*⋆꒰ঌ┈ 8月5日:獣医 ┈໒꒱⋆*
「僕ね、川に行くのが好きなんだ。」
僕は、窓の下でくつろいでいるクロに、そんなことを言ってみた。
「自転車のカゴに乗って、お姉ちゃんとサイクリングに行くの。すっごく楽しいんだよ。堤防なら歩かせてもらえるし、そこで風の匂いを楽しんだり、緑のざわめきを聞いてのんびりするの。」
クロは、金色の目を輝かせていた。太陽が反射する水面のように、きらきら、きらきらと。
「そうか。自転車って、楽しい物なんだな。」
クロは振り向き、自転車が走っているのを見た。
「ずっと、恐ろしいものだと思っていた。」
クロの言葉は、僕の心を突き刺した。
ずっと、怯えていたんだ。
ずっと、逃げていたんだ。
必死に、生きていたんだ。
「そう、楽しい。でも、ちょっと危ない。」
僕は、飼い猫の世界を少しでもクロに伝えられるのだろうか。僕の話でクロが喜ぶなら、いくらでも話をしよう。クロはきっと、もう一人の僕だ。
「俺も、いつか乗れるのかな。」
クロが、静かに言った。
「ねえ、クロ。」
「なんだ?」
クロは、穏やかな瞳を僕に向けている。
「どうしてクロは、僕に声をかけたの?」
思い切って、僕はクロに聞いてみた。
あのときクロは、飼い猫はつまらなそうだからだと言っていたけれど、僕は納得していない。『つまらなそうだ』ということと『声をかける』ということの二つの間に『インガカンケイ』があるとは思えない。それが理由になるなら、これらを結ぶ何かがあるはずだ。
僕は、それがずっと気になっていた。
「それは、前にも言った……!」
クロが動揺している。
隠し下手なクロの、何かを隠しているときの話し方。
「まあ、いいや。聞かないでおくよ。」
僕は、あえてそれ以上言わなかった。
クロは、僕の笑顔を見て拍子抜けしたような表情を見せたけれど、そうか、とつぶやいて帰って行った。
お姉ちゃんは、今日も僕を連れて保健所へ向かった。
しかし今日のお姉ちゃんは落ち着きがない。僕のカンが正しければ、昨日の獣医を探しているのだろう。僕は、ダシにされたという訳だ。
「おはようございます!」
お姉ちゃんの明るい声が響く。その視線の先には、昨日の獣医が立っていた。
「今日も、お散歩ですか?」
「はい、お散歩です。健太が、どうしてもってせがむもので。」
「そうですか。」
そんなことを言った覚えは全くないのだけれど、ここに来たいという気持ちがあったのは事実だから、とりあえずそういうことにしておいてあげよう。
獣医は、昨日と同じように僕を撫で回した。くしゃくしゃになりながら、僕はゆるゆると流れる幸せな時間を楽しんだ。
「君は、幸せな子だね。」
めいっぱい撫でながら、獣医は僕に言った。
「この世にいるのが、みんな、君みたいに幸せな子ばかりだったら……、いいのにね。」
明るく穏やかな声は、寂しげで悲しげな、冬間近の秋の風を思わせた。
「あの……、先生も、その……、『処分』なさるんですか?」
お姉ちゃんが、おそるおそる獣医にたずねた。聞きなれない言葉だけれど、お姉ちゃんの声や目の動きで、僕は、その言葉が持つ意味をなんとなく理解した。
「――しますよ。」
答えは、簡潔だった。
冷たい響き。何の感情もないような、そんな響き。だからこそ、悲しい。
「年間、」
獣医は、誰とも目を合わせずにぽつりと言った。その目は、深い深い闇を見つめているように見えた。
「四千から五千頭もの命を奪っています。」※ 2007年当時です
お姉ちゃんは、目を丸くして小刻みに震え、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「そんなに……!」
「……はい。」
獣医は、複雑な顔をお姉ちゃんに向けた。
悲しみ、怒り、そして……、
「何度やっても、慣れません。でも、慣れるしかないから心を殺しています。」
獣医は、僕ら動物の命を助けてくれる人たちだ。病院は嫌いだけど、それくらいは僕にだって分かる。
だけど、今、僕の目の前にいる獣医はとても無力な存在に見えた。
「動物病院に勤めていた頃は……、」
無力な獣医が、僕の目をじっと見て続けた。
「死にかけた、たった一頭の犬の命を救うために、スタッフ総出で、徹夜で治療をしたんです……!」
優しい獣医の目は、真っ赤になっていた。
「それが今は、どこも悪くない元気な命を、たった一瞬で……。かつて、たくさんの命を救ったこの手で、もっと多くの命を奪っているんです。」
命の炎を一瞬で消す『罪』。
この人は、心を傷だらけにしている。
「ここにいる動物たちのために私たちができるのは、めいっぱいの愛情を注いでやることだけなんです。お腹一杯ご飯を食べさせて、撫でてあげることだけなんです。」
僕は、獣医の手から溢れる優しさは、ここから来るものだと知った。
「様々な、ドラマや映画、絵本や童話に登場する保健所は、動物を殺す悪いところだと描かれていることが本当に多い。」
獣医は、まっすぐな瞳を今度はお姉ちゃんに向けた。
「保健所が悪いんじゃありません。保健所という存在を生み出した人間が悪いんです。動物たちのことを、ただ可愛いというだけの『動くぬいぐるみ』と思わずに責任とあふれる愛情を持ってちゃんと育ててくれたら、命を奪う保健所なんて必要なくなるんです!」
無力な獣医の言葉は、僕とお姉ちゃんの心の中に、さまざまな疑問を投げかけた。
*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*
「クロは、保健所を『ゴミ箱』と呼んだ。」
私は、目の前の友に向かって言った。
「確かに、命を奪うあの施設の存在は良くないと思う。でも、そこで働く人間たちは悪い人たちばかりではない。愛情を持って接している人たちも多くいる。」
私は、背筋を伸ばした。
「私たちは忘れてはいけないのだ。そして、人間たちに伝えなければならない。私たちの命を一つでも多く救うために、心を傷だらけにして働いている人たちがいるのだという事実を。」
鴉と鳶は、当時と変わらずそこにある保健所を、じっと見つめた。
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