第8話 第8章

 入院している弥生の元に、見覚えのある名前で花が届いたのだが、本人が姿を現すことはなかった。それは弥生が理沙と初めてラウンジで顔を合わせた日の昼間のことだった。

 見覚えのある名前は男性で、その男の名前を見た瞬間、忘れていた何かをいくつか思い出したような気がした。

 名前を見た瞬間、まるで血の気が引いたかのようになった弥生だったが、それが自分を自殺に追い込んだ張本人である高校の時の先輩、つまりは以前付き合っていた人だったのだ。

 頼った相手に裏切られ、失意の淵に落ち込んだ時のことは今でも思い出せる。ただ、思い出したくない思い出であることは事実で、弥生にとっては、

――何を今さら――

 という思いでいっぱいである。

――あの男のせいで、私は前を見ることができなくなり、今を生きることしかできなくなったんだわ――

 そう思うと、自分の今の状況、記憶が欠落していることの原因の片鱗が見えてきたような気がした。

 前を見ることができなくなったことで、前を見ていた時に感じていた意識が記憶として残っていたのかも知れないその部分が、欠落してしまっているのではないだろうか。そう思えば、記憶を喪失したわけではなく、記憶が欠落しているという一段階軽い症状になっているというのも理解できるというものである。

 弥生は、再入院してから次第に記憶に対しての考えが少しずつ変わって行った。

 最初は当然、欠落した部分があることで他に何か身体や精神的な部分で、問題がないかどうかを検査する必要があると思ったのだが、それも欠落した部分を思い出したいという気持ちの強さからだった。

 だが、今はもちろん、身体や精神的な他の部分で問題がないことが前提であるが、記憶が戻らなくてもいいような気がしている。

 記憶が戻る時、欠落した部分に遡って、そこから記憶が形成されることになるとすれば、今の記憶がなくなってしまうのではないかという懸念があったからだ。

 だから、なるべく入院中に感じることは意識しないようにしようと思っているのだが、なかなかそう簡単に行くものではない。特に理沙のことを気にしてしまっている時の自分は、それまでの自分とは違っている。逆にそれまでの自分と違っていることで、記憶が消えることはないのではないかとも思うが、それも可能性としては低いもので、確証があるわけではない。それならば、わざわざ欠落した部分の記憶を思い出す必要もないのではないかと思うようになった。

――記憶が欠落するには欠落するなりの理由があるからだ――

 と考えられなくもない。

 風邪をひいて発熱した時を考えていた。

「熱が出るのは、身体の中にある最近と、身体が戦っているからで、熱が出ている時に、必要以上に冷やす必要はないのよ」

 と言われたことがあった。

「熱が出ているということは身体が発している信号で、決して悪いことではないのよ」

 なるほど、その通りである。

 熱が出た時は却って身体を温めて、上がりきったところで汗に出して熱を放出するというのが、一番の方法だという。

――記憶の欠落も、何か精神が発している信号のようなものなのかも知れない――

 記憶の欠落が、男に裏切られたこと、そして追いつめられて自殺をしてしまったこと、この二つが影響しているに違いない。その思いをさらに強くしたのが、心中で入院してきた理沙を見たからなのかも知れない。理沙は心中した相手を知らないと言ったが、知らない人と自殺しなければいけないほど。追いつめられていたのだろう。そして理沙がそれほど度胸のある女性では無いことは見ていて分かる。やはり一人で死ぬ勇気がないのだろう。

 だが、まわりからはそうは見えないような気がする。

 理沙という女性は、どこかしたたかで、何を考えているか分からないところが、まるで心臓に毛が生えているように見えているに違いない。

 弥生はそんなことは分からない。それは自分が自殺を試みた人間であるからで、他の人の目がまったく自分たちを分かっていないからだと思うのだった。

 弥生に花を贈ってきたという男の心境が、弥生には分からない。

――一体誰が教えたのだろう?

 自分と彼が付き合っていて、裏切られたことを知っているのはママだけだったはずだ。ママがそんなことをするはずもない。

 それにしても、どうして今頃になって存在を知らなければならないというのだろう? とっくに忘れたはずの相手、自分を裏切り、死まで考えさせた相手、そんな相手が、まさに「今さら」である。

 今から思えば、憧れていた先輩は決して紳士的ではなかった。世間知らずだった弥生が彼に憧れたのは、その野性味だった。部活でキャプテンをしているような規格で収まるような人間ではなく、他の人にないところに弥生は魅力を感じたのだ。

 考えてみれば、そんな彼に、暖かく迎えてもらおうなど、矛盾した考えだった。男の方としても、

――好かれたから、好きになってやっただけだ――

 というくらいにしか思っていないに違いない。常識以前に、モラルが欠如した人間だったのだ。

 それでも田舎で付き合っている時は楽しかった。相手に尽くしている自分に酔うことができたからだ。だが、それが相手を増長させたのも事実、

――俺の魅力があの女を従順にしたんだ――

 と思っていたに違いない。

 まるで主従関係のごとく考えていたとしても不思議ではない男に、暖かさや優しさなどありえない。

――裏切られた――

 と思っていたが、そうではない。そんな男を好きになってしまった自分が悪いだけなのだ。

 しかし、それでは自分が情けなさ過ぎる。

 それを認めたくない自分、そして、まわりがそれに気づく前にこの世から消えてしまいたいという気持ちが働いて、自殺までしようとしたのだろうか?

 あんな男のために死ぬなんて、こんなバカバカしいことがあってはたまらない。弥生が今あの男のことから立ち直ろうとしているのは、そのためだった。

――せっかく立ち直ろうとしているのに、どこまでもあの男は私の前に立ち塞がろうとするの?

 自殺をしてしまった後悔を、やっとこれからの生きる糧に変えていこうとしているところで、今さら出てくるなど、なんて自分が運に見放されているというのか、弥生は何を恨んでいいのか分からなくなった。

 一つの障害を乗り越えて、一つ一つ成長していくことが生きることだと思って、やっと前を向こうとした矢先である。

 しかも、花束を贈ってくるなんて、一番似合わないことをする男、白々しさに顔が真っ赤になってくるのを感じた。

 男は、ナースセンターにやってきて、花束を渡したという。渡されたナースに話を聞いてみたが。

「愛想のない男性で、こちらの顔を見ようとしないんですよ。帽子もかぶっていたし、どんな顔だったかって言われると、思い出せないくらいだわ。とにかく暗い男で、挨拶の仕方も知らないような男だったわ。そんな人が花束を持ってくるなんて、不釣合いなことをするもんだって思いましたね」

 弥生が、花束を持ってきた男の話を聞く時、少し苦虫を噛み潰したような表情をしたことで相手も悟ったのか、思っていることを、正直に話してくれた。実は、これも弥生の誘導尋問で、自分が訝しいと思っている相手の話であれば、もし、気分を害されたとすれば、きっと正直に話をしてくれるだろうという思いがあったからだ。弥生の考えはドンピシャとあたり、彼女は遠慮せずに思ったことを口から吐いた。

 普通、人の悪口を聞くのは、いくら気に入らない相手であっても、気分のいいものではない。しかし、ことがあの男のこととなれば話は別だ。

――どんどん悪口を吐いてほしい――

 そうすれば、少しは自分の気が晴れるというものだ。普段はこんなに過激な発想を持つことはないのに、あの男は、どこまでも嫌な相手ということになるのだ。

 弥生は、あの男に自分の中にある何かをぶつけることで、前に進める気がした。今までなら、こんなことはしたくないと思っていたのだが、きっと自殺を試みて、果たせず戻ってきたことで、できるようになったのかも知れない。これまでできないと思っていたことも、自殺を果たせなかったことでできるようになったこともあるかも知れない。今は気付かなくとも、近い将来、絶対に気付くはずだと、弥生は感じていた。

 その男がやってきた時、ナースステーションには、あまり人がいなかった。応対してくれた看護師さんだけだったというが、まわりに人がもっとたくさんいたら、どんな雰囲気だったのだろうと思うと、不思議な気がするのだった。

 男の風体は明らかに異様だったという。暗い雰囲気が全体で漂っていて、誰が見ても、気持ち悪いというだろう。

 しかし考えてみれば、少しおかしい。

 弥生が知っているあの男は、常識を逸脱した男ではあるが、暗く異様な雰囲気を漂わせる男ではない。人をイライラさせるほど人を食った性格の男に、そんな暗い雰囲気が漂うわけがないのだ。誰もいない時に現れたというのも、その時でなければいけない何かがあったのかも知れないと思うと、男が何者だったのか、弥生には気持ち悪さしか残らない気がした。

 今まで、弥生の知っている男に、話に聞いた陰湿な男がいなかったわけではない。スナックに来る客の中で、弥生がもっとも苦手とする客がいた。

 今まで、言われたくないようなことを言われて、一人落ち込んでしまったことのある客もいたが、そういう客とは違い、その男は何も喋ることなく、一人で隅の方でウイスキーロックで呑んでいる。

 話しかけられる雰囲気ではなく、ママですら、放っておいているようだ。客はいつも一人で来ていて、その客が来る時は、絶対といっていいほど、他に誰も客はこないのだ。

 まるで疫病神のようだが、文句をつけるわけにはいかない。一応、ちゃんとお金は払うし、あからさまに迷惑を掛けているわけでもない。ただ、見ていると、何かこの店の、その席に座らなければいけない理由のようなものがあるように思えてならないのは弥生だけではない。ママが何を考えているのか聞いてみたいのだが、その客の話題は、完全タブーが暗黙の了解になっていた。

 それは、その客が店にいる間でも、店にいない間でも同じことで、話題にすること自体が、何かよからぬことを呼び寄せるからではないかと弥生の中で勝手な想像を巡らせていた。

 弥生は、子供の頃を思い出していた。似たような人が、家の近くに住んでいたのだ。

 その人は、バラックのようなところに住んでいて、最初の頃は近所の人に媚を売って、何か食料を貰って生活していた。

 一人で暮らしていて、どうしてその人がそんな暮らしをしているのかなど、誰に聞いても教えてくれない。

「子供はそんなこと知らなくてもいいの」

 と、イライラしながら言われたが、それを、子供心に額面通りに受け取り、

――知らなくてもいいことなんだ。知っちゃいけないんだ――

 と思っていたが、今思えば、大人が話をすることを面倒臭がっていただけのことであった。

 話をすれば、子供は必ず質問してくる。ただでさえ話題に出すことすら億劫な存在なのに、いちいち質問されたのではたまらない。何をどう答えていいか分からないからに違いない。

 何を質問していたか想像もつかないが、弥生も必ず質問していたに違いない。

 その男が次第に変わって行った。

 今まで媚を売って生活をしていたのに、今度は誰とも話をしなくなり、じっとバラックに閉じ籠ったままで出てこなくなった。

 誰もがホッと胸を撫で下ろしたことだろう。

 しかし、数か月後、その人が部屋の中から死体で見つかった。誰もが気持ち悪そうな顔をしたが、それからしばらくして、街の人間の雰囲気が異様になっていった。それまで世間話をしていた人たちが、誰も話さなくなり、街には誰のことも干渉しないというような空気が流れていた。

 明らかに男の死体が見つかってからだ。

 誰かが殺したというわけではないのに、皆それぞれが疑心暗鬼になってしまったかのようで、お互いを疑い始めた。

――俺が死んでも、誰も見つけてくれないんだろうな――

 という思いであろうか。きっと大人は皆誰のことも信用できなくなったに違いない。その中には自分も含まれていて、自分自身も信じられなくなったら、おしまいだということを知ってか知らずか、異様な雰囲気の中、誰も何も口にしなくなってしまったのだ。

 そんな雰囲気がどれほど続いただろうか。子供たちにも伝染してしまったようで、弥生を始め、孤独を嫌だという感覚になることもなく、感覚自体がマヒしてしまったのではないかと感じるのだった。

 子供の頃にそんな経験をしているので、暗い人がいると近寄らないようにしている。

 弥生が親と大ゲンカした時には、街の雰囲気は元に戻っていた。弥生が先輩を好きになったのは、そんな暗さをまったく感じさせない人だったからで、それが都会に出てくると裏目に出た。ここまでの人だったことに田舎にいる時は気付かなかったのだ。

 しかし、先輩のこの性格も、元を正せば、暗い人が、一人で孤独に死んでいった時にまわりの陰湿な雰囲気の影響を、自分なりにどうすれば受けないかということを考えて出した結論が性格として現れているのかも知れない。

 そういう意味では、彼も被害者だった。

 あの時の当事者、死んでいった人が本当は一番可哀そうなのだろうが、それ以外の人も大なり小なり、何らかの影響は受けているはずである。心の中にトラウマが残った人、まわりが信用できずに孤立してしまった人、孤立してしまった人の家族への八つ当たり、ちょっとしたことから一触即発になったことも少なくなかっただろう。

 今の弥生なら、少し分かるような気がするが、肝心なこととなると、闇の中であった。それが記憶を欠落させる原因になっているに違いない。

 弥生にとって田舎での子供時代は、あまり覚えておきたくない時代だった。実際に忘れてしまいたいと思ったことで、思い出すことはないのだが、都会に出てきて、その思いが少し違うことを知った。

――思い出したくないことほど、思い出してしまうものだ――

 ということを感じた。

 ということは、記憶の欠落は今に始まったことではなく、子供の頃からの延長ということになる。根本から考え方を変えないといけないのかも知れない。

 欠落した記憶には、トラウマが背中合わせに存在しているのかも知れない。子供の頃の思い出は、常にトラウマを意識させられるものであった。子供に対してはなるべく大人の世界を見せたくないという大人の気持ちがある。それは子供に対しての配慮なのか、それとも、大人の世界を見られたくないという大人のプライドのようなものがあるのかも知れない。

 だが、そんなプライドは子供にとって関係のないものだ。大人がトラウマに感じることがあるのなら、大人が感じているものと違うトラウマが子供に残ってしまう。たとえば、大人の世界を隠そうとする大人へのイメージが、そう感じさせるのだろう。

 弥生の中で、大人に対してのトラウマが爆発したのは、父親との大ゲンカの時だったかも知れない。

 ケンカになってから、弥生は自分が何を言ったのか覚えていない。無意識での言葉も多く発せられたに違いないし、必死になった時の自分が、トラウマの爆発を伴うことにその時、ウスウス気付いていたのかも知れない。

 父親に対して必死になった弥生は、今でも父親を避けているのが分かる。

――言い過ぎた――

 という思いがあり、本当は自分から折れなければいけないのだと感じているのだが、自分から折れてしまうと、必ず田舎に呼び戻されてしまうだろう。

 本当は田舎に戻った方がいいのかも知れない。

 しかし、自殺のことは田舎には知らせていない。警察も二十歳を超えているのと、誰かを巻き込んだ事件というわけでもないので、連絡先をママのところにしてくれたことで、親に知られることはなかった。

 田舎でのいきさつを少しは知っているママなので、警察からの連絡先になってくれることを承知してくれたことはありがたいことだった。

 そういえば、警察と言えば、理沙にいろいろ聞いていた坂田刑事が気になっていた。坂田刑事は、理沙の心中に何か不自然さを感じているようだが、弥生にはそれがどこから来る者なのか分からない。

 むしろ、心中の方が一人で自殺するよりも、よほど理に適っているかのように思えるほどで、なぜそんなことを思うのかは、それだけ自分の気持ちの中に寂しさが募っているからなのか、それとも、欠落はしているが思い出せる部分での子供の頃のトラウマが、影響しているかも知れないと思うのだった。

 以前は心中というのが多かった時期があるという。

 戦後間もない頃のようだが、その頃と時代は違って、死のうとする時は、一人で死を選ぶ人が多くなった。それはそれだけ、一緒に死のうと思う人がまわりにいないからなのか、人と一緒に死ぬことは、自分がその人を巻き込んだようで嫌な気分になったまま死ぬことになるからなのか分からない。

 時代の流れと言ってしまえばそれまでだが、今の世の中、

――隣は何をする人ぞ――

 という通り、死ぬ時も、

――無関心な相手と死ぬなんて、まっぴらごめんだ――

 と考えているからに違いない。

 弥生は、理沙に興味を持っている自分が、理沙という女性に興味を持っているのと同様に、心中ということを気にしていることに気付き始めているのではないかと思うようになるのは、それからすぐのことだった……。

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