第7話 第7章

 理沙が心中した相手と出会ったのは、三か月前だった。その日は馴染みのバーでいつものように呑んでいた。普段から一人の理沙は、夕食をそのバーで済ませることが多く、特に仕事でストレスを抱えた時、バーの食事と適度なアルコールが、慰めとなっていたのだ。

 バーに行き始めたきっかけは、人からの紹介というわけでもなく、一人でフラッと寄ってみたのがきっかけだった。

 理沙とバーのマスターはすぐに意気投合し、話もよくするようになっていた。そのバーに行き始めたのは、三年くらい前からだっただろうか。本人は三年も経っているという意識がないほど、この三年間はあっという間だった。

 仕事は事務関係だったので、毎日にあまり変化がなかった。普段は家と会社の往復ばかりで、たまにバーに立ち寄るくらいで、それ以外はどこに寄るというわけでもなく、当然出会いなどあるわけもない。

 出会いがなければ、楽しみなどあるはずもなく、それだけにバーに来る日は、マスターとの話に花が咲かせることだけが楽しみだった。

 話をしていると、楽しい時間ほどあっという間であるということを、今さらながらに知らされた気がした。

 逆に言えば、理沙は居酒屋や、スナックなどの店にほとんど寄ったことがない。会社の忘年会で居酒屋に行くくらいで、それも喧騒とした雰囲気に馴染めず、辛いものにしかならなかったのである。

 いつの間にか一人でいることが当然と思うようになっていた。バーのマスターと話をすることは、自分の別の世界のように思っていたからだ。バーに行こうと決めてから、その日は最初から普段とは違う日だという意識を持って望んでいた。特別な日であることには違いないが、その日は自分にとって、「別世界」だったのだ。

 別世界にしてしまう理由はちゃんとあった。

 普段と同じ意識でバーに行く日を迎えていたら、その日の始まりから、バーの中での途中の時間まではいいのだが、途中から急に我に返ってしまう。

――明日から、また普通の生活に戻るんだわ――

 と思ってしまうと、普段から一人でいることを自覚しているつもりのくせに、その時だけは、寂しさがこみ上げてくる。

 しかも、普段から、

――自分は一人だと自分に言い聞かせている――

 という意識があるだけに、その気持ちが、本当の気持ちを抑えているのかも知れないと思うと、楽しい時間が過ぎ去ってしまおうとする時間に、無性に寂しさを感じてしまうのだ。

――抑えが利かなくなる時が、私にも存在するんだ――

 と思う瞬間であり、理沙は自分の性格を呪うくらいに苛立ちを覚えてしまうのだった。

 バーのマスターは、三十歳代後半で、三十歳くらいまで他のお店で修行して、今のお店を出したという。客の入りはあまりいいとは言えないが。マスターを慕ってやってくる客も少なくないという。

 理沙もその中の一人だが、マスターに対して、なぜか男性としての意識はなかった。マスターに男気がないというわけではない。むしろ理沙のまわりの男連中にはない野性的な部分を醸し出されていて、男らしさという面では十分だった。

 それなのに付き合ってみたいなどと考えないのは、兄のような雰囲気、さらには父親のような雰囲気すら感じさせるからだった。一緒に話をしていて、

――この人のいうことなら信じることができる――

 と思えるのは、他にはいない。

 マスターと理沙の関係は、親子関係に近いかも知れない。本当の親子ではないことが理沙にはちょうどいい。他の客がマスターを慕ってやってくることにも嫉妬を抱かないのは、本当の親子ではない父親を見ている感覚だったからなのかも知れない。

 理沙にとってマスターと自分との関係は、他の人には理解できないものだという感覚もあり、しかも、マスターも同じように感じてくれているという一種の絆が、理沙の毎日を支えていた。

 だから、理沙にとってはその日だけは別世界なのだ。

――普段の自分にさえも犯すことのできない一日――

 だと思っている。

 その頃から、理沙は自分が二重人格ではないかという意識を持っていた。別世界を意識することは、二重人格という疑念を拭い去るためにも重要な意識だった。

 理沙がバーにいる時、他にお客さんがいないわけではない。だが、バーには一人で来る客も多いというのに、理沙が来る日はほとんどが、カップルだったり、女の子同士だったりの客ばかりだった。

 理沙は大学時代にも馴染みの店があり、そこは喫茶店だった。毎朝学校に行く前にモーニングセットを食べるのが恒例で、その時は人と話をすることはなかった。置いてある雑誌を片手にコーヒーを飲んだり、トーストを口に運んでいる。馴染みの店とは、そういう存在だったのだ。人と話すというよりも、むしろ一人の時間と空間を楽しむ、バーでの時間とはまったく正反対だった。

 マスターもそんな理沙を気に入っていた。

「バーというところは、普段の生活に疲れた人が、休息を求めて、隠れ家として利用してくれるのが嬉しいところなんだよ。だから、なるべくおいしいものを提供し、憩いの時間を楽しんでほしいというのが本音だね」

 というのが、マスターの意見だった。

 そういうことであれば、理沙も思い切りリラックスした気持ちになりたい。自分の求めていることを、相手が与えてくれて、しかもそれが癒しであり、癒しを感じることを喜んでくれるなど、話を聞いているだけで、包み込まれるような心地よさを感じる。

 精神的な快感は、肉体的な快感と違い、くすぐったさだけでも全身を駆け巡るのを感じる。

――お金を払ってでもそんな時間を与えてくれるのなら、最高だ――

 と感じるのだ。

 そんな理沙がいつ頃からか、幸せが飽和状態になってきているようだった。

――幸せボケ――

 というには、大げさだが、せっかく別世界として自分の中で区切りを付けていたはずの感覚が、曖昧になってきたのが原因だった。

 スナックでの世界が別世界として幸せを感じていたのだが、自分が思っていたよりも、早く別世界が「溢れて」きたのだ。

 溢れてくると自然と普段の生活の中で、溢れ出た「別世界」を意識してしまう。普段の自分の中に幸せいっぱいの自分が同居することによって、一度は忘れてしまった二重人格への思いが顔を出すようになってくる。

 別世界が溢れてきたという意識が最初の頃はなかったので、別世界では幸せは相変わらずなのに、普段の生活の中で、急に降って湧いた二重人格だという意識が理沙の中で心境の変化を一気に醸し出すようになっていた。

――私が二重人格だなんて――

 別世界の自分もいるので、意識的には三重人格だ。二重が三重に増えたことで、それだけでは収まらないという思いが。多重人格を仄めかしているように思えてきて、理沙は次第に自分が分からなくなっていくのだった。

 自分が分からなくなると、そこから先は、坂道を転げ落ちるようなものだった。今まで何も意識していなかった人が信じられなくなったり、人が信じられないと、仕事もうまくいくはずもない。怒られて何も言い返せない自分が腹立たしくなり、一度自分が腹立たしくなると、そこから先は席を切ったように、自己嫌悪が潜在しているようになる。

 自分が信じられないのに、人が信じられるはずもない。せっかくの別世界で幸せだった気持ちが、別世界ではなくなってくるほど、バーに行っても楽しくなくなってきた。

 次第にバーにも立ち寄らなくなる。すべてが悪い方に展開していき、

「まるで天中殺だわ」

 と、諦めの境地すら生まれてくる。

 その時、自分が鬱状態に陥っていることに気が付いた。学生時代に一度鬱状態に陥ったことがあったが慢性化しなかった。すぐに鬱状態だった頃のことを忘れ、さらに鬱状態だったという事実さえも、

――ウソだったんじゃないかしら?

 と思うようになっていった。

 鬱状態というのは、何をやっても楽しくなく、すべてが悪い方に向かい、まわりの人が近寄ってくるような気がして、反射的に逃げてしまうような状態のことだと自分で思っていた。

 そのうちのどれが一つ欠けても、鬱状態だとは言わないと思っていたが、その時は、すべてが理沙の中にあったのだ。

――鬱状態って、本当にあったんだ――

 今さらながらに思い返したその時、そのまま死んでしまおうなどという思いがあった。もちろん、初めて感じたことであり、本当に死ぬようなことはなかったが、もしその時に死を意識することがなければ、心中などという結果を引き起こすことはなかったのではないかと思う理沙であった。

 理沙が一緒に心中することになった男、名前を理沙は知らないが、彼と知り合ったのは、気分転換のつもりで久しぶりにバーを訪れたその日だった。

 バーではいつものようにマスターがカウンターで洗い物をしていたのだが、その日は珍しく他にお客さんがいた。

 珍しいという表現はおかしいかも知れない。そう感じるのは理沙だけで、いかにも自分中心の考え方だ。以前は来る曜日も大体決まっていて、その曜日に客がいなかっただけで、他の曜日に客がいるかも知れないということは分かっていた。しかし、いつの間にか自分が来る日は他に客はいないという考えが凝り固まってしまったのは、

――幸せな気持ちの時は、まるで自分中心に世の中が動いている――

 という錯覚を覚えるからだ。

 その日はいつもの曜日と同じであった。久しぶりとは言いながら曜日を変えるのは自分の中で気持ち悪かったからだ。店に入って飛び込んできた光景で気になったのは、そこに人が一人いたからではない。それよりも何よりも、店の中が小さく感じられたからだった。

 しかも、元々暗い店内だが、さらに暗く感じられたわりには、色はハッキリと見えた。

 緑に見えたものが真っ青に見えたり、赤い色もまるで血の色のように真っ赤だった。ワインカラーをイメージしていた自分が、目に刺激を与えたくないという意識があったからではないかと思ったが、目の前に広がる景色に前と一部の違いもないくせに、まったく違って見えるのは、なぜなのだろう?

 見えていた光景は、以前であっても、角度を変えるとまったく違う光景に見えるのではないかという思いはあった。だが、どのように違うのか、理沙には分からなかったが、実際に見てみると、以前に違った角度で見てみようと思わなかったことが悔やまれる見え方だった。

 客は男の人で、丸めた背中は小さく見えて、そのせいで、身体も小さな人だということは一目瞭然だった。

 理沙が入って来ても、まったく意識することはなかった。後ろを振り向くこともなく、後ろに何があろうと、カウンターについた肘をのけることがないだろう。

 マスターも最初に理沙の顔を見て、一瞬ホッとしたような顔をしたが、すぐに洗い物を始めた。

――どうして、そんなにそっけないの?

 最初のマスターの態度を見て、

――私って、ここにいてはいけない人間なの?

 と感じるほどだった。

 一瞬返しそうになった踵を思い止まると、決意が鈍る前にと思い、急いで指定席に腰かけた。

「マスター、いつもの」

「はい」

 マスターがチラッと、横の男性の顔を盗み見たのを、理沙は見逃さなかった。

――マスターは、もう一人の客に気を遣っているんだわ――

 と思うと、この客が常連ではないことを表していた。ただ、一見さんにも見えなかった。理沙がこの店から遠のいてからの一か月とちょっとくらいだろうか。それだけの間に常連になろうとするなら、愛想の良さが不可欠であろう。

「理沙ちゃんは、体調よくなったかい?」

 店に来なくなったのはいきなりだったので、マスターには本当の理由は分からなかったはずである。一番考えられることで、しかも、一番訊ねやすいのが体調を崩すことを理由にすることだったに違いない。

「ええ、何とか大丈夫です」

 理沙もその言葉に合わせた。合わせることが、この場では一番いい選択だと思ったのは、カウンターの男性がどんな人か分からないということと、マスターが気を遣っているということで、話を曖昧なままにしておくことが一番いいと思ったからだ。

――まったく知らない人に、精神的なことを言っても仕方がない――

 と思ったからで、まさか、その後、この男と心中してしまうようなことになろうなど、想像もしなかった。

 今から思えば、どうして死のうなんて思ったのか、自分でも不思議だった。いや、自分が一番不思議なのだ。

 その男の横顔は不気味としか思えなかった。なるほど、最初に感じた通り、身体は大きくなそうだ。飲みながら何を考えているか分からない様子に、

――今日はすぐに帰ろう――

 と思った理沙だった。

 それがすぐに帰らなかったのはなぜだろう?

 この男には、理沙を引き付ける何かがあった。

――もし、彼も私と出会わなければ、死のうとまで思わなかったのかも知れないわ――

 と、思った瞬間があったが、それがいつだったのか、意識が戻ってすぐに思い出せなかった。今から思えば、それを悟ったのは、男の異様さに気が付いた時だった。

――この人を見ていると、何でもいうことに従わなければいけない気分にさせられる――

 まるで主従関係のような感覚を持ったのだ。初対面でありながら、決してこちらを見ようとしない横顔を見ていると、本当に初対面なのか分からないという気持ちにさせられる。主従関係というよりも、従属関係。男が言う理沙に対しての言葉はすべてが命令で、それに逆らうことのできないイメージ。それは理沙が男の奴隷であるかのような錯覚に陥ったからだった。

 理沙は、その時のことを思い出してると、まわりが心中だと言っているけれど、理沙はいくら男が命令したからと言って、死ぬところまで行くわけはないと思っていた。少なくとも理沙が死のうとしたのであれば、死を決意するための理由がどこかにあったのだろう。しかし、その思いは見当たらない。

 そういえば、以前自殺について変な話を聞いたことがあった。

「自殺というのは、伝染するらしいぜ」

「えっ、伝染? それは誰かのまわりで一人が自殺すると、その人が知っている人が近い将来に自殺するというような感じかい?」

「そうだね。伝染というよりも、連鎖反応と言った方が正確かも知れない。列車の人身事故だって続いたりするじゃないか。人身事故なんて、そのほとんどが自殺だっていうぜ」

 確かにその通りだ。

 理沙も人身事故のほとんどは自殺だということを耳にしたことがある。そして、人身事故というのは、一度あったら、数日続いたりするものだ。ひどい時には、同じ日に何件も人身事故がある。これはただの偶然として片づけてもいいものなのだろうか?

 理沙は、大学に通っている時、特に人身事故が多かったのを覚えている。すぐに電車は運休になるし、何時間も電車が遅れても、駅員はまるで他人事、お客さんの中には大声で怒鳴り散らす人もいるが気持ちは誰もが同じであろう。

「人身事故なんだから、しょうがないじゃないですか」

 これが駅員のセリフである。

「ふざけるな!」

 利用者が叫ぶ。まさに誰もが同じ心境なのか、駅員に鋭い視線を浴びせている人も少なくない。

「人身事故が多いなら多いで、お前たち、それに対しての対策くらいは立てているんだろうな」

「もちろん、本部の方でやっております」

 と駅員は詰め寄られながらも、必死に挽回を試みるが、説得力はない。

「やってるなら、そんな他人事のような態度は取れないだろう。きちんと乗客に説明もしないで、お前たちには説明責任はないのか?」

 これもその通り、電車が遅れても、信号停止で止まっても、五分経っても車内放送の一つもない。客は黙って座っているが、中には苛立っている人もいる。急いでいる人も一人や二人ではないだろう。

 乗り換えもあれば、商談や待ち合わせで時間が限られている人もいるだろう。それなのに、途中の駅で数十分も待たされて、乗っている電車が一時間近く遅れていても、

「遅れております、後続の特急列車の通過を待っての発射となります」

 という放送。

「ふざけるな」

 客が我慢できずに最後部の車掌室に怒鳴り込んでいく。

 客は、説明不足だと言って怒っているが、車掌は頭がパニックになっているのか、ただ謝るだけだ。これでは、

「危機管理がなっていない」

 と言われても仕方がないだろう。

 理沙は、救急車で運ばれ、ベッドの上で気が付いて、どうして自分がそこにいるのかを看護師に訊ねた時、

「あなた、心中なさったのを覚えていないんですか?」

「心中?」

 自殺ならいざ知らず、心中という言葉に反応したのだ。相手が誰かも想像できなかった。まさかあの時の男だなんて、一体何があったというのだろうか?

 記憶を失ったとも聞いたが、目が覚めてまったく何が何か分からない状態、

――いずれ意識が戻った時に、ハッキリするわ――

 と思っていたが、そんなことはなかった。

 理沙は、ハッと気が付いて、目を覚ました。

「夢だったのかしら?」

 そう、バーのことも、一度店に行くことから離れて久しぶりに行くと、そこに見知らぬ男がいたこと。そしてその男と心中したのではないかと思ったこと。

 看護師に心中と言われて驚いたのは、心中する夢を見たことがあったが、それがその時の男だったということ。そこまで目が覚めて感じたその時は、弥生と初めて話をする、ほんの少し前のことだったのだ……。

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