*⋆꒰ঌ┈ 7月28日:血統書付きのシェリー ┈໒꒱⋆*
僕は、あまりに無知すぎた。
クロの言う通り、人間は信じられない生き物だ。僕は、知らないほうがよかったのかもしれない。
いつもの窓辺で、昨日のできごとを思い返していた。
ロシアンブルーのユズとの出会いは、人間を信じる僕にとって、あまりに衝撃的なことだった。
「何があったのか知らないけどな、」
「クロ!」
僕はクロが来ていたのにまったく気づかず、自分の世界に没頭していた。
「あのあと、もう一度考えた。その結果、知らないほうがいいことなど何一つ無いんだと、そう思った。だから俺もお前も、知るべきだ。」
クロの言葉は、僕の胸の奥を刺激する。
知らないほうがいいことなど何一つ無い、か。
心の中で、そっと繰り返した。
「そうだね。うん、そうだ。知らないほうがいいことなんて、何一つ無いんだよね。そうだよね。」
クロは、意気地なしの僕に勇気をくれる。しぼみかけていた心に力を与えてくれる。そんなヤツだ。
「人間が嫌いになった理由は、俺の母親だ。母親を見ていたからなんだ。」
いつものクロとはまったく違う真剣な目で、クロはゆっくりと一語一語かみしめるように話し始めた。
「俺の母親は、血統書付きのバーミーズ。名前は、シェリー。」
クロは、スッとおじぎをして地面に顔をつけると、モゾモゾと何かをしていた。
「見えるか?」
クロは、自分の足下にある鈍い銀色の何かを僕に見せた。パカッと口を開けたしじみ貝のような形をしていて、大きさは肉球ふたつ分くらい。
「それは、何?」
「ロケットというものらしい。」
「ロケット? 宇宙に行く、アレ?」
「これに人間は乗れないだろう。」
「まあ、そうだよね。猫も乗れないと思う。」
僕はクロの足下の『ロケット』をもう一度よく見た。
『ロケット』の中に、絵のようなものがある。
「写真かな?」
「そうだ、写真だ。」
僕らの世界は、遠すぎて見えない物が見えたり、小さすぎて聞こえない音が聞こえることがある。それには集中力が必要なのだけれど、それ以上に心の繋がりが大切だ。僕は今、クロの心と繋がり、クロが見ているロケットを見ている。そしてさらに全身の神経を目に集中させ、ロケットの中の写真を見ようと試みた。
「ううん……、力不足なのかな。ハッキリ見えないや……。」
「いくらなんでも小さすぎるだろう。見えなくて当然だ。気にするな。」
クロが、フッと笑った。そんなクロの気遣いが嬉しかった。
「この写真の猫が、俺の母親だ。三ヵ月前に死んだ。俺が、
クロは、ロケットを閉じてシェリーのことを話し始めた。
今から三年前、俺は、ここの近くの広い場所に段ボールに入れられて捨てられた。
なぜ捨てられたのかも、誰に捨てられたのかもまったく覚えていないけれど、兄弟がいたことだけは覚えている。
だけど、生まれたばかりのオレたちは弱くて、兄弟はみんな、段ボールの中で死んでいったよ。
生き残った俺はとにかく死ぬのが怖くて、何としても生き抜いてやろうと思った。
でも、そんな俺に人間たちは冷たかったよ。俺に石を投げつけた人間もいた。転んだ俺を見て笑いものにした人間もいたさ。
恐ろしいのは人間だけじゃない。死んだ俺の兄弟たちを狙って他の獣もやってきた。
命からがら逃げた俺は、人間たちの集まる、夜でも明るい店の陰に隠れていた。獣から逃れるのにちょうどよかったんだ。獣は、人間の近くには来ないからな。
だが、水だけで空腹を紛らわせていた俺の身体は、もう限界だった。立つのもやっとになり、兄貴や弟のところに行くんだと、そう思っていた。
薄れていく意識の中で、俺は、天使の声を聞いたんだ。優しく、俺を心配する声だった。
天界に着いたのかと目を開けると、うっとりするほど美しい猫が目の前にいたんだ。
こげ茶色の美しい毛並みと水色の瞳。天使ではなく、現実の猫だった。
その猫は、俺に食べ物を分けてくれた。助かった……。そう思った。それがシェリーだった。
シェリーは、俺をくわえると、自分のすみか……、神社近くのあばら家に連れていったんだ。
クロは、そこで一度話を切った。
ずっと遠くを見る、ちょっと寂しげな目をしていた。
「お袋は、お前と同じ飼い猫だった。首には、銀のネックレスがあった。このロケットだ。」
クロは、言葉を詰らせた。
悲しみでも怒りでもなく、言うのをためらっているという印象を受けた。
「続けて、僕なら平気。」
すいっと僕に顔を向け、うなずくような視線を僕に投げかけると、クロは言葉を続けた。
「お袋は、牙と爪を器用に使ってロケットを開けて俺に見せた。写真の中のお袋はとても幸せそうに見えた。目の前にいるお袋も美しいけれど、写真の中のお袋は、その何倍も美しかった。お袋は、自分を『血統書付き』だと言った。シェリーは、とても良い家柄の、いわゆる『お嬢様』だった。」
僕は、ちょっと不思議に思った。
「ねえ、クロ? そんな良い家柄のお嬢様が、どうして人間の店先にいたの?」
クロは、僕にチラリと目を向けた。
「捨てられたんだよ。」
僕は耳を疑った。良い家柄のお嬢様が捨てられた?
「少なくとも俺はそう思ってる。」
クロの言葉に、迷いはなかった。
「でもお袋はそう思っていない。それはおそらく、今もだ。」
今も。
もちろん、クロの育ての母親である『シェリー』は亡くなっている。
それにも関わらず、あえて『今も』と言ったのは、亡くなるその瞬間までそう思っていたからなのではないかと、僕は考えた。
「お袋は捨てられて震えていた俺に、優しく言ったんだ。『必ず、お父様とお母様が迎えに来てくださる。そうしたら、あなたも幸せになれるわ』……ってな。しばらくは俺も信じていたんだ。お袋の暮らしぶりの話は、子どもの俺にとってまぶしいものだった。だが、待てど暮らせど、いっこうに迎えになど来ない。さすがにおかしいと思って、お袋に聞いてみたんだ。俺と出会う二年前、あばら家近くの神社に『必ず迎えに来るから、ここで待っていてくれ』と置いていかれたのだと、お袋は教えてくれた。」
「たぶんそれは、」
僕は、クロの言葉を受けた。
「悲しいけど、捨てられたんだと思う。」
僕の言葉に、クロは驚いたようだった。
この前までの僕なら、信じなかっただろう。でも、クロやユズと出会って、僕の知らない人間の世界の存在を知った。だから今は、クロが言いたいこともシェリーの気持ちも、どっちも分かる。
「俺もそう思った。だからお袋に、正直に言った。」
僕は、クロの言葉を待った。言いにくいのはわかるから、無理にせっつくのは良くない。
「怒られたよ。『お父様もお母様も、そのようなことをなさる方ではありません!』ってね。」
シェリーは、信じていたのだ。
僕はこれ以上聞きたくなかった。この先に何が待っているのか、何となく分かる。でも僕は、知らなくてはいけない。そう思い直した。
「続けて。」
キゼンとした僕の言葉に、クロは驚きながらも心配そうな顔をしたけれど、軽くうなずくと続きを話した。
「お袋は、自分の『お父様』のことを話し始めた。かなりの金持ちで気前のいい人だったらしい。でも失敗すると、どんな小さなことでも許さず、すぐ怒り、ときには殴ったり蹴ったりすることもあったそうだ。」
「殴ったり、蹴ったり?」
「ああ、血が飛び散るほどな。」
信じられなかった。猫の力なんて、人間に比べたらほんのわずかしかない。それなのに、血が出るほど殴ったり蹴ったりするなんて。
「それでも、お袋は信じていた。『私が悪かったからよ。だから怒られたの。本当はとても優しくて素敵なお父様なのよ』って、言われちまった。そんなお袋も、三ヵ月前に死んじまった。俺は助けてくれたお袋に、何もしてやれなかった。」
クロは、そっと目を伏せた。
「お袋の最期の言葉を、俺は決して忘れない。」
クロは、悲しそうな笑みを浮かべてシェリーの物語を閉じた。
『お父様はとても厳しい方でしたけれど、私はお父様を愛していたわ。
でも何より、あなたと出会って、あなたと時を分かち合えたことが、
私の一番の幸せよ。』
*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*
ユズの物語同様、シェリーの物語が終わっても誰も口を開かなかった。
私は、シェリーの気持ちがよく分かる。もし私がシェリーなら、きっと私もシェリーのように人間の両親を信じただろう。
しかし、そんなシェリーを間近で見ていたクロの気持ちを思うと、今でも心が痛む。
きっと悔しかったのだろう、苦しかったのだろう。その思いが、人間への憎しみや怒りへと変わっていったのだろう。
私は、鴉と鳶を交互にゆっくりと見た。ふたりとも目を閉じている。
おそらく、彼らも私と同じように、胸を痛めているのだろう。
私は、青く澄んだ空を眺めて、クロとシェリーの苦しみを思った。
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