな? 何かのきっかけがあったというわけではないんだけど、あったとすれば、若槻君と知り合ってから感じるようになったのかも知れないな」
「俺の影響があったということ?」
「ああ、若槻君は自分で意識していないと思うけど、君は結構人に影響力を持っているんだよ」
「どういうことなんだい?」
「僕の場合は、君と知り合ったことで、何か自分の中にくすんでいるものがあることに気付いたというところかな? それが何なのかは分からないんだけど、若槻君が萎縮するような態度を取るたびに、何かが自分の中で閃いたような気がしていたんだ」
「天神君は俺の萎縮している態度に気付いていたのかい?」
「本人は気付いていないんだろうけど、結構分かりやすいんだよ。だから、そんな時はなるべく誰も君に近づかないようにしているんだ。君は寂しいとは思わないタイプなのだろうから、意識はないんだって思うけどね」
「そうだな。俺は寂しいという思いはないけど、孤独は感じることがある。孤独を感じても寂しいと思わない自分を不思議に思うこともあったけど、何か意識しない中で、俺は寂しさに感覚がマヒしてくるようになったんだろうな。その反動になっているのが、無意識な萎縮なのかも知れないって感じるんだ」
「その時に、きっと狭間世界というものを意識したんじゃないのかい?」
「そうかも知れない。俺に対して見えない力が自分を正当化させようとしていることに気がついたんだ。本当であれば、まわりの人に分かってもらいたいと思って、少しでも目立とうとするんだろうが、そうではないようなんだ。自分を正当化させようとすると、狭間世界を意識するようになったことを自分で認めることになるんだ」
「君は、狭間世界の存在を肯定したいのかい? それとも否定したいのかい?」
「俺には分からない。肯定してしまうと、その代わりに何かを否定しなければいけなくなりそうで、それが怖いんだ」
「じゃあ、どうして、狭間世界の話を僕にしてくれたんだい?」
「天神君なら、その答えを知っているような気がしたんだ」
「ということは、君は僕が君のいう狭間世界の存在を理解していると感じたんだね?」
「そうなんだ」
「でも、一口に狭間世界といっても、お互いに見ている方向が違っているかも知れないんだよ。話をしていて噛み合わなくなったらどうするつもりだったんだい?」
「そこまでは考えていなかったけど、ただ、この話は君にはしておかなければいけないような気がしたんだ」
「実は、今日僕は夢を見たんだけど、いつものように目が覚めるにしたがって忘れてしまったんだ。でも、今は何となく覚えているような気がするんだ。シルエットのその先にいるのが、若槻君だったんだよ」
「今日のこの会話が、夢で見た記憶だって言いたいのかい?」
「君が最初に言った正夢そのものじゃないか。でも、少し違っているんだ。君は確かに僕の夢に出てはきたんだけど、その夢というのは、女の子に怪我をさせるというもので、まるでこれから起こることを暗示しているかのようだったんだ」
その時の天神の話が頭に残っていたことで、派手好きな女の子が怪我をさせられるという事実に行き当たるまで、意識は継続していた。
祐樹は天神との話しに集中し続けていたことに気付いたのも、彼が、
「実は」
と切り出したこの時だった。
それまでは一気に話が盛り上がり、お互いの意見を戦わせていたが、途中で小休止が入ったのだ。このタイミングがよかったのか悪かったのか祐樹には分からないが、分かったところでどうなるものでもない。急に頭が冷めてきたような気がして、そうすると、今度は頭の中に邪念が生まれてきた。
――どうしてこんな時に――
思い出したのは、瀬戸のことだった。
ただ、頭の奥にシルエットでもう一人いるのに気がついた。それは男性ではなく女性であった。
――どうしてこの人を?
普段から意識していなかったわけではないと思うが、それは影響力のある意識ではなく、好き嫌いの類でもなかった。それだけに祐樹には、なぜその人がシルエットの向こうにいるのか、よく分からなかったのだ。
その女性はシルエットから派手好きな女の子であることは分かったが、どうも普段から知っている彼女ではないような気がした。
――何となくだけど、大人の色香のようなものを感じる――
普段から、同年代の女性に興味を抱くことはない祐樹にとって、大人の色香は自分を惑わすに十分な存在だった。
――大人の色香漂う女性に誘惑されてみたい――
などと大それたことを思っていた祐樹だったが、それは今まで出一番恥ずかしい思いであり、表に出すわけにはいかないものだった。
シルエットを見ていると、その向こうに見えている世界について、
――これは夢の世界なんじゃないだろうか?
と感じた。
起きていて夢を見るというのはおかしなものだ。しかし、意識が薄れていくのをさっき感じたような気がした祐樹は、自分がこのまま別の世界に行ってしまいそうな錯覚を覚えた。それが夢の世界なのか、それとも狭間世界のことなのか、どちらかは分からなかったが、どちらかであることは想像がついていた。
もしこれが祐樹の考えているように夢の世界か、狭間世界であるならば、
――そこに時系列を考える必要はない――
という発想が最初に浮かんできた。
それは、目の前に見えている女性がやはり自分の知っている女性で、あの派手好きな女の子であるということを示していたからではないだろうか。祐樹は彼女のことを別に恋愛対象に見たことは一度もない。最初に見た時、
――何てケバい女性なんだ――
と感じたほどで、そのことを感じたことから、すでに彼女に対して女性としての感情を抱くことはなかった。
祐樹が好む女性のタイプというのは、あくまでも控えめで癒しを与えてくれるような女性がよかった。
裏を返せば、
――派手目の女性は男性の目を惹くに違いない。だから、そんな女性が俺に対して男性としての感情を抱くはずもなく、そんな女性に俺が興味を持つはずなどないんだ――
という発想だったのだ。
相手が上から目線だなどと思って、避けているというのは、一種の言い訳だった。自分が相手にされるはずがないという発想から、自分を正当化するための発想を思い浮かべていたに過ぎないのだ。
――もし、シルエットの向こうにいるのが派手好きの彼女ではなかったら――
という思いを抱いた。
祐樹には、それ以外の女性を思い浮かべるだけの気になっている女性はいなかった。一つの理由として、
――自分が好きになれそうな女性には皆、彼氏がいたりするに違いない――
という思いがあり、自分の想像の中で、相手の男性は瀬戸であったり、天神であったりする。それ以外の男性が彼氏という発想は自分にはなく、思い浮かべたカップルは、何とも理想のカップルだった。
相手の男性を自分だと想像してみたこともあった。あまりにも強引すぎるという思いがあったからか、相手の男性の顔を確認することができなかったのだ。
女性への思いは、中学に入った頃からあった。思春期への入り口としては、早い方なのか、遅い方なのか分からなかったが、女性を思うことで、自分が思春期に突入したことを実感していた。
それでも、自分には萎縮してしまうところや、寂しさは別にして、孤独には耐えられるという思いがあったことで、あまり女性を意識するということはしないでおこうと思っていた。
そんな時、瀬戸と知り合いグループを作ることで、自分にも他の人と同じようなことができるのではないかと思えるようになっていた。
しかし、
――他の人と同じでは嫌だ――
という思いも根強くあった。
その二つの心理が渦巻くことで、自分が堂々巡りを繰り返すのではないかと思っていると、ジレンマが生じてきたことを実感していたが、案外嫌ではなかった。
矛盾した考えが頭を巡っていたが、
「人は誰でも矛盾を抱えて生きている」
というセリフをドラマで見て、意味は分からないまでも何となく気になっていたことで、自分も同じ心境に陥ったことは、あながち嫌ではなかったのだ。
瀬戸や天神は、祐樹から見ると、
――実に正当性を自らが証明しながらまわりと付き合っていける人なんだ――
と感じていた。
ただ、自分にはそんな人間にはなれないことは分かっていた。なれないというよりも、なりたくないという心境が正しい思いなのかも知れない。
まず最初に仲良くなったのが瀬戸だったというのも、祐樹には気になるところだった。
――どうして、瀬戸だったんだろう?
と思うと、瀬戸と知り合う前と後とでどのように違っているのか、思い浮かべてみた。
最初は分からなかったが、すぐに感じることができたのだが、
――瀬戸と知り合ってから、俺も目立ちたいという思いが湧いてきたんだったんじゃないかな?
と感じた。
確かに、その思いが嵩じたのか、女性同士のわだかまりから怒った階段での転落事故の時、言わなくてもいいことを言ってしまった自分がいた。あの後、そのことに対して後悔の念が襲ってきて、恥ずかしさで顔が真っ赤になってしまった。
――どうして、俺はこんなになってしまったんだろう?
たった一度の過ちだったはずなのに、それから以降も自分は同じ過ちを繰り返し続けるような予感がした。
実際に同じような後悔の念を抱いたことは何度もあった。確かに自分は思春期を迎えて、自分の中の矛盾を感じるようになり、そのことで成長もしたと思うのだが、成長しきれない部分も感じていた。
それが、目立ちたがりの性格だった。
子供の頃から潜在していて、思春期になってから、溢れてきたと考えるのは無理なことであろうか。祐樹は自分が成長している部分と、成長しきれない部分を認識できているように思った。
しかし、それをどうにかできるほどの力が自分にはない。その力こそが「自信」ではないかと思っていたが、自信に関しては、子供の頃のトラウマから脱することができないでいう以上、持つことはできないでいた。
そうなると、自分で持てないのであれば、まわりから認めてもらうしかない。
その思いはどうしても、焦りに繋がり、時間的にも精神的にも余裕を持つことができない。
そのため、
――目立たなければいけないんだ――
というところに行き着いてしまう。
しかし、これが堂々巡りの正体であるということにまで気がつかなかった。しかも目立ちたいという思いは無意識にであって、自分の認識の中にはなかった。そのことが堂々巡りを容認してしまい、ずっと悩むことを祐樹に与えたのだ。
悩むことは悪いことではない。ただ、思春期の中で悩んでしまうと、間違った道に足を踏み入れてしまうと、抜けることができなくなるのではないかという発想が頭を巡り、結局、それが青春の悩みに変わっていくのだった。
その日、天神との話はそのあたりで終わっていた。後から思い返すと記憶はそのあたりまでしかなかった。
――でも、本当にそれで終わったんだろうか?
という疑問が残った。
ただ、残ったのは疑問だけで、疑問だけが残っても、そこには信憑性も何もないのだ。
「疑問というのは、解決するためにあるのではなく、新たな疑問を思い浮かべるためにあるんだ。だから、一つの疑問は解決しても次の疑問が湧いてくる。それが堂々巡りであり、その場合の堂々巡りは、潤滑油でもあるのだ」
という話を聞いたことがあった。
祐樹にとってその話は、夢の中にまで出てきそうな気がしていて、逆に、
――これは夢の中で聞いた話だったんじゃないか?
と感じたほどだった。
なぜなら、この話を聞いた記憶はあるのだが、この話を誰がしたのか、まったく記憶にはなかったからだ。
祐樹にとって、
――疑問は自分を成長させる上での糧のようなものだ――
と言えるだろう。
祐樹は、堂々巡りを繰り返していることに、ずっと不安を感じていた。
思春期になってから感じた堂々巡りであったが、
――今から思い返してみれば、堂々巡りというのは、思春期に入る前の子供の頃から感じていたような気がする――
と感じた。
堂々巡りについて考えていると、天神との話を思い出す。
――あの時、天神とここまで話さなかった気がするんだけどな――
と思っていたが、今になって思い出してみると、会話が想像できるのだった。これは記憶なのか想像なのか、祐樹には分からなかった。
「夢の世界というのは、俺は鏡に映った世界のように、この世とは左右対称なんじゃないかって思うんだ」
ここまでは話したような気がする。
すると、天神が面白いことを言った。
「左右対称ではあるんだけど、上下対象ではないんだよね」
「えっ?」
祐樹にとっては意外な言葉だったが、
「だって、左右対称なら、上下も対称であってもおかしくはないだろう?」
言われてみれば確かにそうだった。
――どうして気付かなかったんだろう?
祐樹はそう感じたが、
「でも、自分が横になってみれば、上下対称になるんじゃないか?」
と答えた。
どうしてその答えが導き出されたのか自分でもビックリしたが、天神は、
「なるほど」
と感心していた。
天神は続けた。
「確かにそうだよね。だということは、鏡に映し出されるものというのは、鏡が主役ではなく、映し出される被写体が主役ということになるんだね。そうおもうと、夢の世界というのも、主役は夢の中にある見えない鏡ではなく、被写体になっている、夢を見ている本人だということになるんだろうね」
「君の言うとおりだね。この発想も、僕が最初に話し始めて、その疑問をぶつけてくれることで、天神君が結論に導いたんじゃないかって思うんだ。このことについても、立場が逆だったら、まったく違った発想をしてしまい、別の結論を導き出しているかも知れないね。どちらが真実なのか、どちらも真実ではないのか分からないけど、僕は今導き出された結論を、一番信憑性の高いものだとして、真実だという意識を持っているんだよ」
その時の祐樹は、自分の意見に酔っていたようだ。
――そんな心境になったことで、記憶から消えていたんだろうか?
とも思えた。
祐樹は自分の意識の中で、記憶に残っていること、そして、欠落してしまったと感じながら、記憶の奥に封印されていることがあるなど、いろいろ考えるようになっていた。
――夢は、記憶の中から消えていて、欠落していると思っていたけど、本当は自分の尊信を隠したいと思っていることや、自分の考えに酔っていることなどで、表に出すのを躊躇っているようなことがある時、見るものなのかも知れない――
と感じた。
それによって、
――目立ちたい――
という自分の気持ちの表れが矛盾になってしまうことで、起きている時に、急に目立ちたいと考えるようになったのではないだろうか?
祐樹は、自分が目立ちたいと思う時というのは、本当の自分を表に出したいと思っている時だということを再認識した。
目立ちたいという思いは、その言葉を額面上で表現するのではなく、その裏にも同じような言葉で言い表せることがありながら、実際にはまったく違った思いが渦巻いていることを感じさせるに違いない。
祐樹は、時々自分が夢を見ているのか、現実世界にいるのか分からないことがあった。そんな時に、
――これが狭間世界なんじゃないか?
と感じることがあったが、どうもそうではないようだ。
狭間世界というのは、あくまでも想像でしかない。想像が生んだ創造なのだ。それをい思うと自分が覚えているものはすべてが夢であり、対象となるものが、現実世界に必ず存在しているという思いがあった。
――狭間世界は必ず存在する――
という発想はずっと残っていて、そこには現実世界との接点はなく、平行線を描いたように、
――別世界で、交わることのない線を描いている――
と感じるのだった。
祐樹は天神と狭間世界の話をしたのはその時が最初で最後だった。相手が誰であろうとも、狭間世界の話はこの一度きりだった。ただ、その間に想像が大きく膨らんだのは事実で、瀬戸と一緒にいる時や、天神と一緒にいる時であっても、頭にはいつも狭間世界の発想が渦巻いていた。
――じゃあ、他の人と一緒にいる時はどうだったのだろう?
祐樹は、その思いをいつも頭に描いていたが、他の人といる時は、狭間世界のイメージが湧いてこない。発想はあってもイメージが湧いてこないと、頭に思い描くことはできない。そのことを知ったのも、狭間世界を意識するようになってからのことあdった。
祐樹は中学、高校時代をあまり意識することなく過ごした。思春期を意識することがあったが、
――だから自分に何ができるというのだ――
という冷めた思いがあったのも事実で、実際に女の子を意識しても、女の子の方が意識してくれないことで、意識するのをいつの間にか止めていた。
――結局俺には何もできないんだ――
小学生の頃のような苛めはなくなり、まわりの人とも対等になったという意識はあるのだが、萎縮が残っているためか、どうしても一歩を踏み出すことができない。
しかも、女性を意識していて、女性からも意識されたいくせに、自分が意識していることを女の子に悟られるのを恐れていた。萎縮の気持ちからだと割り切ってしまうと、それ以上、自分を前に押し出すことはできない。それだけ矛盾を抱えてしまっていることを意識してしまうと、無意識に萎縮してしまうのだった。
――意識しているようで、実際にはまったく意識せずに、ただ時間をやり過ごしただけなんだ――
と考えると、時間をただ無駄に過ごしただけに過ぎないという思いが後悔を誘うが、実際にはそれほど時間を無駄に過ごしたとは思わない。
何も考えていないつもりでも、意識していないだけで、絶えず何かを考えていたような気がするのは、きっと中学高校時代を後から思い出すと、あっという間に過ぎてしまったと思うからだろう。
あっという間に過ぎてしまったという意識は、
――無駄に過ごしてしまった――
という思いから来ているのではないだろうか?
もしそうだとすれば、矛盾を抱えていながら、実は毎日を何事もなく過ごせたということへの喜びも含まれているのかも知れない。
小学生の頃は、
――何事もなく、今日という日が終わってくれればそれでいい――
と思っていた。
苛めが始まって、最初の頃は、
――いつまで、こんなことが続くんだろう?
という思いが強かったが、なかなか終わってくれないことが分かると今度は、
――いかに被害を最小限に防ごうか?
と考えるようになる。
そのうちに、相手から攻撃されるのは仕方ないとして、痛い思いをいかにすればしなくてすむか――
ということを考えると、
――相手が、苛めるのを嫌になればいいんだ――
と思うようになると、飽きるのを待つのが一番の得策だと思うようになった。
それには、逆らってしまうと、相手に増長を与えてしまう。野球でも速い球を打ち返す方が反動がついて遠くまで弾き飛ばせるが、相手が弱い玉を放ってくれば、こちらが力を込めなければ遠くに飛ばすことはできない。
それと同じ発想が苛めっ子と苛められっことの間には存在している。いわゆる正対するもの同士の力関係がものを言うのだ。
要するに、毎日すること、しなければいけないことが決まっているのだ。
そんな毎日というのは、その日はあっという間でも、長い目で見れば、遠い過去に思えてくる。
しかし、中学高校時代には苛めはなく、その代わり、思春期が襲ってきた。苛めのようにパターンが分かっているものに対しての対策と、思春期のように、どう対応していいのか分からない状態での対策とでは、まったく感じているものが違っている。
つまり中学高校時代は、一日一日が結構時間が掛かったかのように思えたのに、長い目で見ると、あっという間だったということである。
ただ、その中には、小学生の頃に思いもしなかった「狭間世界」という発想が含まれていることで、正反対の感覚になったのかも知れない。
しかし、祐樹にはもう一つの発想があった。
――現実世界と夢の世界の違いのようだ――
祐樹は、天神と話をした時に語った発想は、ずっとそのまま持っていた。
つまり、夢の世界と現実世界とでは、鏡に映った左右対称の世界だというイメージを抱いていたのである。
高校時代が終わって、大学に入学することで、それまでとはまったく違った感覚になったことで、祐樹はどちらかが夢の世界であり、どちらかが現実世界なのではないかというとてつもない発想を抱くようになっていた。
そういう意味では、あっという間に過ぎてしまった中学高校時代が、夢の世界ではないかと思えていた。思春期のように漠然とした発想で、何となく抱いたイメージが自分の毎日を形成していく。そう思うと、やはり中学高校時代という時間は、夢の世界での出来事だったかのように感じられた。
――じゃあ、現実世界でも、俺の人生は存在していたんだろうか?
もし存在していたとして、現実世界で生きてきたとすれば、今の自分はあっただろうか?
いろいろは発想が頭をよぎっては消えていくが、それは走馬灯とは違っている。同じような発想であっても、最初に感じたこととは違っている。一度として同じ発想が巡ってくることはないと思う。
大学生になってから初めて感じた躁鬱症、どうして、中学高校時代にはならなかったのか最初は不思議だった。思春期の状態の方が、躁鬱症のスタートとしては入りやすいのではないかと思うのは、単純な発想だった。
――中学高校時代、漠然とした毎日を過ごしているからだ――
と思っていた。そのうちに、
――思春期というのは、自分の知っている自分とは違う自分を初めて発見する時期なんだ――
と思ったが、その発想に間違いはないだろう。
だが、そのうちに、超額高校時代を夢の世界の出来事のように考えると、躁鬱になったわけも分からなくはない。
大学生になってから、一度、中学高校時代が夢の世界のようだったという発想に至ったことがあった。
その時には、狭間世界の存在は意識していたが、まったく次元の違う世界だと思っていたことで、現実と夢の世界という正反対の世界が入り繰っているように感じたのだ。
――夢の世界を生きていたのなら、現実世界を生きていた自分もいるはずだ――
と感じたことで、そこに、
――もう一人の自分――
の存在を意識せざるおえなくなっていった。
もう一人の自分というのは、左右対称の自分である。こちらが相手を意識している時は、相手はこちらを意識することができない。逆に相手が意識している時は、こちらは意識することができない。もう一人の自分は存在しても、意識までは二人分あるわけではない。同じ肉体には、一つの性格しか存在できないという潜在意識があったからだ。
だが、それでも、もう一人の自分を意識しないわけには行かなかった。もう一人の自分の存在がいろいろな疑問を解決してくれると思ったからだ。
祐樹は、大学時代の躁鬱症でもう一人の自分を発見したことで、鏡を思い浮かべた。その時に夢の世界と現実世界を比較した時、
――鏡に映ったもう一人の自分――
というものを、いまさらながらに感じたのだった。
祐樹は、大学生になってから、夢を覚えていることが多くなった。そして、
――どんな時の夢を一番よく覚えているのか――
ということが分かった気がしたのだ。
どうして今までこんなことが分からなかったのか、自分でも不思議だった。
――夢を忘れないのは、怖い夢を見た時だ――
恐怖というのは、なるべく早く去ってほしいと感じる。
小学生の頃の苛めにしてもそうだ。
――黙って反抗せずに我慢していれば、そのうちに飽きて苛めなくなるに違いない――
という発想と似ている。
早く立ち去ってほしいという思いから、
――今見ているのは、夢なんだ――
と思うようになる。
夢という感覚で逃げたくなるのだが、実際に夢なのだから、自分の感じていることは間違っていない。その思いが正解であると分かると、忘れる必要はないと思うのだ。
つまり、
――覚えている夢はすべて怖い夢なんだ。だから逆に、怖いと思うことはすべてが夢の世界の出来事なんだ――
という結論を導き出すことができるのだ。
そういう意味でも、
「夢というものが潜在意識の成せる業だ」
というのも、あながち町っているわけでもないだろう。
中学生時代のグループで、それ以降も付き合いのあるやつは誰もいない。高校に入学して一年ほどは、それぞれで連絡を取り合っていたが、一人が誰か連絡が取れなくなると、一人、また一人と少しずつ離脱していく。
――本当は、最初の一年のうちに、どこかで集会を開くくらいの気持ちがあれば、もう少し仲が続いていたのかも知れないのにな――
と感じた。
と言いながらも、実際に一番最初に誰かと連絡が取れなくなったことで気持ちが一気に冷めてしまったのは、祐樹だったのではないだろうか。高校受験を前に、皆それぞれがぎこちなくなっていったことは、それぞれ誰もが感じていたことだろう。
集会を開くというほど大げさなものでなくても、誰か一人に会ってみるだけでも結構違ったかも知れない。メールのやり取りくらいはしていたが、どうしても新しい学校で、環境に慣れるまでの緊張感を持続させるためには、過去の記憶は一定部分、シャットアウトしてしまう必要があったのではないだろうか。
大学時代の四年間、祐樹はあっという間だったように思えた。ただ、それも最初の二年間と後の二年間では感覚が違っている。最初の二年間は、毎日があっという間だったにも関わらず、過ぎてしまうと、結構長かったように感じた。しかし後の二年間は、毎日が結構長く感じたのに、過ぎてしまうとあっという間だった。これはまるで小学生の頃と、中高時代との違いによく似ている。
最初の二年間、別に誰かに苛められていたというわけではない。一番楽しいはずの時期だったはずである。
――この時期を楽しむために、高校時代、辛い受験時代を過ごしたんだ――
と感じたはずだ。
それでも、小学生の頃に感じた思いと同じだというのは、時系列的に節目を考えると、同じサイクルを過ごしているからではないかと思える。
もう一つの考え方として、あまりにも楽しみを膨らませすぎて、余計なことを考えてしまい、そのため、不安を必要以上に煽ってしまったからではないかと思えた。
気持ちに余裕があると感じた時は、豊かな発想を抱くこともできるのだろうが、余計なことを考えてしまうと、必要以上に考えがぎこちなくなってしまう。それは小学生時代に、相手に攻撃されることを恐れて、必要以上に萎縮してしまったことが身体に染み付いてしまっているのかも知れない。
祐樹は見た夢で覚えているのが怖い夢ばかりだと思っていたが、それは大学時代だから怖いと思うことであって、同じ夢を中学時代に見たとして、それを怖い夢だと感じるのだろうか?
祐樹が覚えている夢というのは、決まって中学時代の夢だった。小学生の頃の夢は出てこない。高校時代のこととなると、サッパリであった。
中学時代には、そんなに怖いと思ったことはなかったはずだ。誰かに苛められたりしたこともなければ、怖い思いをしたという意識もなかった。それは、今だから感じることで、夢に見ることで、その時怖いと思わなかったことでも、実際には怖かったということを示している。
中学時代の祐樹は、大学時代の祐樹と違って、非現実的だったように思う。夢や狭間世界の発想を抱いていたことからも、いつも何かを考えながら、それが何を考えていたのか、我に返った時には覚えていない。
――まるで夢を見たみたいじゃないか――
と思わせられた。
今に比べれば記憶力はよかったはずである。しかし、
――目が覚めるにしたがって夢を覚えているのか、それとも忘れているのかというのは、記憶力の世界とはかけ離れているような気がする――
と感じていたのも事実だった。
祐樹は、その時ふと感じたのが、
――寝て見るのが夢であって、起きている時に夢を見ているような感覚になるのが狭間世界ではないか?
という思いだった。
しかし、すぐに、
――本当は反対で、寝て見るのが狭間世界で、起きている時に見ているのが夢ではないか――
と感じた。
それは、両方が一般的に夢として感じているもので、狭間世界を意識させないように、――わざと目が覚めるにしたがって、夢を忘れさせようとする作用が働いているのではないか――
と、考えるようになっていた。
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