*⋆꒰ঌ┈ 7月30日:レディ ┈໒꒱⋆*

 すがすがしい朝。


 個性的だけど、大好きな家族。

 大切な友だちは、人間嫌いの変わり者。

 僕の猫生は今、最高だと思う。


 満ち足りている。


 僕の周りすべてが、キラキラと輝いて見える。そして僕は、いつもの窓から外を見て、クロがやってくるのを待っている。


「おう。」


 草をかき分けて、クロが顔を出した。


「おはよう。」


 挨拶を返し、僕は微笑んだ。


「珍しいね、クロが挨拶してくれるなんて。」


 ぶっきらぼうな一言でも、クロが挨拶してくれたのが嬉しかった。でも、クロからの返事はなく、僕の目をぼんやりと見ている。


「お前、声は出るか?」


 クロは、何を言いたいのだろう。


「声? もちろん、出るよ。」


「そうか。」


 クロはまた、黙ってしまった。

 今日のクロは、いつもと違う。様子がおかしい。


「俺にはな、」


 沈黙の後、クロがぽつりと話し始めた。


「おかしいと思うかもしれないが、犬の友がいるんだ。そいつ、どうやら飼い主に捨てられたらしいんだ。」


 降り始めた雨のように、ぽつ、ぽつと話すクロは、シェリーの話よりさらに話しづらそうに思えた。言葉も、たどたどしい。


 僕は、クロをうながしたりせず、クロが言葉を紡ぎだすのをじっと待った。


「白い、ふわふわした、綺麗な女の子なんだ。初めて会ったのは、山の中の、俺の縄張りだった。」


 ふわふわの、白い犬……。

 僕は、そっと繰り返した。


「名前は、レディ。警戒心はまるで無く、出会った俺に尻尾を振って嬉しそうに駆け寄って来たんだ。さすがに俺も驚いて、最初は威嚇いかくしたんだが、そいつの心の叫び声を聞いて、威嚇をやめたんだ。」


 僕は、しっかりクロの目を見て次の言葉を待った。


 クロはきっと、大切なことを僕に伝えるために言葉を紡ぎだしているに違いない。

 苦しそうに言葉を生み出すクロの様子は、『紡ぎだす』というより、なんだか、『絞り出す』といった印象を受けた。


「『助けて、お腹が空いたの。』って、その犬は訴えていたんだ。シェリーが死んだ直後だったのもあって、俺は、レディに近づいて事情を聞いた。」


「それで、捨てられたって分かったんだね。」


「ああ。だがレディには他の動物たちと明らかに違う特徴があるって、最初は俺も気づかなかったんだ。」


 今までとは違うざわめきが、胸の中を駆け巡った。


「いいヤツだったから、食い物を分けたりして何日か一緒にいたけど、レディが『違う』と知ったのは偶然だった。」


 クロは、何を伝えようとしているのだろう。今度は、どんな人間の闇が飛び出すのだろう。


「ちょうど恋の季節だったんだ。アイツ、俺に他の犬が近くにいると伝えたかったんだろう。口が動いているのは見えたんだが『何も聞こえなかった』んだ。」


「何も? 口が動いているのに?」


「ああ、『何も』だ。」


 落ちていくため息をついて、クロは続けた。


「犬は、猫と違って『吠える』よな?」


「そうだね。すごく大きな声だから、びっくりするよ。でも僕らにはできないことだね。」


「多分レディは吠えていたんだと思うんだが、まったく聞こえなかった。運良く近づいてきた犬には見つからなかったんだけどな、そんなことより、どうして何も聞こえなかったのか、俺はそっちが気になった。」


 ためらっているのか、クロは視線を落とした。


「だから、聞いたんだ。」


 僕の心臓が『聞いてはいけない、聞いてはいけない』と叫んでいる。



 知らないほうがいいことなんて、何一つないんだ。



 僕は、自分に言い聞かせた。そうしなければ、自分の声に負けてしまう。


「レディには、声帯がないんだ。」


「セイタイ?」


「声帯は、声を出すときに使うノドにある器官だ。それがなければ、声は出ない。」


 クロは冷静に、そして一つ一つ丁寧に説明してくれた。だからなのか、とても悲しく聞こえる。


「じゃあ、僕やクロにもあるんだね?」


「ああ。もちろん、……人間にもな。」


 声帯は、声の出る動物ならみんな持っているという。なぜレディには、それがないのだろう。


「手術したと言っていた。」


 クロの声は、やっと聞き取れるほど小さかった。


 手術をしたということは、重い病気にでもかかったのだろうか。


「まぁ、確かに、レディは病気のようなものだと言っていたが……。」


 今日のクロは、奥歯にものが挟まったような口ぶりだ。僕はクロの態度から、ある推測をした。


「あのさ、もしかして、飼い主に取られたんじゃないの?」


 クロは、僕の言葉に驚いていた。目をまん丸にして、口をぽかんと開けている。


「どうして……、それを?」


 やっぱりそうだった。


 僕はがっかりして、ため息をついた。


「前に、お母さんとお姉ちゃんが話していたのを思い出したの。あの頃は、何のことを話しているのかさっぱり分からなかったけれど、クロの言葉と態度でもしかしてと思って。正解したけど嬉しくないや……。」


 クロは、視線と肩をがっくりと落して、雨だれのように、ぽつぽつと話し始めた。


「その通りだ。レディは小さい頃、よく吠えて怒られたと言っていた。幼かった彼女は、吠えていいときと悪いときの区別がつかなかったんだ。彼女は何も分からなかっただけなんだ。それだけなのに、ある日レディは病院に連れて行かれて手術で声帯を取られたんだ。そのとき飼い主に『吠える病気だ』と言われたんだそうだ。」


 犬が吠えるのは、習性で病気ではない。僕ら動物は人間社会を知らないのだ。そんな僕らに吠えていいときと悪いときを、じっくり優しくしっかりと教えるのが、家族である飼い主たちの役割のはずだ。それなのに『吠える病気』だなんて、信じられない。


「声帯を取られても、レディは飼い主を恨まなかった。俺だって、彼女が幸せなら、こんなことを言ったりはしない。」


 ああ、そうだ。そうだった。


 クロは、首を横に振ってため息をつくことしかできない僕を見て続けた。


「あんなに可愛い、いい子が、声も奪われて、おまけに、おまけに、捨てられたんだ。」


 誰もいない山の中に、レディは置き去りにされた。クロと出会ったときは、どんなに心強かっただろう。白いふわふわの尻尾をちぎれんばかりに振って、喜びを表したのだろう。


 ぼんやりとした目を僕に向け、クロの言葉はまだ続いた。


「話が終わってから、レディに飼い主を恨んでいるのかどうか聞いたんだ。恨んでいないという答えが返ってきたが、問題はその次だった。」


 僕は飼い猫だ。レディの言葉は想像がつく。


「彼女は、『ご主人さまは私を必ず迎えに来ます』って言ったんだ。」


 クロの目が、憎悪の色に染まった。



「まただ! そんな言葉は、死んだお袋、シェリーでたくさんだ!」



 そこら中の動物たちすべてに聞こえるほどの大声で、クロは叫んだ。



*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*



「私の心の中は、泥棒に入られた後のようにぐちゃぐちゃだったよ。」


 話の最後にそう付け加えた。


「人間は本当に愚かな生き物だと、そのとき心から思ったんだ。」


 私は、ユズ、シェリー、そしてレディを思った。


「人間たちよ、お前ならどうだ!」


 人間には聞こえないことを、私はよく知っているけれど、もしかしたら誰かに届くかもしれない。誰か一人でいいから届いて欲しいと願い、心の声を響かせた。


 突然の私の大声に、翼を持つ二人の友は驚いて顔を見合わせたけれど、私は構わず続けた。



「自分の子供を奪われたいか! 信じる者に捨てられたいか! 声を奪われたいか! レディにいたっては、おまけに捨てられ独りぼっちになったんだ! その心細さや悲しみが、お前たちには分からないのか!」



 余韻が残る中、鴉と鳶は下を向いて目をふせていた。私たち動物は、悲しみや喜びで涙を流すことができないけれど、彼らは泣いているように見えた。

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