*⋆꒰ঌ┈ 8月6日:王者 ┈໒꒱⋆*


 今日は、雲一つない、抜けるような青空だ。


 僕は、窓のサンに飛び乗ると、いつもの場所にクロの姿を探したけれど、今日はまだ来ていないようだ。僕は、スズメたちを眺めながらクロを待つことに決めた。


 いつも通り五羽。草でかくれんぼしながら、楽しそうにはしゃいでいる。


 スズメたちも、厳しい世界を生き抜いてきたのだ。心から楽しめるのは、きっと怖い思いや悲しい思いをたくさん経験したからなのだろう。


「せっかく、この俺が挨拶してるというのに、相変わらずお前は、自分の世界に入り浸っているのか?」


 僕の心の中に、クロの声が響いた。

 慌てて姿を探したけれど、いつもの場所にクロの姿が見当たらない。


「見えないのか?」


 僕は、頭を網戸にぶつけながら下を見た。家の壁に近い、ちょうど死角となる場所に、クロは座っていた。


「クロ!」


 ようやく見えたけれど、この体勢はあまりに苦しい。クロに、いつもの場所に移動してもらった。


「これでいいか?」


「うん、ありがとう。ちょうど見えない位置だったんだ。」


 やはり、いつもの場所にいるのがいい。


「ねえ、クロ。ねぶた祭って知ってる?」


「ねぶた祭?」


 クロはキョトンとした顔を僕に向けていた。


「そう。ここ青森で、毎年八月二日から七日までやっているお祭。世界中の人たちが見に来るんだ。」


 僕は得意げにクロに教えた。


「僕もね、テレビでしか見たことはないんだけど、ねぶたっていう紙でできた大きい人形を引っ張って歩くの。凄いんだよ。近くで見てみたいけど、ちょっと怖いんだ。」


 クロは、興味深そうに僕の話を聞いていた。


「テレビ? 画像の映る箱のことか?」


「うん、そう。」

 僕は、大きくうなずいた。


「それなら知っている。人間の家の窓から見たことがある。……そうか、あれはテレビというのか。……人間の世界も楽しそうだな。」


 どうやら、クロは人間の世界に興味を持ち始めているようだ。瞳がきらきらと輝いている。


「お前と話せて、本当によかった。」


 クロは僕を見て穏やかに言うと、優雅に立ち上がり、ゆっくりと帰って行った。




 とても暑い日だった。


 その日は、僕にとって一生忘れられない日となった。


 ――坊主! 坊主! 聞こえるか!


 あまりの暑さに廊下のフローリングで涼んでいた僕の心の中に、しわがれ声が響いた。


「この声は……、」


 忘れられない、この声。

 お姉ちゃんの部屋の窓にとび乗ると、一台の車が路肩に止まっているのが見えた。声はそこから聞こえた。


「坊主、俺だ。」


 間違いない。あのレトリーバーだ。


「聞こえるよ!」


「坊主、俺はこれから親父さんの所にくんだ。この意味……、分かるな?」


 階段の手すりから落ちたときのような衝撃が、身体中を駆け巡った。


「お……、親父さんの所……?」


「ああ、そうだ。その日が来たんだ。」


 彼は、穏やかに言った。


「坊主、時間がねえんだ。あれからずっと、話がしたかった。最期に話せてよかったよ。俺はもう、じゅうぶんに生きた。親父と共に生きて、親父と共に死ねる。こんなに幸せなことはねえ。」


 死にに行くんだ!


 僕は途端に怖くなった。


 誰かが死ぬのは、もうイヤだ!


「じゅうぶんじゃないよ! まだ……、」

「黙って聞け! 時間がねえって言ったろ!」


 レトリーバーは、僕の言葉をさえぎって続けた。


「じゅうぶんなんだ。俺は満足しているんだ。死にに行くんじゃねえよ。一番大事な人に会いに行くんだ。気にするんじゃあねえ。だがな……、」


 レトリーバーは、少し呼吸を整えた。


「坊主と出会ってから、一つ、望みができちまった。俺は欲を知ったんだ。」


 僕は、彼の言葉を刻むために、心を澄ませた。


「なあ、坊主。こんな老いぼれだが、忘れないでいてくれねえか。お前ひとりだけでいい。俺が生きた証、坊主の記憶の中だけでいい。俺を、俺が生きていたことを覚えていてくれねえか。」


 レトリーバーがそこまで言うと、車がガタンと動き始めた。


「ちくしょう!」


 車が少しずつ遠くなる。


「あなたのこと、忘れない!」

「ああ! 俺も忘れねえ! 必ずまた会える!」

「健太! 僕は健太!」

「俺はキング! キングだ! どうか忘れないでいてくれ!」



 ──頼む。



 最後の言葉は、逃げ水の向こうへと消えて行った。


 保健所で彼を見たとき、圧倒的な威厳を放っていた。あの全てを包む暖かさにはもう会えない。

 でも僕は、絶対忘れないよ。次の世で、また会えると信じているから。


 ──キングの生きた証。


 僕は自分の中に、しっかりと刻んだ。



*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*



「私は、じゅうぶんに生きたと、言うことができない。」


 まだ若い二人の顔を交互に見ながら話した。


「自分の猫生に、満足していないからね。私には、知りたいこと、やりたいことが、まだまだたくさんある。」


 私は、視線をふたりから遠くの街並みに移動させた。


「さまざまな場面で彼を思い出すよ。彼はまさに『王者』だった。」


 鴉は、翼を勢いよく大きく広げて天を仰いだ。


「キング! オレたちは決して、あなたを忘れない! あなたの生きた証を語り継いでいくだろう。いつの日か、あなたに出会えるその日がくるまで!」


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