第11話 第11章

 理沙の意識が戻って、そろそろ一週間が経とうとしていた頃、弥生は退院して行った。退院していく弥生を、理沙は横目でチラリと見ただけで、さほど意識することもなかった。あの日からラウンジに消灯後に行くようになったが、弥生と出会うことはなかった。もしいたとしても、何か話さなければいけないのではないかと思うと、億劫になり気が滅入ってしまっていたかも知れない。寂しさの中、一人佇んでいることが一番似合っているように思っていたのだ。

 弥生が退院した次の日、理沙を訪ねてくる一人の男性がいた。彼は理沙の姿を見て、涙目になっているのが分かる。

「すまない」

 それが男の最初の言葉だった。

「……」

 理沙はすまないと言われても、記憶のない状態で見覚えのない人から詫びを入れられても、それにどう答えていいか分からなかった。

「そうか、君が記憶を失っていると聞いたけど、本当だったんだね。本当かどうか、自分の目で確かめるまでは信じられないと思っていたけど、やっぱり本当だったんだ」

 何を疑っているというのだろう。記憶喪失が狂言だとでも言いたいのだろうか? もしそうだとすれば、失礼な話である。

 理沙は男の顔を怪訝な様子で眺めていた。自分でも不審者を見ている表情であることは分かっているので、普通なら他の人には見せられない顔に思えた。そういう意味では失礼はお互い様なのかも知れない。

「一体、どなたなんですか?」

 声に出してみると、さすがに記憶を失っていることを分かっているとはいえ、相手が嫌な顔になったのは、ショックだった。どこまで親密なのかは分からないが、相手は少なくとも自分を知っている相手だ。そんな相手から、面と向かって知らないと言われてしまえば、ショックなのは隠し切れない。しかも今の理沙には、普段では感じることのできない相手の感覚を鋭く察知できるようなアンテナが張り巡らされているように思えているのだった。

 男はショックを敢えて隠そうとせず、その代わり、淡々と話し始めた。

「僕は、君の恋人だった男だよ」

 と言うと、理沙がすぐに男の言葉に矛盾を感じ、

「恋人……だった?」

 過去形であることに矛盾を感じたのだ。

「ええ、恋人だったんですよ。別れたからね。別れを言い出したのは君、だけど、傷ついたのも君だったんだね?」

 彼の出現が、理沙に自殺の原因を思い出させてくれるかも知れないと感じたが、

――逆に思い出すなら、この人以外から思い出したい――

 と思っている自分に気が付いた。

 なぜなら相手は当事者である。当事者なら、理沙の記憶のないのをいいことに、当然自分を庇うような言い方をしてしまうだろう。そうなってしまっては、何を信用していいのか分からなくなってしまう。そう思うと、理沙はあまり男とこの場で二人きりになることを避けたいと思うのだった。

 男にはそこまで分かっているのだろうか? 理沙を見つめる目が、

――俺は君のことなら、何でも知っているんだぞ――

 と言わんばかりであった。

 記憶がない時、一番辛いのは、人から作為的に自分の記憶を作られてしまうことだ。今まさにその状態になりかけていることに、理沙は戸惑いを隠せないでいた。

 男が言ったように、別れを切り出したのは理沙本人だったのだろうか? 理由は何なのだろう。別れを切り出した方が傷つくというのは、理論的には確かにおかしいことだとは思うが、恋愛にいろいろな形があるように別れ方にもいろいろある。別れを切り出した方が傷つかないと一概に言えないだろう。だが。傷つき方が問題で、それが原因で自殺に至ったのだとすれば、そこに何か大きな問題が潜んでいるに違いない。

「お名前は何とおっしゃるんですか?」

「三枝信二と言います。理沙さんとは、大学の時からの知り合いで、知り合ってから五年、付き合った期間が二年でしたね」

「ということは、途中まではお友達だったということですか?」

「そうですね、大学卒業までは友達でした。卒業してから付き合ってほしいって、僕の方から告白したんですよ。すると、あなたは、快く承諾してくれました。きっと相思相愛だったんだと思います」

「相思相愛だったのに、別れることになったんですか?」

「ええ、相思相愛だったのは間違いないと思っています。今のあなたには思い出せないことなのかも知れませんが」

 信二は、理沙と二年間付き合っていたと言った。就職してからの二年間なので、学生の頃とはかなり違った感覚であろう。

「僕は、卒業してからの二年間を、あっという間だったって言ったら、君は、「そんなことはない。長かった」って言ったんだよ」

 付き合っていたことすら覚えていないのに、長かったかどうかなど、分かるわけもない。それなのに、信二が敢えて言ったのは、長さを搦めて思い出そうとすると、思い出せないことも思い出せるのではないかと思ったからなのかも知れない。理沙にとって、そこまで考えられるほど、記憶喪失は一筋縄ではないようだ。一つのことを思い出そうとすると、他のことがネックとなって思い出せなくなってしまうこともあり、この間、弥生と一緒にいる時に感じた堂々巡りが、今の自分のネックとなっていることを、今さらながらに思い知った気がした。

 自分の記憶の中で喪失した二年間を知っている人がいる。

 しかも付き合っていたのだというのであれば、自分と同じくらいに知っていただろう。ある意味では自分以上かも知れない。

 理沙にとって信二の登場が、記憶の扉を開くカギになるのかも知れないと思ったが、理沙自身、誰かに切り開かれる記憶の復活を望んでいるわけではなかった。

 なぜなら、自殺をした理由が分からないからだ。

 しかも、自殺が一人ではなく、誰かと一緒だったという。皆はそれを心中だと思い込んでいるようだが、実際に一緒に死のうとした相手は、自分と面識がない相手だというではないか。面識のない相手と一緒に死ぬなど、考えられない。

 死を目前にしている人は、身辺を綺麗にして死のうと考える人がほとんどだというが、理沙はその気持ちが分からない。死のうと思ったのなら、決意が鈍らないうちに死んでしまおうと思うのではないか。グズグズしているうちに、決意が鈍ってしまうかも知れないと感じるからだ。

 鈍るくらいの決意だけで、死に切れるものなのかとも考えられる。身辺を整理して死を迎えようという人は、少々のことでは死に対しての決意が鈍ることはない。それで鈍るくらいなら、本当の決意とは言えないという考えなのだろうが、理沙には分からない。

 理沙が感じる死の決意は、衝動的なものしか想像ができないからだった。

 それは記憶を失ってしまったから、そう感じるのだろうか。記憶を失う前であれば、余裕を持った気持ちの中で死の決意を感じていたのかも知れない。死の決意に対して、余裕という言葉を当てるのは、少し不謹慎な気がしてきた理沙だった。

――それにしても、私はどうしてこの人と別れようと思ったのかしら?

「信二さん、私があなたと別れようとした理由を、その時の私は何か言っていましたか?」

 信二は、言葉の代りに俯き加減になって、首を横に振り、答えてくれた。

「私は、本当に思い出せないんです。あなたとお付き合いしていたという事実も、あなたと別れようとしたその時の気持ちもですね。思い出したいという意志とは裏腹に、思い出すことで、知りたくないことまで思い出してしまいそうで怖いという気持ちもあります。死のうとしたのだから、何かを葬りたいと思ったのも事実でしょうし、葬ることができたかどうか、今の自分には分かりません」

 理沙が気になったのは、信二が部屋に入ってきての開口一番、

「すまない」

 と言った言葉だった。

 何が一体すまないというのか、それが理沙には分からない。

 身体はほとんど正常に戻り、後は先生の許可が下りれば退院できるくらいまで回復していた。記憶が喪失していると言っても、いつ戻るか分からない記憶を待ってまで、入院するわけにもいかなかった。通院は必要であろうが、一度部屋に帰らなければならないだろう。

――だけど、どこの部屋?

 確かに自殺しようとして身辺整理までしたわけではないが、今さら自分の部屋に戻るなど、考えていなかったのだから、戻ったところでどんな心境になるのか、想像しただけで恐ろしい。

 何が怖いといって、自分を知っている人がいても、その人たちを自分がどこまで分かっているかということが不安なのだ。気軽に声を掛けられても、何と答えていいのか分からずキョトンとしてしまい、訝しそうな目で見られている自分を想像しただけで恐ろしくなってしまう。

 そんな時に現れたのが、信二だったのだ。

 彼はどうやら自分にとって大きな存在だったらしいが、自分から縁を切った相手のようだ。それでも彼は恨み言も言わずに訪ねてきてくれた。渡りに船とはこのことだろう。

 どこまで彼に甘えていいのか分からない。ひょっとすると、彼の中で、もう一度復縁を考えているのかも知れない。過去の自分が何を思って彼と縁を切ったのか分からないが、それなりに理由があったのは当然のことである。

 ただ、彼がただ復縁を求めたくて現れたわけでもなさそうな気がする。恨み言を言っているわけではないが、理沙の心配を手放しでしているというわけでもなさそうだ。理沙が別れようと言った理由を訊ねた時、教えてくれなかったではないか。

 理沙の記憶がないのは、彼にとっていいことなのだろうか? それとも悪いことなのだろうか?

 信二はその日、多くを語ることもなく帰って行った。何かを話そうにも、会話にならないのだ。それでも来てくれたということは、理沙にとって嬉しいことではあったが、信二が何かを確かめたくて来たのかも知れないとも思った。

――私が本当に記憶喪失なのか、確認しに来たのかしら?

 と思ったが、今さら確認してどうなるものでもない。

 彼の言う通り、自分の方から縁を切ったというのであれば、未練がましいことであるが、そんな様子は見受けられなかった。

 ただ、彼を見ていて理沙なりに感じたのは、

――落ち着いた表情に見えるけれど、あれはまるで他人を見るような表情だったわ――

 という思いである。

 別れを切り出した相手に会いに来てみれば、すっかり自分のことすら忘れてしまっている。すべてが彼にとっても、

――今さら――

 という思いなのだろう。

 三枝信二という名前をいくら思い返しても、どこからも出てくるものではない。ただ、見覚えはあった。見覚えがあるので、まったく知らない相手だということはないだろう。本当に彼のいうことを額面通りに受け取っていいのかは疑問が残るが、理沙が入院してから出会った、初めて自分を知っている相手であった。

 理沙は、弥生のことも思い出していた。

 弥生とはほとんど会話を交わしたわけではないが、何か自分と同じものを持っている。この時理沙は、弥生も自分と度合いこそ違えど、記憶を失っている人であることは、雰囲気で分かったが、まさか自分と同じように自殺を試みた人だということまで知る由もなかった。

 もし、会話をしようと試みたとしても、言葉が続かなかったような気がする。お互いに言葉に出して会話ができるほどの自信がないのだ。欠落した記憶がどのようなものなのかを考えてしまうと、会話の骨子になるものが浮かんでこない気がした。理沙は入院していて誰とも話をすることはない。先生や看護師の質問に答えるか、一、二度やってきた坂田刑事と会話をしたくらいだった。三枝信二も、理沙の顔を見て、何を話していいのか戸惑っているようだが、それは別れた相手だったら、当然のことであろう。むしろ別れた相手がいくら自殺を図って入院しているからといって、ノコノコやってくるというのもおかしな話だ。

――どう見ても、お見舞いの雰囲気ではないわ――

 一応、花束を手に提げてきてはいたが、暗い雰囲気は確かに彼を見ていると感じられるが、理沙にとって、以前にどこかで見たことがあると思った雰囲気とは違っていた。

――まるで何かを探りにきたみたいだわ――

 疑えばいくらでも疑える。理沙は自分が疑り深い性格だったことを、今さらながらに思い出していた。

 理沙は、自分がどんなタイプの男性なら好きになるだろうと思い描いていた。

 あまり軽薄な男は嫌いであるというのが、一番最初に浮かんだ気持ちだったが、それは子供の頃から変わっていない。子供の頃に軽薄な男性に付きまとわれた経験があったというのを、今思い出していた。

 そして、その次はと言えば、しつこい男性も嫌いだった。これは大学時代に感じたことだった。

 そうやって考えていくと、自分の男性の好みから、喪失したと思っていた記憶が少しずつ明らかになってくるのを感じると、

――記憶なんて、結構曖昧なものなのかも知れないわね――

 と思うようになった。

 逆に言えば、一つのことがきっかけになれば、芋蔓式に忘れてしまったことを思い出すこともあるのではないかと思えるのだった。

 理沙の記憶は徐々にであるが、少しずつ回復しているようだ。

――先生に話せばなんて言うだろう?

 と思ってみたが、驚くかも知れない。最初は腫れ物にでも触るような感じだったが、退院が近いことを仄めかされてからは、なるべく普通の態度を取るようになっていた。

 記憶喪失とは、記憶が戻る時は徐々に戻るものではなく、一気に戻るものだと思っていた。

――記憶喪失になったきっかけによって違うのではないか――

 とも思ったが、きっかけだけではなく、その時の環境にもよるのかも知れない。

 見てはいけないものを見てしまった後悔の念であったり、押し寄せてくる恐怖のようなものであったり、さらには、外部からの暴力などによる圧力だったりするだろう。ただ、理沙の場合のように、自殺が絡んでくると、そのどれでもない。しいて言えば直面した死の恐怖というのが一番強いのかも知れない。

 記憶喪失が恐怖からのものであるとするならば、徐々に復活してくるものではなく、何かのショックによって、一気に引き戻されるものだと思っていた。

 理沙にとって戻ってきた記憶は、崩れた一角から剥げ落ちたものがきっかけになっているとしか思えない。そうであれば、思い出したと思っている記憶が、本当に自分の記憶なのかということが疑問に思えてきた。

 訪ねてきた三枝信二という男にしてもそうだ。まんざら知らない人だと思っていたが、次第に戻ってきた記憶を思い起してみると、まんざら知らない人だという意識が覆ってきそうに思えた。

――まんざら知らないなどというようなものではなく、以前から知っていたはずの人じゃないのかしら?

 と思えてきた。

 そう思うと、

「三枝信二」

 再度名前を呼び起こすと、どこかで聞いたように思えていた。ただ、やはりさっきの男とは違う人だ。

 しかも、三枝信二の後ろにシルエットで誰かが浮かんで見えてくるように思えてならなかった。それが誰なのかすぐには分からなかったが、その人が女性であることが分かってきた。

「……」

 三枝信二という名前に心当たりと、先ほどやってきた男の顔に見覚えはあるが、シルエットに浮かんでいる女性はまったく知らない人だった。

 その女性はこちらを見てほくそ笑んでいる。それを見て、三枝信二もほくそ笑んでいるのだが、その顔を見ると、無性に腹が立って、許せない気分にさせられた。

 理沙には、その二人が男と女の関係であることはすぐに分かった。男の方は、中年の貫録を十分に醸し出していて、女の方は、水商売の女に見える。

 中年の男性に比べて、女性はまだ若い。二十歳そこそこというべきだろうか。幼さの残るその顔には幼さの裏に見え隠れする妖艶さが、まるで男の後ろでシルエットとして立っていることが自然体であるかのように思わせた。

 理沙は、自殺する前だったと思うが、誰か知らない人の夢の中に入り込んでしまったのではないかと思えるような夢を見たことがあった。

――まさかそんなことありえないわ――

 と、すぐに否定したが、否定がすぐだったことが却って印象深く意識の中に残る原因を作ったのかも知れない……。

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