*⋆꒰ঌ┈ 7月27日:ユズ ┈໒꒱⋆*
僕は、クロを待ちながら、少し不安になっていた。
「クロ、大丈夫かな。気にしてないかな。僕を傷つけるとか思ってないかな。」
固い決心のはずだったのに、情けないことに、早くも後悔していた。
「クロ!」
何気なく窓の外に目を向けると、いつもの場所にクロがいた。いったいいつからそこにいたのだろう。
しかしクロは、僕に背を向けて、何か考えている。
「なあ。」
クロは僕を見ることなく、ぽつりと言った。
「お前、本当に知りたいんだよな。」
クロの声に、いつものようなキリッとした響きはなかった。力の無い声だった。
「うん、知りたい。どうしても知りたい。」
僕は、できるだけ力強い声を出した。
「クロ、僕なら大丈夫。以前、君にたずねたときとは違うんだ。全部覚悟の上だよ。」
本当は、不安もあった。
けれど、クロを知りたい、受け入れたいという思いが強かった。
「お前の気持ち、よく分かった。明日、話そう。」
最後まで僕に背を向けたまま、クロは山へ帰って行った。
僕の家族にはそれぞれ学校や仕事があるので、朝の八時には、僕だけになる。
いつもなら、家の見回りをしたあとは家族のベッドでのんびり過ごすのだけど、この日はクロのこともあって、昼寝をする気になれなかった。
お昼の十二時を過ぎたころだった。
ひげがいつもと違う空気が窓から流れてくるのを察知した。鼻と耳がピクリと動く。僕は集中した。
猫の気配だ。
クロ以外の、猫の気配。
胸騒ぎがする。いつもの窓に上がって、外を見た。目を凝らして辺りを見渡すと、歩道に美しい毛並みの猫が、ひとり、歩いていた。
ロシアンブルーだ。お姉ちゃんが好きな猫の種類で、一度、図鑑で写真を見たことがある。
最近知ったのだけど、僕はアメリカンショートヘアとブラックペルシャのミックスらしい。顔立ちはアメリカンショートヘアである母親によく似ていると聞いた。
「どうしたんだろう?」
歩道のロシアンブルーは、ふらふらとおぼつかない足取りで、いつ倒れてもおかしくない。よく見るとお母さん猫のようだ。お乳が張っている。とても心配だ。
「大丈夫かな。」
交差点を左に曲がり、僕の家のほうに向かって歩いてきた。彼女はどこに行こうとしているのだろう。
ロシアンブルーが視界から消え、僕は居間からお姉ちゃんの部屋へと移動した。どうしても彼女から目が離せなかった。ちゃんと聞き取れないのだけれど、彼女は何か言っている。なんだか助けを求めているような気がして、彼女の心の声を聞こうと耳に神経を集めた。
「あか……、」
その美しい猫は、その言葉を残し倒れた。
僕は慌てて階段を降りて玄関に行き、鍵がかかっているかどうかを確認した。さいわい、鍵はかかっていなかった。おそらく、お姉ちゃんがかけ忘れて行ったのだろう。
戸の隙間に爪を引っかけてガリガリすると、少しずつ戸が動く。僕はそこに、腕を滑りこませて顔や身体を使って、何とか通れるくらいの隙間を作った。
あとでお姉ちゃんがお母さんに怒られるだろうけど、今はしかたない。むしろ、お姉ちゃんに感謝だ。
玄関を出ると、急いでロシアンブルーの元に駆けつけ、道端に倒れている彼女を手でつつくと、小さな反応を見せた。
「大丈夫? ねえ、大丈夫?」
脚と脚の間から、お乳がのぞいていた。よく見ると、ミルクが染み出している。
いったい、何があったのだろう。
僕は、痛々しい姿に胸が締めつけられた。
ぴくりと身体が震え、聖母のように美しいロシアンブルーが目を覚ました。僕に手をのばしている。
「赤ちゃん……、」
今にも、消えてしまいそうな声だった。
「赤ちゃん……、私の赤ちゃん……、」
うつろな目。
ガラス玉のように澄んだ瞳なのに、よどんで見えた。
「赤ちゃん……、私の赤ちゃん……、」
ただ、その言葉を繰り返していた。その視線の先には保健所がある。
僕の背中を、冷凍庫から出したばかりの氷が滑った。
「ねえ、どうしたの? 何があったの?」
ようやく、ロシアンブルーは僕に寄りかかるように立ち上がった。見ると、美しいブルーグレーの身体のあちこちに、赤茶色の泥がついていた。
「赤ちゃん。この前、産まれたばかりなの! ミルクを飲ませてあげなくちゃいけないの! きっと、お腹を空かせているわ。昨日、お母様が赤ちゃんを連れて、この辺りまで来たのは覚えているのよ。ねえ、坊や。私の赤ちゃん、見なかったかしら?」
僕は目を閉じて、そっと首を横に振った。
「力になれなくて、ごめんなさい。」
……もどかしい。
こんなに近くにいるのに、まったく力になれない。
とても悔しい。
「ユズちゃん、こんなところにいたのね。」
遠くから人間の声が聞こえ、僕に寄りかかっていたロシアンブルーが声の主へ顔を向けた。よどんでいた瞳に、希望の輝きが戻った。
「まあ、ユズちゃん。」
泥だらけの聖母は、ユズという名前で呼ばれた。
状況のつかめない僕は、彼女をぼんやりと見つめた。
「ちょっとあんた! うちのユズに何をするの!」
ユズの『お母様』に突然怒鳴られ、僕は目を白黒させた。
「うちのユズちゃんは、そりゃあ世界一美しくて賢いわ。だから好きになっちゃうのも分かるけど、そこは『ミブン』をわきまえて欲しいわね。」
怒られている理由はさっぱり分からない。僕をにらむ目と剣幕に圧倒され、僕は後ずさりをした。
「お母様、私の赤ちゃんはどこです? あの子たちをどこへ連れて行ったのです?」
ユズは『お母様』の腕の中で必死に子猫の居場所をたずねている。でも人間は僕らの言葉を理解できない。ただ、ニャーニャー鳴いているように聞こえるだけ。
だから、とんでもない勘違いを招くこともある。
「ユズちゃん、やっぱりあなたもこんな小汚いオス猫にしつこくされて嫌だったのね? 分かるわぁ。あなた、私に似てとても美人だから、振り向かないオトコはいないのよね。それであなた、隣の家のみすぼらしい三毛猫に無理矢理せまられて、赤ちゃんができちゃったのよね? でも、安心して。あのオス猫の子どもたちは、みんな保健所に連れて行っちゃいましたからね。あなたには、お母様がちゃんと、素晴らしいお婿さんを見つけてあげますからね。」
保健所に、子猫を連れて行った……?
保健所に、子猫をみんな……?
「いやぁあああああああああああ!」
美しいロシアンブルーの悲痛な叫び声だけが、むなしく響いた。
ユズはおそらく、保健所がどういう場所なのか理解していない。しかしもう二度と、赤ちゃんにお乳を飲ませてあげることはできないのだと、悟ったのだろう。
『人間たちが、用済みになった飼い猫飼い犬を捨てる、ゴミ箱さ。』
いつかクロが言っていたあの言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。
*⋆꒰ঌ┈┈┈┈┈┈┈┈┈໒꒱⋆*
私の話が終わっても、口を開く者はいなかった。やり場のない悲しみだけが、その場に漂っていた。
「本当に愚かなんだな、人間は。」
沈黙を破ったのは、鴉だった。
ユズの物語は、鴉にとってはつらいものだろう。彼には、大切な家族がいる。立派に旅立った、子どもたちもいるのだ。
鳶は、私の話が信じられないのか首を小刻みに振っている。
「もしかして、さっき健太さんが言っていた、健太さんが知らなかった人間の世界って、このこと?」
「ああ、そうだよ。人間の残酷な顔だ。私は、そんな人間たちを、たくさん知ることになった。」
鴉は、聞くに耐えないような表情で目をそむけた。
しかし、鳶は違っていた。キラリと輝く瞳を私に向けていた。
「聞きたくない。でも、聞かなきゃいけない。ボクたちは、知らなきゃいけないんだ。」
「その通りだよ。」
私はにっこり笑って大きくうなずき、物語を続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます