第16話 第16章

「そろそろ話をクライマックスに持っていきましょうか」

 穂香は、独り言ちていた。誰に対しての言葉を発しているのか自分でも分からなかったが、この話の登場人物である人皆に訴えていた。

 そもそもこの話は記憶喪失から始まっている。

 弥生を主人公のように始まってきたこの物語は、心中事件を起こして同じ病院に奇しくも運ばれてきた理沙も記憶を喪失していたのだ。

 主人公の弥生も、かつて自殺した経験があり、死に切れずに立ち直りかけたが、今度は記憶が欠落していることを気付かされる。

 それを弥生は、おかしいと思わないのだろうか? 自殺未遂のために入院し、一度は退院したのに、それからしばらくして記憶が欠落し、そして再入院に至る。弥生ほどの女性であれば、どこかおかしいと思うはずだ。

 表に気持ちを出さないのか、それともおかしいと思ったとしても、根拠のないこと、何とか根拠を見つけて、まず自分で納得しようと考えているのか、穂香には半分くらいまでなら、弥生の気持ち、分かる気がしていた。

 弥生に対してまるでライバルのように思ってきたが、弥生自身は、ほとんど知らない穂香のことを意識もしていないだろう。意識しているとすればママの方で、弥生の味方はママであった。

 穂香にはありがたいことだった。

 別に弥生に対して競争心もライバルとしての思いも抱いているわけではない、三枝に対しての挑発に、弥生の存在が必要だっただけのことである。

 ただ、弥生は勘の鋭い女性でもあり、冷静になると、こちらの想像以上のことに気付かれたり、裏の裏を読まれたりして、実に計画を立てるには邪魔な相手であった。

 穂香も本当であれば、弥生を姉のように慕いたいという思いがあった。そうすることもできず、しかも弥生の記憶を欠落させなければいけない事情ができてしまったことは実に不本意だと思っていた。

 それにしても、偶然とはいえ、理沙と弥生が病院で仲良くなるというところまでは行っていないが、お互いの存在を意識してしまう関係になってしまうとは、最初は考えても見なかった。

 しかし、記憶が欠落したことで、入院してもらうことにしたところに、心中で同じ病院に運ばれてくるということは、決して偶然ではないかも知れない。ただ、時期があまり離れていないのはまずかったかも知れない。だが、これも仕方のないことだと言えるのではないだろうか。

 理沙に対しては、別に恨みもない。ある意味、理沙も被害者だと言えるのではないだろうか、結果として心中未遂ということで記憶を失わせることに成功し、しかも心中未遂であったことを本人の意識に植え付けることができた。理沙の中にあった記憶は、本当に理沙のものだったのかと言われるときっと本人にも分かっていないので、穂香の関知するところではないに違いない。ただ、心中した相手が誰なのかまったく分からないのは気持ち悪かったことだろう。

 だが、これも仕方がないことだ。本当の心中相手が、理沙と一緒に心中したというのであれば、理沙が生きていく上で、大きなトラウマになったことだろう。一緒に心中しようとした相手、それが問題だったのだ。

――自殺をしようと考える人は、いざとなったら一人では嫌なものだ。一緒に死んでくれる人がいれば、自殺も怖くない――

 ひょっとして自殺をしようとしている人のほとんどは、心中なのではないか?

 理沙は失った記憶が大きいので、そんな疑問も素直に受け入れてしまうのではないかと自分で感じていた。

 それでも心中を試みて、二人とも助かった。一緒に心中しようとしたと思われる人は軽傷で、意識が戻ればすぐに自分たちの前から姿を消した。

 理沙は、それを不思議に思っているだろう。そして、一緒に心中しようとした人が誰なのか、それが一向に分からないのも不思議なことだ。

 だが、穂香にしてみれば、

――それは当たり前のことだ――

 と思っていた。

 理沙が心中を試みた相手は、理沙とはまったく面識のない人で、しいて言えば、その日に知り合った相手だということだ。彼は自殺志願者でも何でもない。穂香にお金で雇われた人だったからだ。

「私がどうしてそんなお金を持っているかって?」

 穂香は、ほくそ笑んだ。

「私にはスポンサーがいるのよ。しかも、私から逃れることのできない人。その人は私に対して呪縛があり、それを解く術がないことで、私のいいなりになっているのよ」

 ほくそ笑みながら、穂香の顔に寂しさが現れた。穂香という女、やっていること、表に出していることとは裏腹に、寂しさと素直さが自分を苦しめていることにジレンマを感じているようだ。

 誰の中にも良心は存在する。穂香は自分のジレンマの中で、そのことは痛いほど分かっているはずだ。それなのに、自分に対して、今まで報われなかった人のため、表に出ることもなく、この世から消えていった人のため、敢えて鬼になることを強いている。

 それは今まで表に出したことのない穂香の裏の部分で、自分でもそんな部分があったのかと、恐ろしさを感じるほどだった。しかし、鬼になってしまえば、誰に憚ることのない誰も知らない自分が、自由に渡り合うことができることに、悪い気はしていなかった。

――私にもこんな性分があったんだわ――

 鬼になってしまえば、自由に動けることを覚えてしまうと、怖さは急に薄れてきた。

 穂香は、「やること」がいくつもあって、何から手を付けていいのか分からない時、鬼になってしまった自分の存在を頼もしく思う。鬼になった自分は、鬼になりきれなかった時の自分の無念な思いを叶えてくれるに十分な冷静さを持っているのだ。

 冷酷さを冷静さだと思っていたのが、穂香がまだ鬼になりきれていないところでもあった。そこが隙になってしまったのかも知れない。計画は順調に進んでいる。何を迷うことがあるというのか。

 穂香はさらに、自分のしてきたことを思い出していた。それはただあくまでも穂香にしか分からないことで、他の登場人物が自分の考えていることを忠実に実現してくれているという前提の元に立って話を展開している。他の人が考えていることは、読み進んでこられた方にはお分かりのことであろう。

 それだけ、人一人が計画したことというのは、どんなに壮大なプランであっても、人の心までは凌駕できないものだ。

 人の心を支配するというくらいまでに気持ちを高ぶらせておかなければ、何かを計画するなど不可能なことだと穂香は考えていた。そんなことを自分にはできるはずなどないと、ごく最近まで思っていた。

 それを変えたのは、信二の父親を見つけた時だった。

 信二の父親は優しい人だった。そして、懐の大きな人で、それは弥生が慕うだけの男性であることでも証明されている。

 穂香は弥生を尊敬していた。尊敬する気持ちの中には、姉を思わせるところがあったからだ。

 ただ、決定的な違いは、姉はどんなことがあっても相手を信じぬく気持ちを持っているのに対し、弥生は疑う気持ちを持っている。それだけ大けがはしないのだろうが、穂香には弥生の態度は、中途半端に思えた。

――姉に似ているのであれば、相手に対し、どんなことがあっても信じぬく性格であってほしい――

 という勝手な思い込みがあり、その中途半端な考えが、穂香の計画立案を助けたのだった。

 弥生が自殺をしたというのを知ったのは、実は三枝から聞いた話だった。三枝は少なくとも口の軽い男ではなかった。それなのに、弥生に対しての知りたいことを、惜しげもなく話してくれる。そして、弥生と穂香が似ているということを何度も口にしていた。

 その言葉を聞くのは一番辛かった。大好きだった姉に似ている弥生と自分が似ているということは、自分が姉と似ていると言われているのだと思うと、嬉しかった。

 弥生の自殺は、穂香にも少なからずのショックだった。なぜなら、弥生のことを知るまでは、弥生を追い込むことになるかも知れないと思っていたからで、追い込まれると自殺してしまうかも知れないとも、漠然と思っていたからだ。自分が手を下すわけではなく、相手が自らを傷つけるというのは、恨みのない人間に対しては、これほど辛いことはないだろう。

 弥生の記憶が欠落したことを、誰もおかしいと思わなかったのは、考えてみれば不思議だ。

 自殺したその時に記憶を失うというのなら分かるが、しばらく経って記憶が欠落するというのを医者も含めて誰もが信じているというのは、それだけ記憶喪失や欠落についての研究が功を奏していないからなのかも知れない。

 穂香は自分の思い通りに事が進んでいくことに満足しながら、あまりにもうまく行っていることに不安も感じていた。

 それは弥生が記憶喪失ではなく、記憶が欠落したということだ。もし、弥生の記憶が喪失であったら、思い出すことは無理ではなかったかと思う。欠落していることで、

――いずれは思い出すかも知れない――

 と思えることは、穂香にとって、救われた気分になっていたのだ。

 穂香の姉は、元々信二と付き合っていた。

 信二という男は、父親に逆らってばかりで、高校を出ると家を飛び出して、女性に寄生するように生活していた。

 女性にモテる甘いマスクは、男を知っている女性から見れば、いかにも「怪しい男」だということを匂わせるには十分なのだが、普通の女の子であれば、コロッと騙されるに違いない。穂香の姉は、後者だったのだ。

 どこで信二と知り合ったのかは知らないが、信二から甘い言葉を掛けられて、今まで知らなかった世界を教えられたことで、信二に対して大きな男というイメージを植え付けられたのだろう。

 姉は、優しい男性、そしてその中に大きさを秘めた男性をいつも求めていた。偽りに気付かなかったのは姉が悪いのだろうが、最終的に姉は死を選んだ。

「俺も一緒に死んでやるよ」

 という一言が、姉に自殺を覚悟させたに違いない。

――一人じゃないんだ――

 信二は巧みに、穂香に自殺を薦め、自分も一緒に死んであげようと言って、結局姉だけに心中のつもりにさせて、殺してしまったのだ。

 だが、事件は自殺としてしか、誰も見ていなかった。心中の形跡は残っていない。しかも姉は、普段からまわりに自殺をほのめかしていたところがある。

 これが姉の一番悪いところで、すぐに人に対して自殺をほのめかすことで、自分を意識させようとする。それが信二の計画に火をつけたと言っても過言ではない。

 姉が信二に巧みに殺されたことを知った穂香は、まず信二を探した。

 信二は理沙と付き合っていて、理沙も姉と同じように別れが近づいている雰囲気だった。

――今度は逆を――

 と穂香は考え、実行したが、理沙と別の誰かを心中に見せかけて、狂言心中を行わせたが、理沙が本当に記憶喪失になってしまったことは計算外だった。そこに弥生がいたのにはビックリしたが、これも何かの因縁ではないだろうか。

 三枝は、元々大学の研究室で、記憶についての研究をしていた。独自に開発した記憶を操作できる薬を一人で抱えていて誰にも話すことをしなかったのは、あまりにも大それたことなので、バカにされるという思いと、危険ドラッグにも等しいもので、使用には時期尚早という結論から、研究もストップさせられたのだ。

 そんな三枝が家では酒浸りになり、子供や奥さんに当たってしまったことで、息子があんなになってしまったのだ。

 今では立ち直り、過去の苦しみを乗り越えたことで余裕のある人間になっていた。

 しかし、自分が犯した罪は消えない。三枝の因果が姉に結びつき、さらには自分をまきこんでいる。穂香には絶対許せるわけはなかったのだ。

 穂香は、三枝に近づいた。その時に弥生とも顔を合わせたが、弥生の存在が次第に自分の中で大きくなってくるのを感じた。

――あの視線が怖い――

 見つめられることで、弥生が自分と似た考えを持っていることに気が付いた。それは不思議な力を持っているという印象があったからだ。

 夢を共有しているという感覚も他の人には感じられないが、弥生には感じられた。

――この力があるから、こんな大それた計画を実行できたのだ――

 理沙は完全に記憶を喪失していて、実は信二の顔も覚えていない。理沙と狂言心中させた男は、三枝の金を使って雇い入れた男だったが、信二に成りすまして見舞いに来させたのもその男だった。

 よく心中の相手だって、他の人に気付かれなかったようなものだが、その男はすぐに行方をくらませたことで、病院の人はほとんど覚えていないのだろう。

 それにしても、スナックに勤め始めた時の自分は、まだ子供だった頃のことを思い出すような素直な気持ちになっていたのも事実だ。子供の頃に会った刑事の目を見た時にはビックリしたが、きっと今の自分に対しての戒めと、何かを思い出させようとしての思いが何かの力となって働いたのかも知れない。

 理沙が完全に記憶を失っていることを確認した穂香は、このあとどのようにすればいいのか模索していた。

 ここまで計画を実行してきて、今さら何を言っているのかと自分に言い聞かせるが、計画が大それたことであればあるほど、それぞれにターニングポイントが存在している。要するに分岐点なのだが、今まで計画に没頭していたことで、その存在すら意識していなかったが、ここに至って感じた分岐点は、自分が最初から何をしてきたのかということを、顧みることを意味していたのだ。

 穂香にとっての一番の誤算は、三枝を好きになってしまったことだった。最初は、

「あんなロクでもない男を作り出したんだから、ある意味では父親が一番悪い」

 と、巻き込むことに対し、何ら悪びれた思いはなく、むしろ、天誅に近いイメージを持っていたのだ。

 だが実際に計画を立案し、その完成度に自分に酔ってしまい、実行しているうちに、自分がまるで天に変わって罰を与えているかのような正義感の固まりに満ちていた。

 しかし、分岐点を気付かずに通り過ぎたことが災いしたのか、次第に精神的に気弱さを感じてきた。

――気が付けば、私一人だわ――

 しかし、それも覚悟の上でのはずだった。

――お姉さんの敵さえ討ってしまえば、私はそれで救われるんだ――

 と思っていた。

 しかし、実際に信二を亡き者にしてしまって大願成就を果たせば、後に残ったのは虚しさと、自分の手が汚れてしまったことで、もう元には戻れないことを、今さらながらに自覚した現実を感じたことだったのだ。

「死んだ人は、皆心中にしてあげればいいのよ」

 と寂しさの中、穂香はこのままずっと模索という堂々巡りを繰り返していくことになるのだ。

 また、もう一つ、穂香には誤算があった。

 それは登場人物それぞれの考え方が穂香の計画とは別に独り歩きをし、さらに穂香の計画の中にいることで、普段は感じることのないような、例えば「夢の共有」などという思いを抱くことができるようになった。

 穂香の計画に大きな狂いは生じなかったが、その分、穂香の気持ちの中に強く突き刺さるものがあったようだ。

 分岐点を顧みることができたのもそのためなのかも知れない。穂香の誤算は、自分一人で抱え込もうとしたことが、まわりの気持ちを動かしたということだ。

――やはり一人じゃあ、何もできないんだわ――

 と一人で立てた計画の愚かな部分に今さらながらに気付いていたのだ。薄幸の穂香に対して何か言葉を掛けてあげられるとすれば、

「一人で苦しむことはないんだよ」

 という程度の言葉だけなのかも知れない……。

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