第9話 第9章
穂香がスナックに慣れてきて、三枝との仲が十分にまわりに浸透し始めたある日、店に珍客が現れた。その人の顔を見て、一瞬凍り付いてしまった穂香に気が付いた人は、誰もいなかった。
その日は珍しくテーブル席のすべてが埋まり、カウンターも一番奥の席を除いて、埋まっていた。女の子もママを含めて三人で足りるわけもなく、普段お休みだった女の子も急遽応援に来てもらったくらいだ。
テーブル席の団体は別にして、カウンターの単独客も、まるで示し合わせたかのように同じくらいの時間に集中した。客が一気に埋まってしまうと、それまでとはまったく店の雰囲気は一変する。
――カウンター席がこんなに狭かったなんて――
穂香が初めて感じた感覚だった。今までは客がいっぱいになっても、徐々に人が増えてくる感じなのに、一気に客が埋まってしまうと、息つく暇がないというりも、人に圧迫されて、カウンターのテーブルまでが狭く感じられるほどだった。
一気に客が埋まってから、三十分ほどはそれぞれの客の相手をしているだけで忙しかったが、助っ人の女の子が来ると、急に楽になった。これだけ客がいるのに、穂香目当ての客はいなかったのである。
そのため、洗い物に従事していたが、そのおかげで、洗い物が一段落すると、楽になっていた。手が空いてくると、まわりを見渡した。その時にカウンター席の狭さを今さらながら感じていたのだ。
その時、扉を開ける音がして、
「いらっしゃいませ」
と、客の姿が見えるか見えないかの瞬間に声が出たことを、ママは見逃さなかった。
――あの娘、よく気が付いたわね――
扉が開くのを確認してから声を掛けたにしては早すぎる。扉の向こうに誰かがいることを意識しないとできないタイミングだった。
――反射的に声が出てしまったけど、自分でもよく分かったものだわ――
穂香は、声を掛けたタイミングより、声が出てしまったことが、反射的であったことに我ながら驚いているようだった。
ママとの感覚の違いは、今までにはあまりなかった。その日、どちらかの感覚が普段と違っていた。どちらが違っていたかというと穂香の方で、その日の穂香は、朝からいつもと違うことを自覚していた。朝起きて目が覚めた時感じたのは、
――あれ? 今日は何日かしら?
という思いだった。
昨日の続きという感覚はなく、睡眠に何かの矛盾を感じていたのだ。
夢を見た気がするが、それがどんな夢だったかまったく見当がつかないほど、記憶にない。普段からあることだが、そういう時は決まって眠りが浅く、起きてから軽い頭痛に襲われることがほとんどだったが。その日は、頭痛がすることもなく、意識も目を覚ますまでしっかりとしていた。
こういう時の眠りは深いということも今までの経験で間違いのないことだった。
夢を覚えていないのに、眠りが深かったというのは、今までに経験したことがなく、穂香の感覚では、矛盾した睡眠だったのだ。
穂香は、目が完全に覚めるまで、結構な時間を要する方だったが、その日はさらに時間が掛かった。だが、時間が掛かったおかげでスッキリとした目覚めを感じることができ、そんな日は、余裕のある一日が過ごせてきたのが今までだった。
確かに午前中は、余裕を持って時間を過ごすことができ、なかなか時間が過ぎてくれなかったわりには、後から思えばあっという間に過ぎているという、理想的な時間の過ごし方だった。
昼を過ぎてからは、余裕もあるが、時間の感覚は普段の状態に戻っていて、どちらかというと、普段と変わらない感覚に、まだ午前中を過ごしているように思うのは、朝の時間がまるで他人事だと思うほど、
――穂香らしくない時間――
を過ごしていたことに気が付いていた。
午後はそれでも、家を出て、近くの喫茶店に寄った。
馴染みというわけではないが、その店に行く時、午前中であればコーヒーを注文し、午後であれば紅茶を注文するというユニークな感覚で立ち寄る店だった。一種のこだわりと言ってもいいのだろうが、他の店ではこのようなことはしない。家に近いということも穂香の中の意識としてはあったのだ。
家が近いと、自分の部屋にいるような気がしてくる。
――勝手知ったる自分の家――
という言葉もあるが、まさしくその通りだろう。
ただ、自分の部屋では午前中と午後とで生活を変えるようなことをしない。この店だからするのであって、それだけ憩いの場を求めているということだろう。
その日も紅茶を注文したが、その日の気分がアップルティーだった。何よりも香りと味がマッチしていて、香りと味とをダブルで楽しめる感覚で、さらにスイーツとしてアップルパイを注文し、アップルずくしを味わっていたが、それはその日一日が一貫した何かを求めている証拠でもあった。
いや、ひょっとすると、何か嫌な予感があったのかも知れない。何か嫌な予感がある時は、学生時代から、一日を通して、一貫した何かを求めるのが無意識の中にあった気がした。
穂香は短大を出ていたのだが、短大時代に初めてスナックでアルバイトをした時、初めて感じたことだった。アルバイトだったのと、女子学生ということで、お店の男性客からはちやほやされることに、有頂天になっていた。まわりの女の子から嫉妬の目で見られなかったのは、やはりアルバイトだということがあったからだろう。
――まさか、こんな小娘に自分の客を取られることはないだろう――
という思いがあっただろうし、穂香もちやほやされるだけで満足し、一人の客と仲良くなるところまでは考えていない。学生アルバイトでそこまでしてしまうと、自分では意識しなくとも、リスクのようなものを背負い込むことになるからだ。そんなことを望むはずもなく、他の女の子と張り合うなどと言う気持ちも毛頭ないものだった。
その日の穂香は、「午後の紅茶」を楽しむ時間が一番の頂点だったのかも知れない。店に入ると、その日、店内が喧騒とした雰囲気になるなど、考えてもいなかった。一気に押し寄せる客にビックリしながら、ママから、
「うちは、時々こういうことがあるのよ」
と、目を白黒させていた穂香の耳元でそっと囁いたのだった。
嵐のような半時が過ぎると、少し落ち着いた気分になった。そんな時、自分に馴染みの客がいなかったことがよかったと思えたのだが、ずっと背筋を曲げて洗い物をしていた時に見た視線が急に背筋を伸ばして上から見るカウンターが狭く感じられたのである。
カウンターが狭く感じられると、急に立ちくらみのような感覚が襲ってきた。中腰から急に背筋を伸ばしたのだから、それも仕方がないというものだ。
だが、立ちくらみがカウンターを狭く感じさせたわけではなく、立ちくらみが収まってきても、感覚は元に戻るものではなかった。その証拠に店全体を見渡しても、普段と意識は変わらない。それを思うと、見える距離によって、感覚が違ってきていることは間違いないようだ。
目を瞬かせていたが、そのうちに入り口が急に気になってきたのだ。扉が開いた瞬間に声を発したのはそのせいで、果たして扉の向こうにいる人が誰なのか。その姿はシルエットでしか浮かんでくることはなく、少なくとも穂香はこの店では見たことのない人であることを感じていた。
穂香の声に皆ビックリして、反射的に扉を凝視した。入ってきた客はさぞやビックリしたことだろう。普段よりも明らかにゆっくりと扉が開いた。反射的に皆が凝視するのと反応は正反対だったのだ。
入ってきた男は、ライトブラウンのトレンチコートを着て、同じ色の帽子をかぶっていた。片手をポケットに突っこんでいて、年齢がいくつくらいなのか、その時はハッキリと分からなかったが、雰囲気から若い客ではないということは分かった。雰囲気から感じられたのは、貫禄の二文字であろうか、なるべく気配を消そうとしても、オーラを消すことはできないような、持って生まれた雰囲気を感じる客だった。
男はコートを脱いでまわりを見渡すと、カウンターの奥しか空いていないことに気付くと、ゆっくりとした歩みで、カウンターの奥を目指していた。
客はまわりを見ることもなく席まで一直線に来たということは、誰も知らないということであり、初めての客であることは穂香にも分かった。
他の人たちは皆それぞれ自分の客で手いっぱいで、当然のことながら相手をするのは穂香しかいなかった。
男は席に着くまで帽子を脱ごうとしなかったので、顔は分からない。しかも帽子のかぶり方は目深であり、顔を見せないようにしていたのはわざとであろうか。穂香は少しその客に不気味なものを感じていたのだ。
席に着き、帽子を脱いだその客は、すぐには顔を上げようとはせず、穂香は声を掛けるタイミングを失い、手におしぼりを持ったまま、待っているしかなかった。
しばらくして顔を上げたその男の顔は真っ青に感じたが、それよりも顔が蒼くなってしまったのは、穂香の方だった。
――この人、見覚えがある――
一瞬身構えてしまった自分を感じ、明らかに覚えている様子を、相手は無表情で見ている。睨みを利かせているわけではないが、
――ヘビに睨まれたカエル――
のようだった。
相手の男はあくまで無表情、前に知っていたはずの時もこの人はずっと無表情で、それでいて、見られている方は、追いつめられていく感覚に陥っていた。
ただ、直接自分に関係がある人ではなく、実際に関わりがあったのは母親の方だった。まだその頃の穂香は中学生くらいだっただろうか。
父親と離婚してしばらくして、母親は情緒不安定な時期が続いた。その時に、魔が差したのか、スーパーで万引きをしてしまったようだ。初犯なので許されてもいいのかも知れないが、母親の言動はおかしかったということで、仕方なくスーパーの店員は、警察に知らせた。
刑事がやってきて、いろいろと質問をしたが、情緒不安定でありながらも、悪気のないところもあって、その時は厳重注意で帰された。それ以降、万引きなどの行為は行っておらず、警察の厄介になることはなかったのだが、一人の刑事が母親のことを気に掛けてくれていて、しばらくは様子を見てくれていた。
朴念仁な雰囲気はあったが、穂香のことも気に掛けてくれていたようだ。穂香が親とは暮らせないと思い家を出てきた時も、その刑事は母を気にしていたようだった。
そこに恋愛感情など存在するはずもないが、それは刑事の側だけに言えることで、母親は、刑事のことを慕いながらも、恋愛感情が生まれていたのかも知れない。
――私が家を出ようと思ったのは、そこにも理由がある――
と穂香は思っている。
一組の男女が、歪んでいるように見える恋愛感情を持った中にいることは耐えられないと思ったのだ。
それでも刑事は母親への恋愛感情を持つことができたのかは、家を出てしまったので分からない。しばらくは気にしていたが、もう気にすることもなくなってきた。その分、自分のことで精一杯になってきた証拠であった。
今穂香の目の前にいる男性は、その時の刑事だった。あまり感情を表に出す人ではなかったが、ここまで無表情だとは思えない。しかも、穂香のことを一度ちらりと見ただけで、後は視線を合わそうとはしない。最初から視線を合わさないのであれば、わざと合わさないようにしているのは、穂香だと分かったからであろうが、一度は見ているのに、それ以上意識をしないというのは、まるで穂香のことを知らない相手だとして認識している証拠だった。
――他人の空似かしら?
と穂香は思ったが、気にすればするほど、あの時の刑事以外の何者でもないという結論しか生まれてこない。
「ビールをください」
やっと頭を上げておしぼりを手にした男性は、すぐに注文を口にした。その声は知っている刑事の声ではなく、ドスの効いた低い声だった。
――むしろこれが刑事らしい声ではないのかしら――
と思うほどの声に、知っている刑事を今さら思い浮かべてみると、今度は、違う人に思えてきた。
この人を中心に考えると、本人以外にないような気がするのに、昔に遡って、当時の刑事を思い出すと、目の前の男性はまったくの別人に思えてくるのだ。
――足して二で割ればちょうどいい感覚なのに――
と感じるほどだった。
目の前に鎮座している男は決してこちらを睨むわけでも、視線を合わせるわけでもないのに、完全に身体が竦んでしまって、金縛りに遭っているかのようだった。
今までに金縛りにあったことが穂香にもあった。
あれは、やはり中学時代で、刑事と会う前のことだった。
学校の帰りに交差点での交通事故を目撃した時だった。
結構大きな事故で、少々離れたところからも、ブレーキの音と、衝突する音が激しく聞こえた。
轢かれた人は、即死だった。
女性のようで、年齢的には三十歳前後くらいだっただろうか。身体が小さかったので、野次馬に混じっても、前の方へ行けた。最前列まで来た時、ちょうど轢かれた人が仰向けになっていた。完全な断末魔の表情を浮かべていた。
口を押えて気持ち悪さを何とか凌いでいたが、カッと見開いた目は完全に虚空を見つめていた。
「自殺なんだってね」
という声が聞こえてきた。
初めて、その時に人の死というものに直面したかと思うと、自殺という言葉にドキッとした。
――可哀そう。一人で死んでいくなんて――
人は死ぬ時、普通は一人で死んでいくものだというのをいつもなら分かっているはずなのに、その時、自殺という言葉を聞いて、可哀そうだという発想とともに、一人で死んでいくことの違和感を感じたのだった。
それは自分で自分の命を抹殺してしまったことへの苛立ちのようなものがあったからなのかも知れない。死ぬ前に誰かがいてくれれば、自殺など思いとどまったかも知れないという思いと、もし死ぬなら、一緒に死んでくれるのなら、寂しくなくてもいいというおかしな意識を持ったからなのかも知れない。
どちらにしても、普通に静かに迎える死に直面したわけではない。喧騒とした雰囲気の中で、一人虚空を見つめて、断末魔の表情を浮かべている。当分頭から離れなかったのも当然と言えるだろう。
しかし、ある日を境に、思い出すことはなくなった。事故を目撃したという事実だけは意識の中にあるのだが、断末魔の表情を思い出すことはできなかった。思い出せないのなら、それに越したことはないのに、不思議だった。
――ひょっとして自分以外の誰かの瞼の裏に写っているのかも知れない――
という不思議な感覚に駆られた。
移ってしまった誰かには、断末魔で蠢いている人を知るはずなどないのだ。そう思うと、断末魔を瞼の裏に見つけた時のその人の心境を思い図ることなどできるはずがないと思うのだった。
その時、
――穂香は自殺するのであれば、心中の方がいい――
と、子供心に感じた。
まだ異性への気持ちが固まっていない時だったのだが、この事件をきっかけに、急速に異性への思いが強くなった。思春期の転換期に彼女が受けた影響が事故だったというのは、何とも人が聞いたらいたたまれない思いに陥るに違いない。
そしてしばらくして思春期の中間くらいだっただろうか、母親の万引き事件が起き、刑事の影が母親と穂香の二人に寄り添うようにいたのだ。
まるで自分の影のように静かに佇んでいることが、これほど不気味だというのをその時に初めて感じた。
大人になってからは、それがその人の男としての気持ちと、刑事としての責任との葛藤の中に渦巻いていたものがあったのだろうと思うと、不気味だと感じたことを申し訳なく思い、気持ちを分かってあげられなかった自分が、まだ未熟だったのだということを思い知らされた。
男としての刑事と、刑事としての男の差が、子供の目から見ていてかなりあったように思う。それは母親も感じていたようで、決して心を許さないようにしていたのは、見ていて分かった。それは子供心からではなく、子供が親を見る目だった。いくら成長期とはいえ、親を見る時は子供の目であっても、大人に匹敵するくらいのものを持っているのかも知れない。大人と子供の違いというのは、本当のところ、どこにあるというのだろう?
目の前の男に恐怖を感じていることを知っている人は、まわりに誰もいなかった。それぞれに客の相手をしているというのもあるだろうが、穂香は少なくとも自分の中から恐怖というマイナスのオーラを発散させていると思っている。それは無意識にではあるが、
――助けてほしい――
という気持ちの表れに違いない。
助けてほしいという気持ちが強ければ強いほど、穂香はまわりの声が聞こえなくなり、まわりも穂香を意識していないように思う。完全に穂香と目の前の男性だけの世界に入り込んでいるのだ。
――本当にあの時の刑事なんだろうか?
穂香を見て何も反応しないのが不気味で仕方がない。知らないなら知らないでそれなりのリアクションがあってもいいはずなのに、それもない。
「ビールをください」
という一言だけで後は何もない。そんな二人の空間は、空気が飽和状態で、息苦しさは最高潮だった。
刑事の存在にママは気付いていたが、その男が刑事だということは分かっても、どうして穂香がその男を恐れるのかは分からなかった。
弥生のように穂香はママに打ち明けてくれたことはない。いつも一人で抱え込んで、自分から孤独を迎え入れるようなところが穂香にはあった。
穂香の存在が、この部屋の空気を異様にしているのは事実で、どうしても一人だけ違う雰囲気の人がいると、まわりが色めき立つこともある。
ママは今までの経験からそのことは分かっていたが、かといってどうすることもできないことも分かっている。下手に穂香を諭そうとしても、余計に殻に閉じこもるだけだ。自分から殻を破ろうとしない限り、彼女の孤独は誰にも分からない。
部屋の空気が飽和状態のピークに達すると、一度時間が止まったように感じられた。それを意識しているのは穂香だけで、
――まただわ――
と、以前にも同じ感覚に陥ったことがあるのを思い出した。
だが、それがいつのことだったのか、穂香は思い出すことができない。内容を思い出すことができなくても、いつ頃のことだったのかということは、時間が経てば少しは思い出してくるものなのだが、その時はまったく思い出すことができなかったのだ。
そんなことも今までにはあった。
――あの時は、おかしな感覚だったわ――
思い出そうとすればするほど、次第に忘れてくる。そして、そのことを近い将来思い出すことになるのだった。
なぜかというと、
――まただわ――
と思って、以前にも感じたことがあると思ったことは、実は前に感じたことではなく、近い将来に感じることの予感だったのだ。その時と今とで同じ感覚だということは、空気が飽和状態になり、時間が止まったように感じたのは過去ではなく、未来にもう一度同じ感覚の訪れを予感させるものだったということになる。
過去があって現在があって未来がある。過去に似たようなことがあったように思い、現在を迎えたのだから、将来に起こるかも知れないという思いを今抱いたとしても不思議ではないように思える。現在から過去を見るのは、未来から今を見るのと同じなので、過去を見るつもりで今を見れば、そこに何かの予感を感じることができれば、未来に起こることが予感できたとしても、不思議ではないだろう。
理屈としてはそうでも、なかなか理解できるものではない。
実は、ママにも同じところがあった。過去を見ているつもりで過去を見る感覚を何度か感じたことがあり、未来に起こることを予期できた気がしたことがあったのだ。ママは穂香と似ているところは一切ないように思っていたが、どこか通じるところがあるような気がしていた。それが、未来への予見であるという共通点だということに気付くまで、まだ少し時間が掛かった。
ママは穂香を見ていて、嫌な予感がした。
自分や店、そして自分のまわりの人に危害が加わるというわけではないが、ママ自身と穂香の間に小さなことのようなのだが、何かが起こるような気がしてならなかった。
穂香と弥生は共通点が結構あるような気がしていた。それはママも感じているし、弥生も感じている。ただ、穂香は感じているのかも知れないが、それを自分で認めたくない気持ちが強かった。
穂香にとって誰かと似ているところを見抜かれるのは、まるで自分を裸にされるほど恥かしいことだった。羞恥にまみえるくらいなら、人を頼りになどしたくないという思いが穂香にはある。いつも孤独でいるのは、その思いが強いからだった。
そのくせ独占欲と、競争心が強い。スナックのような店ではもっと自分を表に出せば、きっと独占欲も競争心も、意のままにできて、満足の行く生活が送れるのだろうが、自分を表に出すことのできない性格が災いしてか、どうしても殻に閉じこもってしまうことで、まわりにマイナスのオーラを発散させてしまっている。
それでも、三枝は穂香と一緒にいることを望んでいる。殻に閉じ籠ることさえなければ、弥生に負けないくらいの女性なのだということを分かっているのは、自分だけだと感じている。
三枝は、その思いだけで十分穂香といる時間を大切にできるのだと思っている。穂香は弥生に対して競争心を持っていながら、表に出さない自分でいたのだが、三枝が現れたことで、自分をどんどんアピールできるようにもなっていた。
今まで母親の孤独を見て嫌悪感を感じていたくせに、自分が殻に閉じ籠ってしまっていることと別のことだとして、避けて通ってきた。しかし、三枝との間に開かれた殻は、穂香に笑顔をもたらし、その笑顔は三枝だけのものになっていた。三枝はそんな女性の出現を待っていたことに今さらながらに気が付いた。二人はお互いに足りないところを補って余りある関係であると自覚するに至っていたのだ。
弥生にそれを求めたが、弥生では無理なことが分かった。それは彼女の中に思い出せない記憶の欠落を感じたからで、今後の欠落の中に自分が入ってしまうことを嫌ったのだ。穂香には記憶の欠落は感じられない。さらに穂香と昵懇になった理由としては、
――常に同じ目線で見ることができる――
というところだ。
弥生とは、自分の方が上からであったり、逆に弥生の方が上であったりすることがあった。最初はそれでもよかったが、一緒にいるうちに疲れてくる。気を遣っていないつもりでも、気を遣わされているような気がしてくると、次第に気持ちが冷めてくるからだ。
穂香には競争心が高いところや独占欲の強さもあるが、表情を見ていると、性格が表れている。だから自然と彼女を避けようとする男性もいる。彼女のことを気に入る客と、最初から敬遠する客といて、穂香に対しての態度は両極端である。
一人だけの客の視線を見ていては、穂香のことを見誤ってしまう。やはり本人と仲良くなってみないと分からないことが大いにあるというものだ。
穂香の顔は、幼さの残る顔で、大人の妖艶さも兼ね備えている。表情も両極端なのだが、その時の感情によってどちらが前面に出てくるかが決まってくるようだ。
どちらかが表に出ている時、片方は隠れているというわけではなく、笑顔の中に幼さが残る顔が前面に出ていて、さらによく見るとその奥に妖艶な大人の魅力が見え隠れしている。
大人の妖艶さが前面に見えている時は。その奥に幼さを感じる。三枝は穂香の表情の特徴を掴んでいて、笑顔が前面に出ている時は、恥じらいながら相手の顔を凝視している。逆に大人の妖艶さが醸し出されている時は、視線を合わせようとせずに、下を向いてることが多く、それも恥じらいがもたらすものではないかと思うようになっていた。
声のトーンもそれぞれで違っている。前者はまるで子供と話しているような絵に描いたような舌足らずの声で、後者は鼻に掛かったようなハスキーボイスが魅力であった。
痘痕もエクボという言葉があるが、三枝が穂香を見ていて雰囲気に参っているのは間違いない。
店の外で会うようになると、その気持ちは三枝の中でハッキリしてきた。正直、店にいる時だけでは、一人の気になる女の子というイメージと店の中でのウキウキした雰囲気に酔っていたと言っても過言ではない。店の外で会うようになると、店にいる自分と穂香を客観的に見るようになり、表で会っている自分たちが同じ人間なのかということを意識するようになってくる。
穂香は、三枝に無心するようなことはない。普通店の表で、スナックの女の子と会っている時は、いろいろねだられても不思議ではないが、穂香はねだろうとしない。
――穂香という女性は、甘え下手なのだろうか?
店にいる時も、甘えてくれるというイメージでいけば、穂香よりもむしろ弥生の方が上手だった。弥生と仲良くなって表で会うようになったら、果たして弥生は何かをねだるだろうか?
弥生がおねだりをするような女性に見せないことも確かだ。二人とも一緒にいるだけでいいと言うに決まっている。
三枝も自分から穂香に何かを買ってあげようとは思わない。食事をして、いろいろなことを話す雰囲気は、想像していたのとさほど変わらなかった。店を出てからの穂香は、店で見せていた競争心や独占欲を感じさせない。素直にその場の雰囲気を楽しもうとしているだけだった。
――やはり思った通りだ――
競争心や独占欲は、相手があってのこと、店にいれば、弥生を始め、他の女の子を嫌でも意識してしまうが、一歩店を出ると、普通の一人の女の子。穂香自身も、そのことを強く意識しているのではないかと三枝は思っていた。
三枝の考えは違っていなかった。
穂香の表情は、店にいる時とはまったく違っていた。垣間見れる雰囲気の幼さと大人の妖艶さは変わりないが、そこに結びつく視線が違う。
幼さが表に出て、その奥に大人の妖艶さが見え隠れしている時、穂香は視線を合わせようとはしない。逆に大人の妖艶さが表に出ている時は、三枝を真正面から凝視している。
――営業の時の顔と、普段の顔の違いがここにあるんだ――
と感じた。表で会う時の穂香は、完全に相手を慕っている表情になっているのだ。甘え下手ではあるが、慕いたいという気持ちは人一倍ではないだろうか。他の人が見れば、
「穂香さんは、スナックがお似合いかも知れないな」
と言うかも知れないが、三枝は違った。
――本来の穂香を見てしまったら、スナックの穂香は営業でしかない。逆にその方がスナックでは接しやすいのかも知れないが、スナックに彼女が向いているという考えはないに違いない――
と感じていた。
お店に刑事がフラリとやってきたのは、そんな時だった。
穂香は、三枝と表で会うようになって、自分の心境が少し変わってきたのを感じていた。店の中での自分が、店の外での自分とはまったく違った自分なのだということを再認識していたからである。
刑事が穂香のことに気付いていないようだったが、相手が誰だか思い出してしまった穂香には過去に蓋をすることが自分にはできないということを意識させられたのだ。
その日、三枝は来ない日だった。
表で会うようになると、自然と店に来る頻度も下がってくる。表で会うからと言って、三枝と穂香の間に男女の関係があるわけではない。穂香の方には三枝に抱かれてみたいという意識があるようだが、三枝の方に、一歩踏み込む気持ちがないようだ。それは勇気という言葉で表されるものではなく、どちらかというと、自分の中の「ケジメ」に近いものだった。
それは時が熟していないという思いに近い。障害の一番の理由が時間というわけではない。ここでいう「時」というのは時間という意味ではなく、タイミングということだ。タイミングさえ合えば、思い立ったその時、穂香をホテルに誘うかも知れない。タイミングを計っているのに、穂香がそのタイミングに入り込んでこないようであった。
刑事は結局穂香に気付いていないのか、何も話そうとせず、ビールを飲んで早々に帰っていった。
「おかしなお客さん」
他の女の子が穂香に声を掛けてきた。
皆知らないふりをしながらも、十分に気にしていたのだ。穂香もその言葉に無言で頷くだけで、なるべく男の話題から離れたいと思っているので、それ以上は何も言えなかったのだ。
他の女の子たちは、知らないふりをしながらも、穂香と三枝のことも、じっと見ているのかも知れない。その思いを強くした出来事が刑事の来店だったが、その男が数日後、またフラリと店にやってきた時、その男が最初に来た日よりもビックリさせられた。
同じようにビールを一本呑んで、何も語ることなくすぐに帰っていった。他の女の子は誰もその人に話しかけようとはしない。穂香も視線を気にしながら見つめていたが、二回目の来店の時は、最初の日に比べて、時間があっという間だったようにしか思えなかったのだ。
その日も三枝はいなかった。
穂香は男が帰ってから、次第に不安が募ってきた。その不安がどこから生まれるのか分からない。分からないだけに不安が募るのだ。
理由の分からないことほど気持ちの悪いものはない。もっとも不安というのは、漠然としているもので、理由のある不安と理由がない不安とではかなり気の持ちようが違っている。
この不安は子供の頃によくあったもので、今ではなくなってしまったことが自分の中で、大人になることだと思わせた。
――大人になるとは、一体どういうことなのだろう?
穂香は、自分が本当に大人の仲間入りをしているのかどうか、よく分からないと思っていた。
穂香の中で、何か大人になるには通らなければいけない道があって、それを通っていないような気がしていたのだ。それが分からないから、三枝も自分を大人として見てくれず、抱いてくれようとしないのではないかと思っていた。
その思いは半分は当たっていた。穂香がそのことに気が付いたことで、
「穂香も、だいぶ大人になってきたね」
と言う言葉を掛けてくれた。
「だいぶなの?」
すべてではないことが気に入らないと言いたげであったが、それでも嬉しい気持ちを表して、穂香は三枝に甘えてみた。
「そうだよ。でも、だいぶ甘えることも上手になったようだ」
三枝はやはり穂香の気持ちがよく分かっていて、穂香が言ってほしいことを、ズバリ言い当てる。
そんな三枝に信頼感を深め、同時にそんな自分が大人に近づいた自覚を持つことができていることに、喜びを感じていた。
三枝の背中を見て、その背中を大きく感じる時と、折れ曲がっていて小さく感じる時と両方あったが、その頃になると。大きな背中しか感じなくなっていた。
刑事がやってきたのは、その二度だけだったのだが、一体何をしにきたのか分からない。穂香がここでアルバイトをしているのを聞きつけてやってきたわけではないだろう。
刑事がやってきたことは誰にも話していない。皆不気味な客だとは思っていても、男の素性まで知ろうと思うような人もいないし、今までに一度もその男の話が出たことはなかった。
――本当にその男は存在したのだろうか?
もちろん、少しの間だとはいえ、その男と正対した穂香には、十分な存在感が植え付けられた。しかし、時間が経つにつれ、十分だったはずの存在感が次第に薄れていき、
――これ以上薄れたら、存在すら怪しく思えてくる――
と思うほどのところまで来ていることに気が付いた。
その男を刑事だと思っているから、存在感が消えることはないのだろうが、自分がここまで存在感を感じなくなるほど、印象を薄くしてしまうことができるのだと分かって、信じられない気分である。
もう一つ気になったのは、その刑事が現れた時、決まって三枝がいない時であった。確かに最近は、表で会うようになってことで少し来店が減ったが、その時はまだ週に何度かは顔を見せていた。これも偶然で片づけていいものなのか、気になるところだったのだ。
刑事が最後に来てから一か月ほど経ったある日、店の他の女の子が、穂香に忘れ去ってしまいそうになっていた刑事の面影を、面影だけではなく、クッキリと思い出させるようなことを口にしたのだった。
その日は、開店からしばらく客は誰も来なかった。開店から一時間は誰も来ない時間帯があるのは今に始まったことではなく、その日もカレンダーのめぐり合わせなのか、誰も客が来ない日だった。
穂香が店の用意をしていると、後二人の女の子が急に話し始めたのだ。
「ほら、一か月前くらいに、一人暗いお客さんが来たの覚えてる?」
「ああ、お店がお客さんでいっぱいの時ね。そのお客さんはカウンターの奥で、一人でビールを飲んでいたのを覚えているわ」
カウンターの正面に正対していた穂香のことは話題に出なかった。その男だけが気になって、それ以外は見えていなかったのかも知れない。
「この間、昼間見かけたのよ。その人はお店に来たのと同じようなコートを着て、帽子をかぶっていたわ。本当にあれがあの人のトレードマークっていう感じね」
「それで?」
「その時に、その人が喫茶店に入って行ったんだけど、待ち合わせだったみたいで、店の中には女の人がいたのよ」
「へえ、見かけによらないわね。でもそれだけなら大した話題にはならないんじゃないですか?」
「相手が問題なのよ」
「一体誰なのよ?」
「それがね、よく見ると、弥生さんだったのよ」
「えっ、弥生さんって、ここの弥生さん? でも、弥生さんは病院に入院中ということではないんですか?」
「ええ、私もそうだと思っていたんだけど、その人はどう見ても弥生さんだったのよ」
他の女の子は弥生がどうして入院しているか知らない。自殺を試みたことも知らないので、驚きはあっただろう。二度も入院するのだから、病名は知らなくても、さぞや大きな病気ではないかというのが、他の人のもっぱらの噂である。
そんな弥生が喫茶店で、お店に来たことのある男と会っているというのもおかしなものだ。しかし、あの男が店に何の用で来たのかも分からない。誰かを探しに来たのか、それとも何か事件の証拠でも探しに来たのか。
いや、ただの客だったのかも知れない。店の誰かと知り合いで、その人を訪ねてきた。それなら、声を掛けてもよさそうだが、雰囲気に似合っていなかっただけに、声を掛けにくかったと見るのは贔屓目だろうか。
ただ、それも、今の話を聞くまでだった。
だが、まさか弥生と刑事が知り合いだったなんて、ビックリである。ただ、弥生が入院しているというのは事実だし、退院すれば店に入るものだと思っていただけに、表で他の男の人と会うというのは、おかしな感じがした。
――本当に弥生さんと刑事だったんだろうか?
どちらかが違う人だったとも考えられないだろうか。特に男は怪しげな格好をすれば、店に来た男に雰囲気を似せることはできる。男が来店した時、他のお客さんに構っていた人がそこまでハッキリと確認できるものなのかと、気になっていたのだった。
穂香の中で急に弥生の存在が大きなものになってきた。弥生というと、今までは三枝を意識して考えていたが、今度は刑事も一緒に意識しないといけなくなったことで、弥生の存在が、今までよりも大きくなってきたことは事実であった。
――何か時間を遡って、もう一度最初から考え直さないといけないことができたように思えてきた――
弥生の存在が大きくなったことで、原点に戻ってしまうと、今の自分の位置がどうなるか、不安で仕方がないと感じられてならない穂香だった……。
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