第12話 第12章
ママと弥生の知らないところで、三枝と穂香ができていた。
まわりから見れば、二人はできていて当然に見えるのだろうが、それは素人の目だから、そう見えるのかも知れない。それとも、穂香をそれほど知らなくても、三枝を知っている二人にとって、
――三枝に限って――
という思いが強いはずだ。
しかも、ママも弥生もそれぞれ違う意味ではあるが、穂香を舐めきっていたのかも知れない。
ママからすれば、入ってまだ間がなく、前に水商売を経験したイメージのない穂香に、そこまでできるはずはないという、水商売を経営者として見た目での発想だ。
逆に弥生からすれば、穂香の年齢と、同じ雇われ従業員としての対等な立場から見た、ありえないという水商売の先輩としての発想だった。特に弥生は、自分が水商売に入り込んだ時のことを思い出していた。自分がまわりの人とうまくやっていくために、してはいけないこととして頭に叩き込んだことだっただけに、ありえないという気持ちも当然の発想なのだ。
それは、最初にママから頭の中に叩き込まれたことでもあった。ママは、新人には特にそのあたりはキチンと説明するはずだが、それを敢えて無視したとしか思えない。穂香には何か他に考えていることがあるのか、相手が三枝だというのも、何かあるのかも知れない。
三枝にしても、いとも簡単に穂香の誘いに乗ったものだ。
ママにしても、弥生にしても、
――相手が三枝だから――
という共通した思いがあった。その思いが二人一緒に最初に来る発想だったはずだ。三枝という男はそれほど二人からの信任も厚く、他の店の女の子からも一目置かれる存在だったのだ。
三枝は、店の常連になってから、久しい。ママが店を開いた時は、常連客が多かった。常連客で持っている店と言ってもいいだろう。スナックを開店する時に、ママが自分が勤めていた店から、客をうまく誘導することも、うまく経営していけるかどうかの、大切な指標であった。
三枝は、ママが以前勤めていた頃の店に、最後の方で常連になった客だった。前の店からすれば、
――三枝くらい、まだ店に馴染んでいない客はどうでもいい――
というくらいに思っていたようだ。
そんな打算的なことしか考えられないような店だからこそ、ママが常連を引き抜いていくのも比較的スムーズに行けた。ママの、最近常連になった客だけを引き抜けばいいからだ。
ママは前の店で、誰にも言わず、新しく経営する店のイメージを立てていて、すでに引き抜く算段をしていたことで、最後の方は、自分に常連客を付けることと、どうやって引き抜くかを考えていたので、事前工作は比較的、うまくいっていた。
ママがそこまで事前工作できるほど、前の店は人情的に薄い店で、ホステスへの配慮など、なかなかあったものではない。
大きな店だったことも幸いしたのだろう。先輩の中には、同じように独立して行った人も少なくないという。
――ホステスは消耗品――
それが前の店の基本的な経営理念だったのかも知れない。
だから、ママは自分が店を開いてからは、
「お客様あっての、従業員。従業員あってのお客様」
という言葉をいつも口にしていた。
別に客と女の子が深い関係になることを頭から禁止することはしない。もちろん、最低マナーが守られてさえいれば、それでいいのだ。
ママの考え方はそのまま弥生に引き継がれ、まだ若いのに、ママの右腕となっていた。
本当は、ママはもう少し年齢の高い女性を、「チーママ」として雇いたかったようで、前の店からの引き抜きも考えたが、さすがにそこまではできなかった。どこかから引き抜くまではママの性格では難しく、雇い入れたとしても、そこまで務まる人がなかなかいるわけでもなかった。とりあえずは、若いながらも信頼できる弥生が、「チーママ代理」くらいの立場でいてくれることは、ママにはありがたかったのだ。
そんな弥生に対しては、意外と客から個人的に仲良くなりたいという人は少なかった。
元々ナンバーツーというと、とっつきにくい雰囲気を感じさせるものなのか、特に若い弥生に対しては、最初に興味を持っても、若さの中にしっかりしたものを感じさせ、さらに取っつきにくさが備わってしまえば、男から見て、近寄りがたいものがあっても仕方がないことかも知れない。
弥生は、それでもいいと思っていた。どちらかというとスナックでも表に出るよりも、裏方の仕事の方がやりがいがあった。面倒見がいいと言えるのかも知れないが、頭が切れることで、経理的なこと、会計的なことを任せておけば安心できるとママに感じさせたのはありがたいことだった。
そういう意味では女の子が一人減るよりも、弥生がいない方がどれほど大変であろうか。接客の女の子に代わりはいても、弥生の代わりはいないのだ。まだ店を出してそんなに経っていないママとしては、弥生の入院が痛手であることに違いはなかった。
ママは仕方なく、弥生の役を、税理士に頼んでいた。お店の常連さんの中に税理士に知り合いがいるということでお願いしてみたのだが、その人のおかげで、弥生の代わりを何とか賄えている。
その税理士の話として、最近、お店の売り上げが減ってきているのが気になると聞かされた。いろいろ調べてみると、穂香の客が減ってきたことが影響していた。
入ってすぐの穂香にはビギナーズラックというべきか、新しい女の子と話をしてみたいということで客も足しげく通ってくれていたようだが、次第にその客が少なくなっていた。少々の減りであれば、それも仕方がないのだが、目立っているのは気になったのだ。
調べてみて、そこで分かったのが、穂香と三枝の関係だった。
ママの出勤時間は、開店時間前のいろいろな雑用とかもあり、開店時間からかなり後になってからのことが多い。どこの店でも同じようなことではあるので、それだけに、開店からしばらくの間のことは、他の女の子に任せている。
なかなかその時間帯に起こっていることは把握できていないのも事実で、その時間帯に三枝が一番多くやってきていて、いつも相手をするのが、穂香だというのも、事実であった。
穂香と三枝の関係を、疑う余地もないくらいにありえないと思っていたママだったので、この時間帯は安心して、女の子に任せられていたのに、まさか穂香と三枝の仲がここまで進展するものだとは想像もしていなかっただろう。
そんな穂香を他の客が見ると、敬遠したくなるのも当然である。
そんな客が他の女の子に興味を持つかというと、そこも難しいもので、
――穂香ちゃん目当てなのに、そんな子だと思ってもみなかった――
と、お客さんに感じさせてしまっては、なかなか他の女の子を見る気持ちも萎えてくる。そこまで来てしまったなら、他の店に鞍替えする人も当然増えてくる。
元々、このスナックは常連さんから始まった店である。途中から入ってきた人は、女の子目当てでなければ、常連客と仲良くなるなど考えられないし、そうなると、もうこの店への未練など、微塵もなくなってしまう。
そんな構図をさすがにママも最初は分からなかった。
一人の女の子のために、ここまで悪い方に進んでしまうなど、思ってもいなかったからである。
穂香は、明るさに特徴のある女の子で、ママが面接ですぐに採用を決めたのも、スナック向きだと思ったからだった。笑顔はスナック向きというよりも、接客に向いている笑顔だと思ったのだ。だが、それが裏目に出てしまったのだ。
接客に向いているということは、一人を独占してはいけない笑顔だ。だからこそ人気が出るはずだったのに、せっかくの笑顔も、それを使う以前に、一人の人と「できて」しまったのだから、どうしようもない。
――可愛さ余って憎さ百倍――
という言葉もあるが、そこまで大げさなものでなくとも、客からすれば、少なくとも、
――裏切られた――
と感じてしまっても無理のないことだろう。
穂香本人には裏切ったなどという気持ちはない。もちろん裏切ったわけではないので、穂香を責めるわけにもいかない。しかし、客心理は、一筋縄ではいかない。穂香を責めるわけにはいかないので、態度を改めろとも言えないし、三枝に「ご注進」できるほど、ママは三枝としたしくもなかった。
三枝に何か言えるとすれば弥生だけなのだろうが、弥生も今の状況ではどうすることもできない。
――弥生ちゃんが退院して、お店に復帰してきて、今の状況を見れば、どのように思うかしら?
ママは、想像するのさえ、ゾッとしてしまっていた。
弥生の退院の日が近づいていた。
記憶が完全に戻ったわけではないが、欠落した部分の記憶がなくとも、普通に生活していけるという、精神的な面での回復が主な理由で、記憶という意味で、弥生が入院で得たものは、ほとんどなかった。
元々、入院したのは、精神的な安定を目指してのことだったので、目的は達成されたと言ってもいい。
病院ではまだ理沙が入院していたが、そのことを少し気に病みながらの退院であった。
退院しても、すぐに仕事に出るわけではなく、少し自宅療養が必要だった。ママもそのことは分かっていての、納得ずくの自宅療養は、カルチャーショックを元に戻すという作用もあった。病院での一見退屈に見えた生活も、慣れてしまうと、今度は退院してからの生活に馴染むまで、結構大変かも知れない。記憶が欠落する前の弥生は、絶えず頭を働かせていたのだから、入院生活の退屈さは、いい気分転換になる反面、それまでの生活を一変させるだけの大きなリズムの変化だったに違いない。
三、四日は自宅療養が必要だろうということで、ママから許可を得て帰った自宅の部屋に入った瞬間感じたことは、
――あれ? こんなに狭い部屋だったかしら?
ということだった。
退院する前は、部屋が広く感じるのではないかと思ったくらいだった。
病院での生活は、それほど弥生に心の中に余裕を与えた。ポッカリと空いたものも感じていた。それを余裕だと感じたのだ。
だが、実際に帰宅してみて、部屋が狭く感じられたのをみると、心の中に与えられたものは余裕ではなかったのではないかと思うようになった。そこにあるのは余裕ではなく、「虚空」だったのかも知れない。
「虚空」は、自分の中でどれほどの果てしなさを感じさせるかを思い描いてみた。それが余裕であれば、果てしなさなどという考えは存在しない。余裕が生むのは果てしなさではなく、充実感なのだ。それが部屋を広く感じさせるのだろう。
しかし、虚空のように果てしなさを感じさせるものには、却って広さよりも狭さを感じさせる。それは、以前に感じた時より、時間が経っているからだ。しかも、前に感じた時は虚空の存在など皆無で、部屋の広さは不変であり、それすら感情にないほどに感覚がマヒしていたからに違いない。
部屋の中に入った弥生は、すぐにカーテンを開け、表の光を差し込ませた。それが一番部屋を活性化させるのに一番だと感じたからだ。
――部屋の殺風景さが、部屋を狭く感じさせただけだわ――
あくまでも「虚空」を否定したいのだ。
――そういえば、この部屋に他の人が来たことって、かなりなかったわね――
元々、友達を連れてくることはなかった。他の部屋から聞こえてくる騒音を極端に嫌う弥生は、自分から騒ぎの種を作る気はしなかった。下手に作ってしまうと、今度は自分が文句を付けられなくなるからだ。
付き合っていた人を連れてきたこともない。完全に自分のスペースとして確立していた。それだけに、殺風景さは今に始まったことではないのだが、少しの間、この空間には人の気配がなかったのだ。
自分であっても人の気配である。かろうじて、今でも人の気配を感じることができたのだが、
――これが以前の私の気配――
弥生はそう思うと、密閉された部屋であるにも関わらず、足元から冷たい空気が通り抜けるのを感じた。
――風は動いているんだ――
ただのすきま風には違いないが、動いている風を感じると、
――部屋がやっと住人が帰ってきてくれたことを喜んでいるのかしら?
と思ったりもしたが、そんなメルヘンチックな考え方などあまりしたことのない弥生としては、
――私らしくないわね――
と言って、自嘲の笑みを浮かべてしまい、自分でボケて突っ込んでいるような一人芝居をしばし考えてしまっていた。
表から差し込んでくる日差しは、普段スナックでの生活が中心となっていた自分が、入院中でも、夜の生活のままの感覚であったことを思わせた。
夜のラウンジから見た、かすかに見える明かりに何を感じていたというのだろう?
本当は暗闇がいいはずなのに、一つの光が気になると、他の明かりも探してしまうのは、夜の生活の中に満足できているわけではなく、明るい世界を一つでも見つけようとしている証拠ではないのだろうか。
そう思うと、弥生が入院生活の中で、同じような考え方をしているように思えた理沙のことが気になってしまう。
――もう退院したんだから、彼女のことは気にしないようにしないと――
と思えば思うほど、弥生は理沙を思い出してしまう。
弥生は理沙の後ろにいる誰かを感じていた。それは自分に関係のある人なのかも知れないと感じたのは気のせいであろうか。ラウンジの暗闇から一点の光を探そうとしているのは、理沙の後ろに見える、知っているかも知れないと思える人の面影を探っている様子を見ているからなのではないだろうか。退院してきてもラウンジのこと、理沙のことを思い出してしまうのは、そのせいなのだろう。
部屋に帰ってきてすぐに、弥生はコーヒーの準備をしたが、部屋の中を伺いながら、虚空を感じている間に、コーヒーの香りが部屋の中に充満してくるのを感じた。
――これでやって部屋に帰ってきたんだわ――
弥生は、コーヒーが好きだった。
それも表で飲むコーヒーではない、この部屋で飲むコーヒーだった。
――この部屋にはコーヒーの香りがよく似合う――
と、最初に感じたのはいつだっただろう?
田舎から飛び出してきて、スナックに勤め始めた頃からだろうか。ママに誘われてスナックに勤めるようになってから、割り合い最初のことから、店に馴染んでいた自分を思い出した。店の中を切り盛りしているママの補佐をするのが楽しかったのだ。表に出ることはないが、縁の下の力持ちが自分には似合っているということを学生時代から自覚していた弥生だけにスナックでの充実感は、
――まるで天職だわ――
と思えるほどになっていた。
もちろん、お客さんの相手もしてはいるが、他の女の子と自分は違うという意識が、優越感に繋がる。
――優越感は、充実感の中でもエネルギーとなる部分を支えるものなんだわ――
と、感じるようになっていた。
それがいいことなのか悪いことなのか、結論は自分で出すものではない。ママもハッキリとは言わない。だが、エネルギーになっていることは確かである。
――毒を持って毒を制すともいうではないか――
という感覚もあった。
コーヒーの香りは、感覚をマヒさせるものだと思っていたが違っていた。逆に、
――感覚を覚醒させるものだ――
というのが正解であろう。
悦に入っていることがあれば、さらに心地よさが漲ってくる。それが充実感であれば、さらなる高みの満足感を与えてくれる。
その時に、感覚がマヒしてしまったように感じるのは、飽和状態に陥ってしまうからなのかも知れない。
コーヒーを口にすると、避けることのできない苦味が口の中に広がってくる。
苦味が頭を覚醒させるものなのかどうか、弥生には分からないが、
「コーヒーを飲むと眠れなくなる」
という感覚は、誰もが口にすることで、まんざら嘘ではないだろう。弥生の中で感じる苦味は舌の先端で感じることもあれば、奥で感じることもある。本当は決まっているはずなのにその時で違うということこそ、コーヒーの味に対して感覚がマヒしているからではないかと思うのだった。
部屋に広がった香りからは、想像もできないような苦さを感じる。弥生はミルクが苦手なので砂糖しか入れないが、そのせいなのかとも感じた。
――いや、ミルクを入れてもまろやかにはなるかも知れないけど、根本的な苦さに変わりはないはずだわ――
と思った。
同じようにブラックで飲む人も同じことを言っていた。
「ミルクを入れようが入れまいが、苦さには関係ない」
半分本心だと思って聞いていたが、その時は学生時代の他愛もない会話の中でのことだったので、それほど重要視して聞いていたわけではないのに、よく思い出すセリフである。やはり、自分の部屋で飲むコーヒーは、他で飲むのとは一味違う。飲みながら、孤独を感じているからであろうか。
弥生は自分の部屋にコーヒーの香りが漂ってくるのを感じると、やっと暖かくなってきた部屋を感じてきた。
さっきまで狭いと思っていた部屋も、以前の広さに変わってきたのだが、それは部屋に対して自分が慣れてきたのかも知れない。それだけ、部屋がやっと自分を「住人」だとして許可してくれた証拠のように思えてきた。
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